第六話
仁は夢かと思った。
隣に恵がいて、二人は酒を嗜んでいたから。
クライアントとの会議を終えて、一日の業務を終えたあとも仁は今日中に来る連絡を社内で待とうと思った。万が一連絡を貰えてもなにかの修正依頼が来た時に瞬時に対応出来るようにだ。
部下たちには定時で帰るように言っておきながら彼は定時から二時間過ぎた夜の八時だというのに、一人、都市開発営業部のフロアに残って別の仕事に打ち込んでいた。時折恵を思い出しては浮かれてしまいそうになる。
「(相変わらず、綺麗だったな)」
既に心は彼女に奪われている。
正確にいえば彼女以外に奪われることがそもそもない。
それでも仕事は仕事と割り切っていた仁は八時を過ぎた頃、スマホが震えた。一通のメールで恵の案が通ったという内容で、細かい話はまた後日。という至ってシンプルな内容であるが仁は「よっ……し」と小さく声を漏らして椅子にもたれかかって、今日はもうすることが無いと思い荷物を片して帰る準備を整えてエレベーターに乗り込んだ。
誰もいないビルは静かだと思う頃、三階でエレベーターが止まる。
三階は社長室や役員会議室に経営企画部などといった重要なフロアで、あまり一般社員が立ち入ることは少ない。その為、ドアが開いたということはその関係者かと思ったが、現れたのは恵だった。
「お疲れ様です、境井主任」
「お疲れ様です狭間さん」
驚いた様子の仁に社長に初めての仕事だったからどうかという話を聞かれていたのだと素直に告げる彼女に、あぁ彼女は知り合いで、志村が恵に対して多少気にかけていることを思い出す。
納得しつつ、もう帰りですか?と軽く話をする。
「先程連絡があり、OKが出ました、細かいことはまた後日ですが、本当にお疲れ様です」
「本当ですか?よかった……正直不安で帰るのに悩んでいたんです」
「そうだったんですが、お伝え頂ければ連絡したのに」
「いえいえ、勝手な心配ですから大丈夫ですよ」
仁が心配していたように、恵が心配するのは当たり前で、そもそも仁よりも恵の方がきっとずっと不安で心配だっただろう。
転職をしてきて早速の大型案件、他の部署や課であれば研修期間で、社の雰囲気や人を覚えていく時期なのに恵は来て早々から即戦力としてデザイナーの仕事を任された。それが仕事であり、当初入社一ヶ月もない彼女を本当に使うのかという意見も出て、意匠デザイナー室は社長直々に意見を貰うこともあるため、会社の顔となるが問題ないかと聞いた上で合うなら積極的に採用しろと言われた。その為に雇っているのだから当然だ。
右も左も分からない中で大型案件となった彼女に付けたのが仁であるのは大当たりだった。実際に仁は恵と揉めることはなかったし、反対にかつての夫婦としての空気感のせいか互いに言葉にせずとも通じるところがあるほどだった。
デザイナーとして営業はよく揉めることがある。
求められるデザインをしたいのに予算都合で許可しない営業、さらにデザインの良し悪しはその人の好みであるため、全く理解できないというように営業が跳ね除ける場合もある。
しかし、そうしたことを重ねた末に絆が生まれるのもまた事実。
この人はいいけど、あの人は、なんていうのが出来てしまうのも、その人と仕事をしたかどうかによる。つまりは相性なのだ。
だが恵と仁の相性はピッタリで、周りから見てもまるで長年仕事をしていたようだと言われるほどで、仁はそれを言われる度に適当に流していたが、当然だと感じた。過去だとしても恵とは夫婦だったのだから。
しかし、それを胸の内にだけ留めた仁は大抵こうした大型案件に一段落すると同じチームの仲間であれば食事に行ったりするものだが、デザイナーとはそうしたことはない。今回は偶然、仁が恵を担当したが決して専属でもないため、今後こんなにも親密に仕事をするかどうかも分からないとなると仁は少しだけ考えた。
「そういえば、意匠デザイナー室やそちらで歓迎会とかはされたんですか?」
