壁一面のアクアリウムに囲まれたその部屋の中で彼女は記憶が戻ると同時にその肉体は強烈な痛みに蝕まれた。耳さえ塞ぎたくなるその絶叫と逃れようと身を捩る姿は痛々しく、ポセイドンはただ彼女を抱きしめて声を掛ける以外の方法はなかった。
何千年間も待ち続けた彼女が目覚めて数年間の暮らしだった、その間に彼女たち人魚の種族は彼女のように捕獲され同じ末路を辿る者の報告を受け、天界は人魚を永久期間地上界には住まわせないことにした。それまで人と人魚は同じ海にいた、時にその歌声は船乗りを安心させ、道を案内し海という愛を教えてきたはずだった、けれども人間はいつからか美しいものを自分たちの醜い欲望の餌にしたのだ。
最愛の光を失う人魚達は天界からの命令を素直に受け入れ、彼女たちはそれぞれ天界の海、それはポセイドンの目の届く場所で保護される働きとなった、それがその種族のためであると双方が納得したからだ、だからこそ現在の地上界には彼女たちの歌声が届くことはないのだった。
「痛いッ、痛いよぉ、や゛め゛て゛!!ごめんな゛さ゛い゛!!ポセイドン様...ポセイドン様、助けて、助けてぇ」
痛みに耐えきれずに自分の肌に赤い爪痕を残し噛みつき自分に助けを求める彼女はあの時、あの台座の上でそう叫んでいたのだろうと彼は痛いほどに理解した。胸が痛いどころではない、張り裂けて消えてしまいそうだと彼は思いながら手の中の錠剤の入った小瓶をみつめた。
リセット——それは目覚めた彼女の記憶をまた封印することであり、即ちそれはまた深い眠りに落ちることとなり、魂の定着は不安定となり、もう一度それをしてしまえば彼女はもう二度と目覚めない人形へと落ちる可能性があるということだった。数千年の歳月の中で彼はいつもウェディングドレスを着たまま眠る最愛の人の目覚めを静かに待っていた、毎日来る日も来る日もその場所で過ごして、今日も目覚めないのだという事実を受け止めて静かにまた明日と額に口付けを残していつか目覚めてくれる人形の起動を待っていた。
覚えていなくてもいいと彼は自分に言い聞かせていながらも目覚めた時、彼は静かに涙を零した、誰にも知られぬように彼女に捧げた真珠のネックレスを握って強く喜び、そして思い出して欲しいと願う気持ちとこの甘い夢が覚めないでほしいと願い日々を過ごした。彼女が海を静かに眺めるのをみるといつだって静かに理解して苦しく感じて、彼女が誰に言われるでもなくテラスで朝食を食べる姿はそうしてきた名残だった。
『このお席で毎日二人で朝ごはんを食べましょうね』
彼女のように柔らかくてふわふわのパンを食べながら彼女は笑った。彼にとって無機物な人形だと彼女を言い聞かせても出来なかった、魂の定着として必要だと言われても彼女の魂と肉体を持った自分のことも彼のことも、この世界の全てもわからない彼女をベッドの中で愛するという行為は自分の胸を槍で突くような痛みであった。愛しているとは言えない、傍にいては記憶の回帰が早まる恐れがある、毎日血を抜いて数字を見て、彼女が今日も生きていることやその肉体と魂がズレていないかと管理をして、アクアリウムの部屋の広いビーズクッションで丸くなる彼女を聞いた時、彼は変わらないのだと理解した。
海には余計なものはいらないと言っていたポセイドンだったがかつての彼女がゆっくり二人で沈んで抱きしめ合ってその部屋にいたいというから、用意してやったものだった。本棚も彼女の好きなお菓子もおいて、あの部屋は彼女の小さな城であり秘密基地のようだった。
