「痛いッ、痛いよぉ、や゛め゛て゛!!ごめんな゛さ゛い゛!!ポセイドン様...ポセイドン様、助けて、助けてぇ」

痛みに耐えきれずに自分の肌に赤い爪痕を残し噛みつき自分に助けを求める彼女はあの時、あの台座の上でそう叫んでいたのだろうと彼は痛いほどに理解した。胸が痛いどころではない、張り裂けて消えてしまいそうだと彼は思いながら手の中の錠剤の入った小瓶をみつめた。

『リセットをすれば彼女は二度と起きなくなるだろう』

彼女の肉体と魂の定着を行ったベルゼブブに告げられた言葉だった。
リセット──それは彼女の記憶を奥底に眠らせてしまうことであり。もう一度何も無い器に戻すことだった。魂とは繊細で脆いものであり、何度も触れていいものではない。ハデスは魂に触れることは神であっても許されぬ罪であると話、主神であるポセイドンがそれを知らないわけもなかった。
痛みに苦しみ嘆き、大きな瞳からポロポロと涙を零す彼女を見下ろす彼は自分の罪を強く感じた。

愛とはエゴでしかない。
そう理解していても彼は己が彼女の前では完璧な神ではなく、ただ一人の男でしかないといつも理解していた。
あの日、地下室の台座の上で誰かもわからぬほどに傷つけられた彼女、意味の前で形を残しても痛みに嘆き苦しむ彼女、それらをみつめてポセイドンはハデスが魂に触れる危険性についての本質を理解したのだ。
どれだけやり直しても、どれだけ作り替えても、もう二度と戻れないのだと。彼女の魂はあの暗い地下室に閉じ込められており、どれだけ美しいアクアリウムに囲まれても、彼女の好きだったお姫様のような服で飾られても、優しいこの城の中にいても救われないのだと。

「そうか、それなら楽になろう、余も貴様も、互いに解放されよう」

そうしようと彼は泣き叫び苦しみに身を捩る彼女を抱きしめたまま小瓶を開けて、小瓶の中の錠剤を口の中に押し込んだ、そして半分ほど無理やりに流し込んでやればポセイドンも自分の口に残りを押し込めた。
魂に繋がるように作られた薬は神さえも眠りへ誘うものだ、本来は魂を落ち着かせるためのそれは使用法を厳重に守らなければ二度と目覚められぬ呪いの品であると理解している。

「それでも貴様となら、どこまでも逝こう、我が愛おしいマリスよ」
「……ぽせ、いどん、さま」

瞼が下がる彼女が力なく項垂れて眠りにつくと、ポセイドンは彼女を抱きしめ直して、その髪を撫でて、頬を触れて、唇に口付けて、そして自分も重たくなる瞼に目を閉じた。
それでよかった。
彼女のいない世界に彼は存在できなかった、完璧であり続けようとしても半身を失った神がどうして完璧でいられようか。彼にとっての彼女はこの世界の全て、いや、それ以上なのだ。

どんな結果になろうとそれでいいと彼は優しく彼女を抱きしめ直して瞼を閉じた、深い深い海の底に落ちていくように。

足音が静かな海の王の城に響いた。
城の最深部に位置するアクアリウムの部屋の扉を開くなり、冥王ハデスはその中心で寝そべる二人に近付いて、顔を見るなりすぐに理解した。

「……選んだのか、我が弟よ」

微かな予感をしていた、
そもそもこの呪いはあまりにも不完全で不確かで、そして愛という完成されたものだった。
真実の愛がなければその呪いは解けないが、愛を与えれば真実に辿り着き、正気のまではいられない、
ポセイドンは完璧な存在であると彼も理解していたが、それは最愛である彼女がいてのこと。出会う前であればよかったが運命とは時に悲惨に全てを教えてしまうため、あの日出会った時から二人はもう離れられないことになっていた。

ハデスは幸せそうに抱きしめ合う二人に悲しい表情で見下ろすが、二人は優しく微笑んだようで、その姿は本当の愛を得たようであり、なにか心地よい夢でも見ているようだった。

「それなら余はお前たちの選んだ道を祝福しよう」

もう二度と目覚めることはないと知っているからこそ、ハデスは二人を静かに弔った、もう二度と苦しむことはないようにと。

大海の王ポセイドンの城、
その最深部のアクアリウムの飾られた美しい一室にはとても美しいベッドが一つ置かれてあり、そこには王と王妃が並んでいた、いつまでも幸せそうに静かに、誰も二人を起こすことなどできず、ただ二人は永遠の眠りを味わいながら、幸せな夢を見るのだった。
 

top index