「あまりそういうのはしませんね、軽くお菓子を食べたりしてお話をした程度で」
「苦手ですか?」
「大人数は苦手ですけど、祝われること自体は別に」
何かあるのだろうかと恵が思っていると、仁は意を決して、飲みに行かないかと誘った。あくまでも今回の件でお互いによくやったという名目であり。二人きりにはなるが気まずければ別の時に今回の件に関わった営業とデザイナーを含めて、と念を押したが、今日は金曜日であり恵自身も特に用事もないため、仁であれば二人で飲みに行くのも悪くはないと思ったのか二つ返事で了承をした。
エレベーターは一階に辿り着いたが、恵はジャケットを忘れているから取りに行くので待っていて欲しいと告げて慌ててまた上がってしまい。仁は直ぐにスマホを開いて、何処に行くべきかと考えた。
考えた結果、居酒屋"小茂田"に来ていた。
理由はちょうど二人の間のようで、恵は会社から四駅先で、仁は三駅先、ちょうど手前であり、帰りもそこまで困る場所じゃないからと、仁は告げて悩んだ挙句、小茂田に連れてきたのは味と雰囲気は確実な店だったからだ。
今の彼女はわからなくても、多分嫌いではないはずと考えて、下手に気取った店や大衆居酒屋で騒がしくするなら、味も確かで見知った店がいい。それにゆなやたかにも彼女を一度は見せたいと思ったのだ。
割烹創作料理を売りにしているため、見た目も和風なその店にやってきた仁は慣れたように戸を開けると店内は既に大勢の客で賑わっている。カウンター八席、テーブル十席の店内はたいして広くは無いが、住宅街寄りにあるのによく繁盛している。近所の客はもちろん、料理と酒の評判から来る客も後を絶たない。
時折、テレビや雑誌の取材を求められるが、こじんまりとした経営を求めているゆなはそれらを断るが、近年SNSが盛んな時代には、知らぬうちに拡散されて客が増えてしまうほどで、一時期は入れないほどになりかけたが、テーブル席を新規に、カウンターは基本的に常連のみ。というやり方に変えて、混雑時には二時間だと説明するようになればマシになったものだ。常連も混雑していれば無理に滞在せず、気持ちよく酒を飲めばさっさと帰るため、店は繁盛していても回転率もよく、それがますます人気の一つだろう。
そんな店の戸を開けた仁にゆなは顔を見るなり、普段通りにしようとしたが、その背後にいる女性をみて目を丸くした。
店内は混雑しているため難しいかと思うものの、ゆなは念の為にといつも常連客用に開けているカウンター席二つを慌てて用意してやり、仁と恵を座らせた。
「こんばんは、境井さん……あれ、そちらは」
「仁、あんた連れてくるんだったら先にいいなよ」
小皿と箸とコースターを用意するゆなに、カウンターの中のたかまでも驚いたように仁をみる。彼がこの店に通い始めてもう五年以上だが女性を連れてくるのは今回が初めてだ。
そもそも彼は自分のテリトリーにあまり他人を不用意に入れたがらない。小茂田の店に来る客同士はいいが、会社の人間を連れてくることなどは有り得ないに等しい。
それが同じようなスーツを着た女性、しかも近頃彼は恋に悩んでいた。ゆなは以前の恵を知っていたため、その見た目と雰囲気で直ぐに彼女が何者かを察した。ドリンクはと問いかけるゆなに仁はビールでもと考えるが恵はメニューを見た。
「日本酒が豊富ですね」
「あぁこだわっている方だと思うが、好きなのを飲んでもらっていい。酒じゃなくてソフトドリンクでも」
「あぁいえ、境井さんは何を飲まれてますか?」
「仁のやつはボトルだよ、せっかくだ、ここでしか飲めないんだし飲ませてやったらどうだい?」
「ゆな……余計なことをいうな」
ゆなはお節介にも仁がボトルで置いている"白嶽"を見せた。
そうすると恵は目を輝かせるもので、仁は驚きつつも飲みたいのか?と聞けば、島外で見るのも珍しい上に日本酒が好きだと言ったため、ボトルと徳利とお猪口を二つ貰った。
"白嶽"は国の天然記念物にも指定されている対馬の霊山の名前から取られたもので、その島、唯一の酒造から造られた酒である。
