新郎の控え室にて最後に現れたのは冥府の王ハデスだった。
彼は新婦の部屋に揃っている兄弟たちを見ては目を丸くして、そして小さく微笑んだ、そこにはかつて愛すものを抱きしめるために血で濡れた純白と黄金のタキシード姿のポセイドンであり、彼のその姿はまさに完璧な新郎の姿であり、拝見するのは二回目なことであるがそれでもハデスは喜ばしかった。部屋の中にはゼウスはもちろん、かつてはポセイドンと袂を分かつこととなってしまったポセイドンの兄でありギリシャ四兄弟の次男アダマスが静かに、しかし彼もまた今日は正装で佇んでいた。

「全員がこのように揃うとはまさにめでたい日だな、改めて祝いの言葉を贈ろう、我が弟ポセイドンよ、おめでとう」
「兄上、それを言うのは何度目だ、それよりマリスはいるか」
「ッチ、ポセイドンてめぇこそ何回それを聞いて回ってんだよ」
「仕方ないじゃろう、あんなにかわいい嫁さんじゃ、どこぞの誰が触れるかもと不安になるのは夫として当然じゃ、のお?ポセイドン」

ハデスの言葉に妻の様子を聞くが直ぐに苛立ったようなアダマスがいつものように荒々しい言葉をぶつけるものの、ゼウスは好々爺らしい態度で宥め、ポセイドンは静かに彼らに「黙れ」と返事を返すが否定はしなかった。
結婚式の前夜に行方不明になったことからポセイドンは昨晩妻である彼女をそれはもう痛々しいほど強く抱き締め、朝になり彼女が起きるまでその寝顔を眺めた、夜は深く長いはずだと言うのに彼は何一つ苦を感じず、反対に薄く口を開いて時折寝言で彼を呼ぶ姿に愛おしさを感じては頬を撫でて「なんだ」と寝ている彼女に答えてみせるほどだった。

しかしながら寝起きの彼女は強く抱き締められたお陰か「ちょっと身体が痛いです」といってしまい、ポセイドンは即座に侍女たちにアフロディテに連絡をして美の女神が管理しているサロンのスタッフを呼び出して入念に解してやり、そのまま結婚式に向けての準備だからと分かれてしまい、凡そ数時間妻の姿を見ていなかった。

「気になるなら見に行きゃいいだろうが、律儀にあんなガキのいうこと守ってちゃ、神の中の神ともあろう奴が情けねぇぜ」
「そういいながらお前も彼女の様子を見に行かないではないか、ゼウスはもう見に行ったぞ?案外お前たちは二人とも律儀で難儀だな」
「そうじゃのぉ、そりゃあもうあの子は綺麗であったぞ、あの「ゼウス口を閉じろ」…ホホホ、ネタバレ厳禁じゃの」

さてそろそろ時間だから先に言っておるぞといってゼウスとアダマスは先に新郎の部屋をあとにしてしまい、ハデスだけが残された、ポセイドンにとって兄ハデスは神の中で唯一認められる存在だった。頭を下げてまで彼女を助けて欲しいと願ってしまう存在であり、兄である彼に大きな罪を背負わせたと口にしないものの彼は思っていた。
新郎の部屋とはいえどポセイドンの城の中での挙式である為、彼は特段珍しいとは感じられなかったが姿見に映る自分は二度目の姿であり不慣れだった。

「ポセイドン、タイが歪んでいるぞ」

そういって傍に来たハデスが蝶ネクタイに手をかけるが何度も見返してきた彼の服装は一ミリも歪んでるはずがなかった、しかしそれはハデスなりに最後の個人的な祝辞なのだと理解して兄の目を見つめた、同じように彼の目を見つめたハデスは兄として、そして冥府の王として彼に声をかけた。

「お前が自分の罪に苛まれていることは知っている。だがそれも今日までだ、あの子が目覚める迄の期間、あれこそが罪を償う期間だったといえるだろう。これから先、お前はあの子のために生きろ、罪ではなくあの日向き合っていた愛として、それが兄として、そして冥府の王として魂の管理をする者としての言葉だ」
「……ああ、分かった冥王よ、その様に努めよう」

短い返事だった、それでもハデスはそれがどれだけ重たい返事なのかを知っていた。それではまた後でと言い残して去る時、ハデスはその背中に確かに聞いた。

「ありがとう兄上」

とても優しく幼い頃と変わらない不器用だが真っ直ぐな弟の言葉を。

一方その頃の新婦は朝からいつもよりもずっと丁寧にそれはもう全身が光るのではないのかと言う程に身支度を整えられていた。
アフロディテのサロンから来た天界一のマッサージ師やセラピストな小さな身体をこねくり回され、特別な祝福の魔力の籠ったネイルのできるネイリストにより両手足に美しいネイルを施され、侍女達にドレスを着せてもらい髪を整えられ、それまであまり触れてこなかった肌に薄いメイクを施されていく。
侍女たちはそれはもう楽しそうに嬉しそうに部屋の中を埋めそうな人数であぁでもないこうでもないと話をしては彼女を奪い合うように用意をしており、彼女はもう時間が無いのではないかと少しだけ困った様子でみていればコホン…と小さな咳払いがされる。

