「痛いッ、痛いよぉ、や゛め゛て゛!!ごめんな゛さ゛い゛!!ポセイドン様...ポセイドン様、助けて、助けてぇ」

痛みに耐えきれずに自分の肌に赤い爪痕を残し噛みつき自分に助けを求める彼女はあの時、あの台座の上でそう叫んでいたのだろうと彼は痛いほどに理解した。胸が痛いどころではない、張り裂けて消えてしまいそうだと彼は思いながら手の中の錠剤の入った小瓶をみつめた。

記憶が完全に戻り過去に同化した彼女の苦しみを癒す方法はその小瓶の中の薬を与えることだった。元に戻し、無の彼女に返してしまえば苦しむことはない、例え数千年ぶりに目覚めた彼女をまた深い海の底へ誘うとしても。

しかし彼には出来なかった、愛するが故にその苦しみに泣き叫ぶ彼女をただ抱きしめてあの時の罪を感じることしか出来ない、彼女の爪が彼の皮膚を傷付けて、あれ程美しかった人魚の歌声はただ苦しみに叫ぶことしか出来ずに声帯を痛ませる。
大きな彼女の瞳が絶望に染まり、海の雫のような涙を流している姿を彼はあの時のものだったのだと、理解していてもどうすること出来なかった。それが呪いなのだと理解していたから。

そして、その時、ポセイドンと彼女の瞳が重なった。

愛おしい者を捉え、その者に助けられなかった彼女の絶望がまとわりついた瞳、そして彼女─人形─は一つの言葉を呟いた。

「イヤァ!!たすけ、ッ、ポセイドンさま、ぁ…なんで、どうして助けて、くれなかったの、嫌い、嫌い、大嫌い!!ポセイドンさまなんて、大嫌い!!」

大丈夫だと、そばに居ると、悪かったと、口にして彼女を抱きしめていた筈のポセイドンは彼女を見下ろした、絶望と憎しみと恐怖を纏った彼女がポセイドンだけを捉えて、記憶の海路の中で埋もれて混乱した故であると彼は理解していた、否、理解したいと思っていたかったが彼女の手が強く彼の胸を押した。

「わたしを、助けてくれない、あなたなんて、大嫌い!」

痛い……痛い……と泣きじゃくる彼女にポセイドンは理解した。
自分は間違いを犯したと、そうでなければおかしいと。
どれだけ見た目は同じでも所詮これは偽物だ、そうでなければおかしい。

「マリスは余を拒絶しない、貴様は偽物だ、所詮偽りの傀儡だ」

ポセイドンはアクアリウムのその部屋の中で彼女の上に跨った、そして痛みに嘆き苦しむ彼女を無表情で見下ろしては片手でも十分掴める細い首に自らの右手を添えて力を込めた。
彼女は裂かれた痛みを感じる喉に更なる圧迫感を与えられ目を見開いた、声にならない声が漏れて、より一層その四肢が陸に上げられた魚のようにバタバタと動き回ることも彼は不快で、静かに自身のトライデントを呼び出しては、二本の両足を一つにするようにその槍で貫いた。

「〜〜〜ッ、ぐ」

より一層顔を歪める人形を見てポセイドンは目の前の存在が最愛の姿をしただけの醜い人形に感じられた、人形であるのならば抵抗もせず静かに受け止めろというように、彼はその腕に力を込めると彼の右手の筋肉がより一層引き締まり、そしていよいよ彼女の瞳が虚ろむとき、人形は微かに微笑んだ。

「ポセ、イドン……さま」

それは彼女と同じものだった、紛れもない彼女だったのだ。
絶望と痛みに叫び、ポセイドンを求めていた姿は間違いなく彼女であると気付いた時には骨が折れる音がアクアリウムの部屋の中に響いた。
薄暗い部屋の中でコポコポと水が揺れる音がした、ポセイドンは思わず彼女を見下ろすと、そこには足を槍で貫かれ、ドクドクと赤い血を流し、瞳に光の一つも入れることもなく項垂れた愛する人の姿がいた。

「あ……」

彼は自分が何をしたのかを気付いた、しかしそれはもう遅いことも気付いてしまい、どうしようも無いその事に彼は彼女の上から退いて、静かに動揺をみせた。
彼女が言った嫌いという言葉は助けてという言葉だったのだと彼は感じた、けれど彼には受け入れられない言葉だった。しかしそれは言い訳でしかなく、魂の定着が進んだ器はまたただの空の器に還ってしまい、ポセイドンは彼女をみつめ、そして感情を閉ざした。

彼は魂を失ったその人形を暴いた、あの時と変わらない血肉があり、肉が裂けて血が溢れて、アクアリウムの床が汚れることも気にせずに彼はその肉体に手を入れて、そして心臓部にある彼女の心臓を取り出した。

「……久しいなマリス」

薄暗いアクアリウムの部屋の中で彼はそういって一粒の真珠を光にあてるように掲げては恍惚とした表情でみつめた。
そして彼はその真珠に唇を重ねては、ゆっくりと口の中に含んで、静かに嚥下した。そうすると全身に彼女が流れ込むように感じられ、妙な温もりと心地良さに包まれるようであり、ポセイドンは頬を微かに緩めた。
それは待ち人にようやく出会えたような喜び方だ。

「貴様の味はやはり変わらんな」

あの時の肉の味とおなじ、甘美なる優しさと甘さを含んでいると思う時、飲み込まれた真珠が彼の胃ではなく胸に落ち着いたのを彼は感じて彼は自分の胸に手を添えてもう片手でトライデントを握ると瞼を閉じて微笑んだ。

「あぁ……これでずっと一緒だな」

もう二度と離れることもない、器だっていらない、自分の胸の中で永遠に生き続ければいい、真珠とは本来体内に宿るもの、海の王の中で眠るその真珠は輝きを失うこともなく、そして苦しむこともなく、静かな心地よい眠りを感じるだろう。

そうして彼はその部屋に落ちている人形に目もくれず部屋を後にした、
赤い雫は彼の足を汚していたが、それさえ彼は気にしない、ただ静かに神は完璧な者として妻と共に生きることにした。
例えそこに彼女という存在がいなくても、彼の胸の中に真珠は未来永劫朽ちることなく存在するから。
 

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