創業百数年であり、仁が生きていた頃には無かったが、作り方はあの頃のものが受け継がれており、飽きのこない甘口で大層上品な味だった。女性にも好かれており、いつでも飲みやすい味だが、島内のシェア率は約八割とされており、島外に出るのはごく一部。
この店にやってくるのはゆなのたかが対馬出身であり、そこの酒蔵で働く賢二と幼い頃からの友人であるからだった。仁も今世では親しんでいた銘柄が本土でも飲むことができることを大変有難く思っており。
この店に来る客の一部はそうした対馬の味を楽しみに来ているのだった。
そうして恵のお猪口に注ぐと、恵は慌てて仁から徳利を貰い丁寧に注いだ。それはかつての晩酌を共にしていた時のような姿で懐かしく眺めてしまう。
「お疲れ様でした」
『お疲れ様です』
声も、言葉も、表情も変わらない。
表向きは何も変わらないのに、その内面は全て違うことが寂しい。
ゆなもたかも必要には絡まず、料理はどうするかと聞くが悩んだ末に恵に好みやアレルギーの問題がなければ、全てたかに任せようと言った。
ゆなとたかは幼くして両親を失い施設で育てられた。
その施設内でもあまり良い暮らしが出来ず、高校生になると同時にゆなは働き始めて、すぐにたかを連れて出ていった。働くというたかを高校まで行かせていたが、隠れてバイトをしていたたかは日本料理に魅入られて、そのまま卒業と同時に日本料理や割烹料理を学び、最終的に独立したいといってゆなはその夢の後押しをしてやった。
「どこもかしこも銀行から不動産にと相手してくれなくてね、そんな時に出会ったのが仁だったんだ」
「本当にあの時は助かりました、もちろん今も助けて貰ってますけど」
本日のつき出しはアジのなめろうだった。
味噌と生姜と山椒が少し混じっており、日本酒を進めるにはちょうどいい味わいで、恵は一口箸をつけるなり「美味しい」と呟いた。
日本酒やなめろうを好む恵はそれなりに酒がいける口だと仁もゆなも感じ、たかもそれを察して出すメニューを考える。本当はゆなもたかも恵と話をしたいが店は忙しいため、そんな暇は与えられなかった。
「ではここのお店、ご姉弟さんとは深い中なんですね、お店の雰囲気からして境井主任らしいなとは思っていましたが、実質プロデュースまで」
「そんな大袈裟な、俺はそんな大したことはしてませんよ」
「そんなご謙遜なさらないで下さい。そういえば主任は私より年上ですよね?敬語は抜いてくださって構いませんよ?」
「ではお言葉に甘えて、狭間さんも敬語で構わないのに」
反対に敬語を使わない恵はどんな風なのかと気になっていた。
だが彼女は誰にでも敬語なのでと苦笑いをするため、互いの話し合いようにしようといった。話は結局仕事のことが大半で、入社してすぐにこんな案件になるとは思わなかったという恵と、反対に入社してすぐに託せてのかったと話す仁になった。
「あんなにも素晴らしいものを作るんだ、評価されて当然だろう。本当に頼めてよかった」
真っ直ぐと告げる仁に恵は何も返せない。
在り来りな返事のみだが、どこか浮かないようであり、何か嫌なことをいったかと心配するが、恵は改めて仁がパートナーで本当に良かったと話す。
入社したものの、個人での仕事が主となる。先輩後輩もなく一人で仕事を出来ることは有難いものの、多少の不安がある中で、それなりに道を照らしてくれた仁への安心感はとても強く。仁がいなければ今回の件はできなかったと思うと恵は真剣に伝えた。
そんなことは無いだろうと言いたかったが、そこを否定しても仕方ない。彼女がそう思うのならそうだろうし。実力は確かでも営業マンによっては思うように動けない事実も確かにあるからだ。営業とデザイナー、双方が支え合うからこそ、クライアントを満足させられる。違う現場にいるけれど目的地は同じだといつだって仁は理解している。
「境井主任……いえ、境井さんとご一緒にできたことが本当に嬉しく思います、改めましてありがとうございます」