「新郎の用意は出来ているが新婦はまだのようだな」
「ハデス様、もっもうすぐ終わります」
「いやゆっくりで構わん、まぁ今日中だと助かるが」

苦笑いをされると侍女たちも冥王を前にしてはすぐさま静かに用意を進め始める為、彼女は真っ直ぐと大きな三面の姿見の前で人形のように飾られる。あの時、まだ何も分からずにされるがままだった時とは違う、感情が強く湧き上がるようだと彼女は強く感じた。
目覚めてからポセイドンと過ごした時期は神としては短くても数年の時間を過ごしていたのは確かであり、彼女はその期間、自分は何も分からず、そして自分を愛していたはずのポセイドンはそれを抑え続けていたのだと改めて感じられた、愛する人が目の前にいても愛せないという呪いは自分以上に苦しいものだっただろうにと思うと胸が痛くなる。

「奥様完成致しましたよ」

少しだけその表情に陰りを見せた時、優しく肩に手を置かれて声をかけられた為、彼女は目の前をみつめては自分であったとしてもうっとりと見惚れてしまった。
パフスリーブにマーメイドラインのウエディングドレスだった、広いデコルテにはキラキラと薄いラメを塗られ光に当たれば反射して眩く彼女の肌を照らす。マーメイドラインのドレスの全体は透き通る海のような水色で裾にはまるで波のような黄金色の刺繍が施されており、長いレースのトレーンはまるでかつての彼女の尾びれのようだった。

「よく似合っている、きっとポセイドンも喜ぶだろう」
「ハデス様……そうだと嬉しいです」
「喜ぶに決まってる、何せそなたが選び抜いたのだから、ほら義兄としてティアラを付けさせてくれ」

隣にやってきたハデスの言葉に彼女はもちろんだと頷けば侍女が最後まで手にしなかった純金のティアラを添えた、それはまるでポセイドンのトライデントのようなものであり、彼女は結婚式をすると決まってからかつて自分が着るはずだったドレスを見たあと、もう一度手直しをしたいと願い、ポセイドンはそれを許してくれた。
彼女にとってウェディングドレスは完璧だったが、それは過去の自分に対してであり、今の自分としてまた新しくしたいと思った、それは愛しい彼と並ぶため。ふわりとしたお姫様のようなチュールドレスも愛らしかったがこのマーメイドラインのドレスこそが今の自分にふさわしいと思いながらもう一度姿見を見て微笑んでは式へと向かった。

ポセイドンの城の海にてその式は執り行われた。
太陽神アポロンが曇りなき空を与え、美の女神アフロディテが周囲を煌めかせる、全ての神々がその日を祝福する時、海の上に用意された円形のアクアリウムのような会場、そして祭壇の前でポセイドンは静かに佇んでいた、神父としては最高神ゼウスが務め、落ち着きのない大海の王を微笑ましそうに眺めた。

ポセイドン以上に完璧な神はいない、そして海の王に相応しい深い愛を持つ者もいない。彼は決して氷のような男では無い、ただ自分の中の信念があり、それを人一倍曲げないだけであり、その信念とは神としてのプライドも誇りも愛もあるのだ。
愛する人を失い何も思わないような男であればきっと神々は彼を見放しただろう、感情のない神など神ではない、心を持ち感情を持つからこそ完全なる存在なのだ、動かぬ彼の心に唯一の強い光があるとしたらそれはあの娘であり、彼があの子を前にする時、それはまるで春の雪解けのような優しさである。

式を海で執り行う事となったのは人魚たちが来ていたからだった。
人魚だけではない、海に住まう生き物たち、ポセイドンと彼女を祝う者全てだった。人魚たちが歌い始め海が音を鳴らし始めイルカが鳴いて、ポセイドンの兵達が音楽を奏でるとき、彼女が来るのだと理解しポセイドンの胸は締め付けられた。

『ねぇポセイドン様、私たちの式は誰よりも幸せにしましょうね』

かつての彼女が言ったことだ。
騒がしいものを好まない彼に対して彼女は海の王を祝いたい者は多い、それに海の生き物たちはみんな祝福してくれるのだから海でやろうといった。真っ白な紙の上に子供のように絵を書いて意見を出す彼女は呆れるほどに無邪気であり、その全てを彼は叶えてやった。
使われることもなく会場をあの日一度取り壊した時の悲しみは言いようの無いもので、それをまた再建した彼はその上で小さく拳を握り二本の足で立つ時、扉は開かれた。

