第七話


『結婚を前提に付き合ってください』

あんなにも真っ直ぐと真剣な顔で人に言われたのは初めてだった。
境井仁という男のことは分からないことも多いが嫌いではなかった。苦手よりもどちらかといえば好意的だった。しかし踏み込むことは出来ない。
帰宅してすぐにベッドに倒れ込むように横になった恵は、数ヶ月前にこの家に引っ越してきたばかりで家の中にはまだ片付いていないダンボール箱もある。
今日はクライアントの会議もあり、一日気を張ってすっかり疲れていた、普段よりもしっかりメイクをしていたし、少しだけ気合いが入るように用意したブラウスやスーツもシワがついてしまうから寝転がるべきじゃない。早くシャワーだけでも浴びて寝た方がいいのに、頭の中は仁で埋まっている。
両親の知り合いであった社長の志村からは信頼できる男だと言われていた。今回の件も無事に終わったあと定時後に社長に呼ばれて軽く話をしていた。入社早々どうだったか、この会社自体は過ごしやすいか、嫌なことはないか。社長自ら聞いてくれる姿はまるで親戚の叔父や、父親に近いとも思ったが、決して身内贔屓だけではないことも知っている。身内贔屓だけなら仁はあんな男にはならないはずで、共に仕事をしていれば嫌という程彼の真面目さも理解できた。

「境井は若いが頼りがいがある。聞く力も発信する能力もあるからな。苦手だと思う連中もいるのは事実だが、あんなに誠実な男をワシは知らん」

こういうと親バカに捉えられるかもしれんがな、と苦笑いをした志村の表情が少し印象的だった。この人もこんな顔をするのだと思ったからだ。しかし周りの評価を聞いても親バカという評価にはならない。恵自身も仁との仕事は本当に心地よかった。自分の作品を評価してくれるからではなく、人として向き合い、意見して、時に相違する時があっても、決して険悪にならずに互いの意見を擦り合わせ、より良い形にできた。
一人で仕事をこなすことは慣れていたが、他人と直接話をして仕事をするのも悪くないと思った。そして──異性としても。

ベッドに寝転がっていた恵はスマホを開いた、カレンダーの通知が来ており"三年記念日"と記載されていた。見たくなかったと思いつつスマホの電源を消して目を閉じた。
自分みたいな人間はあの人には合わない。
あの人はもっと違う人がいい。
仁のことなんて何も分からないけどはっきりそう言える恵はそのまま眠った。ただ二人で過ごした時間だけは確かに良かったと思いながら。

仁と恵が互いに違う部署で、頻繁に仕事で顔を合わせる中でなくてよかった。仁とてあの日の後が、気まずくないわけではなかったし、恵の性格を思えば仁以上に気まずいはずだった。
都市開発案件のデザインが通ってしまえば後は楽なことで、工事関係の話に切り替わるが、そこからは設計本部や工務本部とも連携し、次第に営業から離れていき、完成までを見守ると言うだけだった。

「そういえば例の件、全部デザイン通ったんだっけ?」
「あぁ境井主任が担当してたのが最後だったけど、あっちのクライアントが相当粘ってきたらしいけどな」
「デザイン担当って新しい人だろ?静かそうだもんなぁ」

別から聞こえてきた声に仁は耳を澄ませる。恵の話題になると思わず聞き耳を立ててしまうのは癖に近い。誰がなんの理由でと思いつつも、あの一件から当然名前をそれなりに知られた為、恵の名前が以前に比べても聞こえてくることは普通のことだった。
仕事だけの話ならよかったが、やはり男ばかりが多いこともあるせいか、異性であり、恵は物静かで地味に思われるが整った顔立ちをしており、他人からの評価は"影のある美人"だった。人は知らないものに触れたがる、何かを抱えてそうな女は不思議な魅力だ。

「結婚してなさそうだけど彼氏もいなさそうだよな」
「でもあの人って前は大手のデザイナーだったんだろ?うちも大手だけど来たのってなんでだろ」
「それがさ、俺噂で聞いたんだけど」

──社内不倫の上にデザイン盗作だって。
仁は休憩所で聞こえた話題に肩が揺れた。恵のことを話していた三人組は一課以外の営業担当だ。営業というのは人の話をよく聞くものだ、噂についても何かしらで入手するのは仕方ない。
特に恵のような転職してきた相手の前歴や学歴などは当たり前に気になって掘り返される。時に人事から、時に本人の口から、時に関係ない場所から、真実か嘘か分からぬ話は簡単に流れていく。
コーヒーを入れていた仁は恵の経歴について何も知らなかったが、社内では一部話題があった。それは恵が志村の身内でコネ入社してきたという事だった。

意匠デザイナー室が出来たのは本当にここ一年、二年の話だった。
実力のある社内のデザイナーと外部で有名なデザイナーを態々呼んだ数少ないデザイナーたちは先鋭とも呼ばれているほどで、社長自らの選抜である為、社内での評価と反対に権力としては持っている。実際問題、意匠デザイナー室に頼むことは多く。あの部署が出来てからというものの新たな依頼や、仕事の幅も増えた。社内HPでは一部デザイナーを名指しで紹介するほどであり、昨年の案件で取材を受けたりなどもした。
つまり社内では奇抜な扱いでも、話題性は強く、世間としての評価はいい。あの堅実な志村がと思われるが、ここ数年業績が横ばいの志村建設にとっては希望の一筋である。