「面と向かっていわれると照れ臭いが、自分も狭間さんと仕事が出来てとても光栄だった。本当にありがとう、また次回もお願いします」
今回の件については社内で共有されるため、単独デザイナーの恵への仕事は、都市開発営業部の一課から依頼する場合、基本的に担当は仁になるだろうと彼自身分かっていたからこそいえるセリフでもある。
そうして口数は特別多くないものの、程よい距離感と会話のテンポで時間を過ごす中、客足も少し落ち着く頃、手の空いたゆなが恵に声をかけた。ゆなと恵は前世では全く違う境遇の女同士で、恵に会う前に聞いていた話では箱入りの娘だと思っていたが、実際に出会った恵は勇ましく武士の家の者、武士の妻にふさわしい存在であり、二人は友情を育んでいた。
ゆなにとって恵は親友だった。
今世だとしても、きっとその気持ちは変わることは無いだろう。
「そういえば恵っていったかい?あんた恋人はいるの?」
その言葉に肩を揺らしたのは仁だった、カウンターで調理していたたかが姉の言葉に「ちょっと姉さん」というものの、ゆなは仁が未だに恵の恋人関係を知らないと見透かして聞いてやったのだ。
実際問題、仁がどれだけ想っていても、仮に恵に相手がいたら無理強いすることはできない。幸せを願っているのは事実で、自分の隣にいて欲しいと願う気持ちも本物だが、彼女の人生を壊すつもりや、邪魔をするつもりなどはない。
どんな言葉が出てくるのか緊張した面持ちで仁はお猪口に口付けた。既に恵の頬は店内の熱と酒で少しだけ赤らんでいる。
「恋人はいません」
「そういう年頃なんだ、婚約者とか、そういう男関係一切ないってわけ?」
「残念ながら私には少し遠い縁のようですね」
「はぁ〜、仁と一緒だねぇ、こいつもずーっと恋人がいなくてね」
ゆな、と思わず声を出してしまう。
必要なことを聞くのはいいが、余計なことを口にしないで欲しいと思ったのだ。恵は隣に座る仁をじっくりみる。その瞳で見つめられた仁は、まるで時が止まったように感じた。身体の隅まで固まって動けなくなるようで、たったの数秒だろうが長い時間に感じた末に、恵は「意外ですね」というものだから、仁はそんなことはないと苦笑いした。
理想が高すぎるんだとゆなは言う。
確かにその言葉だけでまとめるとその通りだ。仁の理想の相手はかつての自分の妻、文武両道で少し古いが数歩後ろを歩くように見せる。しかしその実、隣にいて必要とあらば夫の背中を守るどころか前に出る。武士の家の者として弱気を守り、強きに負けない。その姿は数百年経過した今でも変わらないのだと実感した。
ゆなが客に呼ばれて去ると、仁は日本酒を飲みながら恵をじっくり眺めた。箸使いが丁寧で、共に食事をしていても背筋がずっと伸びている。笑う時には口元に手を添えて、目尻が小さくシワを作ってしまう。長い黒髪は下ろされて、まるで絹のようにさらさらと彼女の動き合わせて揺れる。六月中旬の梅雨特有の中、涼しそうなブラウスは丁寧にアイロンされているからかシワひとつもなく美しい。耳元のピアスは控えめなシルバーで落ち着いた大人の女性らしい。食事をして薄くなったリップの落ちた唇に触れたいと思ってしまいつつ、誤魔化すように箸で今日のメインのアナゴの天ぷらに手を伸ばす。
「境井さんはご結婚などもご検討していないんですか?」
ししとうの天ぷらを食べた恵の言葉に仁は素直に過去の恋のことを話す。
隠すべきものではない上に、恵には知っていて欲しいからだ。
過去に二回、学生の頃と、社会人になってからと恋愛をした。しかしそのどちらも仁には合わなかった。元より相手を好きになる感情があまりなく、求められて答えたことと、紹介された手前悪かったからだった。薄情だと分かりつつも相手を大切にしたつもりだったが、仕事のことや生真面目な性格は反対に相手をつまらないと思わせたようで上手くいかないのだという。
「失礼ですけど、お休みの日は何をされているんですか?」