無垢な少女のように絵本を読んでは「泡になるなんて」と涙する彼女を知っていたから、彼女が泣いてしまうような不要なものは廃棄したかったが彼女はいつも泣きながらも「でも幸せだと思うんです」と笑うから彼はあの本を手放せなかった、引き金になる可能性があっても、そもそも彼の傍でこの城にいる以上は全てが彼女を呪う最大の呪詛であるのだ。
侍従たちを家族のように懐いて、兵士たちを尊敬し、無邪気に二本の足で城に駆け回っていた彼女を知る者たちに彼が下した彼女を蘇らせるという方法はあまりにも地獄であっただろう。あれほど自分たちを愛して愛された無垢な人魚は笑うこともなく、ただ静かに無のように佇み、誰のことも覚えていないのだから。
全員が罪人だった。たった一人の人魚に向ける海の王の愛を許し、そして人魚を守れなかったことに対する。
彼女が愛していたフリルとレースがたっぷりの幼子のようなドレスを着せる時、完璧な人形なのだと感じられた、笑いもしない何も感じない、彼女から全てを奪えばこんなにも完成されたものなのだと残酷にも突きつけられた。彼は彼女を自分から引き離さなけばいつか壊れると分かっていても出来ない、けれども近づきすぎることも出来ない、違う形のピースを差し込んで完成したパズルはあまりにも歪で救いなどはもう存在しない。
積み重ねた罪はいつか暴かれる、いま目の前で彼に爪を立てて噛みつくマリスがそうであるから。ポセイドンは静かに彼女を抱きしめた、全てを巻き戻せば彼女はもう苦しまない、魂の解放をするべきだと彼は理解していた。
「ポセイドン様、ポセイドン様助けて、痛いよ、苦しいよ、どうして」
彼女が何をしたのだろうか。
それはずっと自分に問いかけ続けていたことだった。
ただ海を愛し、ポセイドンを愛し、幸せになろうとした普通の人魚の娘だったはずだ、鱗を剥がされ、生きたまま耐えようのない痛みを味わうような存在ではなかった。あんな酷い殺され方などされるような存在ではない。
神は人の運命を定めるが、人魚の運命を定めるのだ誰なのかと彼は考えた、自分ではないはずだったがもしそれがポセイドン自身の運命として誰かに定められていたら。それは己の罪ではないのか、そして今のこの現状も彼への罰であるのだと理解している。
『いつまでそれを眺める気だ』
『だって...ポセイドン様のお嫁様になるんだって実感するんですもん、私はこの世界で一番幸せな人魚ですね』
結婚指輪を渡した時、彼女は毎日それを眺めるものだから彼は嬉しそうにも若干呆れて声を掛けたのに、彼女はそれを跳ね返すようにその頬を薄く染め上げて微笑んだ、誰よりも美しくて愛らしい妻の微笑みを彼は愛していた。
「ポセイ、ドン」
自分の手の中の小瓶を彼はより一層強く握り、そしてその青い小瓶はついに小さな音を立てて砕けるとポセイドンは彼女の身体を押さえつけて見下ろした、それがどんな結果になっても良い、それは救いにもならないのかもしれない、それでも彼は今の彼女を愛していたからこそ、泣きじゃくる彼女の手首を押さえつけ、そしてそれがどんなに残酷な行動であるかを理解してもなお構わないと触れた。
「マリス...余を恨め、憎め、全ての憎悪を嫌悪をぶつけていい、余を愛さなくていい」
「〜〜〜ッ熱い!!やめてッ!!痛い!!剥がさないで!!食べないで!!」
「全て食らい尽くしてやればよかった、肉に一片も髪の一本も誰にもやりたくなどなかった、初めてみたときからずっとそう思っていた」
ポセイドンの頬をマリスの爪が引き裂いた、赤い雫が頬を伝う時、それは神も人も同じであり、彼は片手で強く抑えては彼女の首筋に顔を埋めて唇を置いた「愛している」と呟いて、耳元も頬も、暴れる指先も全てを慈しむように愛で包むように彼は全てを与えてやり、そして彼女のネグリジェを捲し上げて薄いショーツを脱がせて、自分が今どれだけ残酷で醜悪な存在であるのかを理解していた。それでもそれは祈りだった、最後の魂の定着を彼はしようとした。