ハデスの腕に横抱きの形で抱かれた彼女。
それはまるで陸に上がることの出来ない人魚のようであり、長いドレスに隠れた足の先は一つになっているのでは無いのかとポセイドンは感じた。
拍手喝采の中で進んでくるハデスの腕の中の彼女は照れくさそうにポセイドンをみて微笑む時、彼は無性に鼻の奥が痛くなり視界が滲んでしまう。
海のような淡い水色のドレスは過去の彼女が選んだものだった、チュールタイプの大きなドレスからマーメイドドレスに変わったのだと理解するとそれはまるで彼女との時間はもう戻らないことではあるが、彼女との時間が再開したという意味にも感じられる。

「ポセイドン、受け取ってくれるか」

目の前で足を止めたハデスの腕の中で自分の腕を伸ばす彼女が「ポセイドン様」と頬を赤く染めて微笑むのを見て彼は静かに腕を伸ばして受け取るとポセイドンは彼女をいつものように片手で抱き上げて、二人はゼウスの前に並んだ。
そうするとゼウスは誰よりも祝福に満ちた表情で二人を見つめて問いかける。

新郎、海の王ポセイドン、そなたはここにいるマリスを病める時も 健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓うか。

「当然だ」

新婦、人魚姫マリス、そなたはここにいるポセイドンを病める時も 健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、夫として愛し、敬い、慈しむ事を誓うか。

「はい、もちろんです」

それは迷いない二人の誓いである。
深い悲しみであろうと、その命ある限り互いに真心を尽くすと二人は誓い合えば、指輪を差し出されポセイドンは彼女の小さく細い指に器用に片手でつけてやり、彼女もポセイドンの大きな節くれだった優しい手に指輪を通した。
そして二人はゼウスの声も聞かずに唇を重ねた、例え人であろうと、人魚でなかろうと、もう二度と海をあの頃のように泳げずとも、肉体が変わろうと、二人の魂は互いにだけ寄り添っていたから、深く強く愛し合い抱きしめてポセイドンは優しく彼女を下ろして唇を離しては見つめあった。

「マリス、余は貴様だけの海(もの)だ」
「ポセイドン様、私はあなただけの真珠(もの)です」

そうして海と真珠は一つとなり、もう一度地面に足をつけてキスをした二人にゼウスは「熱いのぉ、誓いなんぞいらんかったわ」と笑い、先頭で悩んでいたアダマスが「いつまでしてんだよバカ夫婦!」と恥ずかしそうに声をあげるのを二人は気にもせず、ただ眩い太陽の下で、広い海で誓いを立てた、もう二度と離れないと今度こそ夫婦として、強く優しく、それは海のように深く。

一日はあっという間だったと思いながらも夜更けに目覚めたマリスは寝ぼけ眼で起き上がると自分を強く抱きしめるポセイドンがいた。
彼は上半身に服をまとっておらず、自分も随分乱れた格好だと気付いては少しだけ恥ずかしくなるものの、起き上がった彼女の腰に回された手を見るとその左手の薬指には輝かしい指輪が存在しており、彼女も自分の左手を見つめては思わず窓の外の月に向けた。

銀色の指輪に小さく並んだアクアマリンと真珠であり、それはまるで二人がならんでいるようであり、彼女は嬉しそうに頬を緩めていれば腰を抱く腕が強くなり、視線を向けると不機嫌に見える夫の視線が向けられた。

「何をしている」
「起きちゃったので指輪を見てました、嬉しいからつい」
「……これから先永遠に見てられる、早く戻れ軟弱者が」
「はい……ねぇポセイドン様」
「なんだ」
「私幸せです、あなたと出会って悲しいことはあったけど、それでもあなたがいてくれて」

本当はずっとあなたが私を待っていてくれたのを気付いてたんです、だけど起きれなかった。と零した彼女はポセイドンの腕の中にもどっては甘えるように胸に顔を埋めるとポセイドンは少しだけ間を開けたあと彼女の背中に腕を回して強く抱き締めた。

「貴様はいつも寝すぎなんだ」
「はい、これからは早起きを頑張ります」
「そうしろ、でなければ余が暇を持て余すからな」

不器用な彼の甘えが愛らしくて彼女は「はい」と返事をすると肩までしっかりシーツを掛けられてより強く抱き締められる、夜はまだ長い、そして寒くて広いからこそ彼はその腕に閉じ込めた、もう二度と離さないように。

「愛しているマリス」

何度も言い慣れた言葉を呟いて。

──人魚姫はある日、愛する海の王様のために冒険にでかけました。
しかし不幸な事故で眠ってしまった人魚姫に王様は悲しみ、それがダメとわかっていながらも彼女を人形のような人間に変えてしまいました。
その代償に人魚の記憶から王様は消されても、彼は人魚姫を守り続けました、それが彼女の幸せだと思っていたから。
そして王様の愛を受けた人魚は記憶を取り戻し、真実の愛に気付いて王様を愛し、二人は泡にもならず、ずっと、ずっと、ずぅっと幸せに王様の城で暮らしました。

おしまい。
 

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