パチリと目を覚ました彼女は異様な体の軽さを感じた。まるでそれまでなにかに覆いかぶされたような、泥を被ったような感覚だったそれがスッキリとなくなり、その肉体になり初めて全てが覚醒したような気持ちとなった。
昨晩はアクアリウムの部屋にいたがベッドにいると気付き、そして次に広い胸板が見えて、思わず顔をあげるとそこには見慣れた顔である海の王ポセイドンが寝静まっていた。
彼女は静かに深い眠りについている彼を見つめた、相変わらず長いまつ毛をしてる、少し二重幅広い、眉頭が丸くて少し短いがふかふかしている、シワひとつなくて真珠のような肌だと思うと昨晩彼の頬や胸に自分の爪を立てた記憶を思い出し、見つめるがまるでそれは夢のように跡形もなく消えていた。神は些細な傷であれば簡単に癒えるため、そのせいだろう。
何故そんなことを思うんだろうかと彼女は不思議に思いながらもふと手が伸びで彼の頬に触れた、無駄な肉がない美丈夫であると感心しつつ、まるで人形のように整った顔だといつものように思った、そうだいつものよう……何百年何千年と思ってきたこと。
彼女はふと、自分が長い眠りから冷めたんだと気付いては思わず彼を強く抱き締めて「ポセイドン様」と甘い声で呟きながら彼の頬に手を添えて唇にキスをした、昔からずっとそうしていた、それが彼を起こす優しい呪文なのだ。
「マリス……?」
「おはようございますポセイドン様」
「……稚魚よ、笑っているのか」
「はい、なんだか身体が軽くて、それに何故かとっても長い夢を見ていた気分なんです」
本当に長い夢だったと思うと彼女がいったことにポセイドンは目を丸くして驚くなり、自分たちの身なりも気にせずに突然起き上がり、彼女をお姫様抱っこの形で抱き上げては彼にしては異常な様子でベッドを飛び降りて、寝室を抜けて、広い廊下を走り抜け、城の裏門を抜けた、王の異常な姿に侍従も兵も目を丸くするが、その手に彼女を抱いて海へ続く道へ進んだことに近くの者と顔を合わせて全員が手を取り合った、これは奇跡が起きたんだと。
「ポセイドン様?」
「マリスよ、足をつけてみろ、ゆっくりでいい、痛ければ直ぐに戻してやる」
「で、でも……」
あの日、足を火傷した海辺に連れていかれた彼女は怯えてしまうものの自分を抱き上げているポセイドンは冗談でも嫌がらせでもないのだと感じては彼を信じるようにゆっくりとその白い足を砂浜に伸ばした、恐る恐ると親指から触れて、そして左足からしっかりと踏めばあの時のナイフで切り刻まれるような痛みは襲ってこず、彼女は目を丸くして右足も置いてみると、しっかりと彼女はその肉体で砂を踏んで立ち尽くしており、その事実に目を輝かせては思わずその場で足踏みをしたり飛び跳ねたりする彼女をポセイドンは静かに眺めるが、彼女はもしやと海に向かって走り出した。
「おいマリス!」
いくら砂浜がよくても海は危険かもしれないとポセイドンが止めるよりも先に彼女は海の中に入っては足元を濡らした。奥へと進んで膝くらいまで浸かると彼女はネグリジェが濡れるのも気にせずに海水を掬ってはこぼして行き、キラキラと朝の太陽が海と彼女を照らし。
彼女は満面の笑顔で彼を見つめた。
「ポセイドン様!私ここ(海)にいます!」
それはポセイドンと彼女の本当の居場所であり、ポセイドンは自分のことも気にせずに彼女を追いかけて、海を割らずにそのままジャブジャブと音を立てて入っていくと彼女のそばに立ち、その手を取り白魚の指先が火傷で赤くなっていないことをみた。
本来彼女の器は一番記憶に近い海に触れると全身が火傷してしまうことをポセイドンは知っていた。まだ眠っていた彼女を連れていき海へ行った際に彼女の肌は赤く爛れて余計な痛みを与えたと医療用ポッドに寝かせて治療してやった時に知ったのだ。そしてあの日外に飛びだした彼女が痛みに気を失ったことは新しい記憶だった。
けれどその彼女が今、眩いばかりの笑顔で海の中にいる。二本の足のままであり、それはあの時のような形ではなかったものの、その笑顔も表情も全く変わらないものである。
それはポセイドンにも何者にも変え難い喜びであり、彼女が「ポセイドン様?」と不安そうに声をかけると、彼は強く彼女を抱き締めた。
「余は神として不完全だ、こんなにも一人の人魚に乱されているなど」
「人魚の歌声は惑わせる力がありますからね」
「……あぁそうだな、貴様の声は昔からずっと余を惑わせるな、マリス」
「ねぇポセイドン様、人間になってしまった私にも、変わらず愛してくださいますか?」
もう貴方を惑わせる声もないけど、と小さな声で胸の中で呟く彼女をポセイドンは高く抱き上げると水飛沫が大きく跳ね上がった、濡れたネグリジェの裾が水を含んで広がるとそれは彼女のかつての尾びれのようだった。
「当然だ、何千年何万年経とうと、マリスという魂を愛したのだから、貴様こそ余という大海に飲まれることを受け止められるのか」
「はい、あの日出会った頃から私はずっと、ずぅっとあなたの海に飲まれてますから」
そう言って彼女はポセイドンの頬を撫でると二人は静かに口付けた、深淵のような暗さも、地下室のような恐ろしさもない、そこにあるのは眩い輝きで二人を照らす太陽と広大な二人の愛のような深くも広い澄んだ青を宿す海であった。
触れる唇が直ぐに離れると海に下ろしたポセイドンは自分の胸元ほどの高さしかない彼女を見下ろして、穏やかで誰にも見せることもない柔らかな彼女にだけみせる特別な笑顔を向けて最後の問いをした。
「もう一度聞きたい、我が伴侶、海の王妃となってくれるかマリス」
その言葉に彼女は背伸びをして笑顔で答えた、それ以外になりたいものなんてないといって、たとえ足を失って声を失っても、ただずっと願っていたことは彼の隣にいることであるから。
二人はもう一度唇を重ねると声をだして笑った、前よりほんの少しだけキスがしづらくなったかもしれないとち。
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