鱗を生きたまま剥がされ、皮膚を剥がされて、髪を掴まれて、喉を引き裂かれ、肌を焼かれて抉られて、触れられるだけ痛みが重なり彼女は叫び声を上げるとそれは城の中に響いてしまいそうなほどであった、小さなその身では信じられないような声はあの時の声なのだろう。
愛する人の絶望の顔をみたことはあるだろうか。
それはどこまでも悪い夢だと思う。
愛する人が肉の塊にされるのをみたことはあるだろうか。
それは存在さえ拒絶したくなるものだ。
それが彼女であるとあの時の彼は受け入れたくなかったのに、魂から彼女だとあの台座の上のものに対して理解させられる、そういうものなのだ愛という名の鎖は。
彼は苦しみに泣き叫ぶ彼女が自分の手を振りほどき胸を押して噛み付いて爪を立て拒絶しようと全てを受け入れて足を掴んだ。薄く開いたその場所を何度彼は暴いてきたのか、あれほど愛し合った日々が嘘のような儀式の日々の中、彼女が自分に愛する言葉も目も向けずに天蓋に描かれた夜空の絵を見ることを彼は良しとした、二人で眺めたその空に何を思うのかも分からずに、彼は自分の熱を取り出してこの状態でも残酷な程に微かな熱を宿した醜悪な自分を嫌悪しつつ、目の前の彼女が壊れるのか再構築されるのか、何もかもわからずとも己を沈めた。
「イヤッ!い、たい……殺さないで、やめて」
「殺さない、余の腕の中で生きろ、あの頃のように間抜けな顔をして愛を、囁いてくれ」
「ッふっ、ぅ…!ギッぅ、ぁ」
「愛してる、余を不完全にさせるとしても、それでもいい、貴様のいない海では生きていけないんだ、マリス」
「ッ……、ぅ、く」
彼女を貫く男は自分を蹂躙していた者たちだった、けれどもまるでノイズのようにそこに一筋の光が見えては彼の名前を呼んだ、喉が裂かれて皮膚を剥がされ肉を抉られる痛みが脳を支配する、それでも確かに光がそこにある、温もりと優しさと愛おしさはずっと探し求めていたもののはずだった。
まるで深い海の底で藻掻くように彼女は溺れようとしていたのに、その暗闇に彼は差し込むようだった。次第に光は彼女を捉えてそしてその透き通る海のような眩い碧眼が彼女を捉えていた、まるで逃さないというように黄金色の絹のような髪を乱して、彼女をその腕に強く抱いて。
「ポセイドンさま」
「マリス」
互いに静かに名前を呼び合った、そして彼は腰を進めて彼女を包むように抱きしめて愛してみせた、彼の口付けは痛む切られた指先を戻すように、彼の唇が剥がされた皮膚や鱗を治すように、彼のキスが真実であるように彼女を繋ぎ止める時、彼女の瞳から大きなダイヤモンドのように輝いた涙が一筋零れて、ポセイドンは彼女の手に指を絡めてその静かなアクアリウム囲まれた海の世界で最後の儀式を終えた。
トクトク──と注がれる熱は浮かれてしまいそうなもので、彼女はぐったりとしていれば、乱れた前髪を分けられて優しく額にキスをされて、ポセイドンは美しく微笑んだ。
「愛している、我が妻マリスよ」
深い微睡みの世界に彼女は落ちた。
その日彼女は夢を見た、海辺に佇む自分だった、二本の足でその場に立っており、目の前には広い森と魅力的な香りがした、好奇心は自分を刺激する。
だけど彼女は静かに振り返っては海に入った、足はみるみるうちに一つになり、そして美しい尾ひれがついて、彼女は静かで暖かい海に戻ったのだった。
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