そして恵は残念ながら業績はほとんど無いに等しかった。
今回の一件においてもその話題は出ており、仁も恵のデータを調べた。出てきたものは少なく、その上仕方ないのかもしれないが、ほとんど彼女個人ではなく別の人の名前も入っていた。学生時代からのポートフォリオなども引っ張り出した上で、本当に彼女にしていいのかという意見もでたがデザイナーチームとも考えた末に彼女にしてみて、ダメなら直ぐに変えようと言った。
第一案の時点でそれは簡単に消えた。反対にあんなにもクライアントの意図を汲んで考えられたデザインに全員がこれで良いのではないのかと感じたが、クライアントの予算の関係から変えることとなった。
その件についてはクライアント側も残念に思っていたこともあり、恵も申し訳ないと暗い顔をしたのをみた仁は予算の都合は仕方がないと言って、どこを削れるか、どうすればいいのかとしっかりと考えて相談に乗り、彼女を支えた。

けれどそんなことを知らない者たちからすれば、恵のことなど分からない。実力もなく、社長の手が掛かった部署に所属して仕事をしている。そんな状況だけをみてしまうと恵が特別な存在だといわれても仕方ない。仁はその場で留まるべきではないとわかっていても立ち止まっていると、聞かれていると知らない一人は仁には黙って聞いていられないことを言った。

「コネ入社であそこだろ?案外社長の女だったりして」

それはないだろ、と笑っていたが仁は拳を握ってしまう。それは親のような存在である志村までもを侮辱するような内容に近いものだからだ。しかしそんな仁に声を掛ける者が一人。

「境井くん」

そう呼んだのは人事部の安達だった。
安達の声は通りやすい。もとは営業部で仁の上司だったが、以前の人事部長がやめてしまったこともあり、人柄や人を見る目のある彼は異動してしまったのである。
まったく惜しい人が行ってしまったが、彼が人事を担当するようになり、各部署の人の割り当てられ方は良いものに変わった。また取引先によっては安達を名指しすることもあるが、大型案件になると人事ですが…と言いつつも出る場合もあるほどで、現場にとってもいまだ頼りがいのある相手でもある、もちろん、そんなに気さくに人事部の部長を呼ぶわけがないが、国や市案件になると相談相手程度には間に入ってくれる場合もある。世話焼きで部下からも社長の志村からも信頼のある人物なのだ。

「お疲れ様です安達部長」

仁がいたのは九階の自身のフロアではなく十一階のフロアの休憩所だった。ちょうど別のクライアントとの会議を終えてコーヒーを飲みに来ていたのだが、ちょうど昼時でもあったため、人がそれなりにいた。
安達は柔らかく微笑み仁に近づくと、先週の件は一旦お疲れさまだと労いの言葉をくれた。新人である恵とコンビであったことは安達も知っていたことから声をかけてくれたのだろう。返事をしつつも浮かない顔をしていた仁になにか気になることでもあるのかと聞いてくれるのは、彼が元上司であるからつい世話を気にかけてしまうのだろう。仁はもう主任(という名のほぼ課長)だが、安達は入社時どころか幼い頃も知っているからあまり立場が変わっても変わらないのだろう。

「大したことではないですが、先日狭間さんと組みましたが、彼女のことを知らないと思いまして...」
「あぁ...まぁ彼女は社長が連れてきた人だからな。私も面接はしたが、あれも挨拶みたいなものだったからな」
「そういう話もしなかったものですから、前の会社なども知らなかったので」

今後彼女と組むこともありますから気になったのに今更聞くのも、という仁の言葉に安達は少しだけ彼をじっくりと見た。そして少し考えをしたあと、納得したように簡単に彼女の経歴を話してくれた。
大学は誰でも聞いたことのあるような有名美大の建築学科卒で、その頃から頭角をだしていたものの本人が目立つタイプではないため、比較的静かに注目を受け、そのまま、東京の大手建築の設計事務所にいたが昨年退社。

「退職理由は聞いていないが、ちょっとした噂が流れていたのは事実だ。だからウチでもその手の噂話に流される連中がいるのも無理はないだろうな」

なんせ美人だし、といったあと彼はハッとして政子には言わないでくれといった。政子は彼の妻で、とても優しく仁も幾度も世話になったことがあるが、彼がなにかしらをしでかした際には、その姿が嘘のように恐ろしい姿を見せる時があり。同じ会社に勤める彼の息子たちは彼女を“バーサーカー”だといっているのを仁も聞いており。数百年前、家族を失った政子の復讐に駆られた姿はその言葉の通りだとも思った。

しかし安達の言葉を聞いた仁は恵の噂について気になっており、安達は薄っすらと仁が何を思っているのか理解した。無理もない。境井仁という男が人に興味、しかもそれが新しく来た新人の女性となれば、少しはそういう考えをしてしまう。
実際に仁が恵の名前を出した時点で小さな違和感はあったが、その表情や少しの眉の動きでわかる。伊達に営業も人事もしてはいない、観察眼はそれなりにある。それが妻や仕事以外に使えるかは別として。

「もし彼女のことで気になるのなら社長に聞くといい、あの人のほうが詳しいはずだし、お前からなら嫌がることもないはずだ」

それじゃあと言って去った安達を見届けると、気づけば人も捌けて少なくなっていた。噂、社長、恵、それぞれが気になって仕方ないが、今恵に聞くものではないかと思いつつ仁は珍しく息を吐いた。あの日の夜、彼女が仁に向けた悲しそうな、申し訳なさそうな表情が、その噂とやらのせいなら自分だけでも知り、一人ではないと言いたかった。フラれたとしても仁は恵への気持ちを終えることはできない。
それは死よりもずっと難しいことなのだ。