「趣味という趣味がないんだが、幼い頃から弓道をしていて、そこにいったり、本を読んだり程度で」
「弓道……私も幼い頃、兄と一緒にしていましたよ、今も続けられているんですね」
「弓を引いてる時は無心になれるから、仕事で行き詰まった時に行ったりしてるんだ」
お気持ちが分かります、と恵が微笑んだことに仁は嬉しくなった。夫婦をしていた頃、まだ互いのことを何も知らなかった時、恵は仁に何も言わなかった。その代わりに朝早くに家を出ているかと思えば彼女が弓で鳥や猪などの動物を狩り、夕餉などの食材にしてると聞いた時は驚いたものの、共に行きたいといい、二人の中は近くなったのだ。
あの時の横顔が美しかった、きっといまの恵が弓を引く姿も美しいのだろうと感じると想いばかりが募っていく。
ちょうど、仁の隣の席の相手が立ち上がった時、仁は当たりそうになった為、横に避けた時、思わず恵の身体に仁の身体が触れた。互いに声も出さなかった。何も無かったかのようだった。それでも悪くないと感じる距離感は何度目だろうか。
目を見て、何も言わずにもう一度座る姿勢を直す頃、締めの料理としてアナゴの釜飯が出されると、恵は静かにかき混ぜて、仁の茶碗によそって差し出す。その手馴れた姿に何も思わないわけがなく、仁は静かに受け取り、二人は食事を進めた。
「ご馳走様でした」
「こちらこそ、遅くまで付き合わせてすまない」
酒も料理も随分楽しんで、気付けば夜の十一時を回っていた。
女性と二人きりでこんなに時間を過ごしたのはいつぶりかと思うほどだが、仁は帰りたくないと思う気持ちと、それ以上に重なって膨れていく自分の感情を感じた。
たかだか二ヶ月だと人はいうのだろうか。恋とは難儀でその出会いの時間を計算に入れないものだと思う。実際に仁が彼女を思う気持ちは数百年なのだから、他人には理解できない重みだろう。
酒で熱くなった身体を夜風が優しく慰めてくれる。
駅までの道を行こうとする中、隣を歩く恵の横顔は儚く消えてしまいそうで、何故そんな顔をしているのか聞きたかった。昔と違い今の日本はとてもいい国になったと感じる。ひもじい思いも苦しい思いも無いとは言わないが昔と比べるとマシだ。恵を苦しめる者がいるならその全てから守りたい、彼女の隣にいたい、触れたい、求めてやまないと思う時、仁は人気の少ないその道で足を止めて「恵」と呼んでしまう。
不思議そうに振り向いた恵に仁は一歩踏み出して、彼女の正面に立ち、彼女の手を取り、その目を見つめた。
「あなたの事が好きだ、結婚を前提に付き合ってください」
まるで長年交際を続け末のプロポーズのように真剣に告げる仁に恵は驚いた。当然だった。仕事仲間だと思っていた相手に言われるのだから。
それでも仁には確かに恵が自分を悪いと思ってないと感じるところもあった。ダメならダメでも構わないが思いを抑える方が出来なかった。恋人もいない彼女を求めてダメなら理由を聞こうと前向きに考えた。
酒を飲んで火照っていた割に、恵の細く長い指先はとても冷たく、その心を表しているようだった。彼女は酷く困った顔をしているため仁は顔を覗き見るようにすると、恵は仁の手を離した。
「ごめんなさい、誰かと恋をするだなんて、私はふさわしくなんてないんです、特に境井さんみたいな人は……すみません」
そういった彼女が背を向けて慌てて去ってしまう。
追いかけようとするも彼女はちょうど来たタクシーに乗り込んで去ってしまう、顔を俯かせて心底申し訳なさそうな顔をした彼女に仁は残されてしまい、一人夜空の下に立ち尽くした。
「ふさわしくない……そんなわけないだろう」
お前以上にふさわしい女がいるのなら教えてくれと仁は思った。
六月は梅雨の時期で蒸し暑かった、恋に溺れた熱が徐々に冷める頃、仁は電車に乗らずに歩いて帰った。
恵の顔はまるで昔、出会った時のように悲しみと不幸に塗れた女の顔をしていると感じながら、その理由までもは聞くことはできないのだった。