海、陸、森、土、埃、様々な匂いと夢をみる。
最後に来るのは後悔と謝罪であると思いながら目を開いた、ベッドの天窓の裏に描かれた絵はいつもと変わらぬ星空で、それがいつからか彼女には懐かしいものに感じられた。この城に居ても夜の空は見られるがそのベッドでみる夜空の絵は何故か妙に覚えている気がして思わず手を伸ばしてみても触れることは出来なかった。
起床と同時に侍女が入室してはいつものように彼女を着飾った時、彼女は鏡を見つめた、自分は自分ではないのではないのかと思い始めて以降、それは日に日に強くなる、この城という名の籠の中を不思議と恐ろしいと思ったことはない、ポセイドンの指示を嫌だと思ったこともない、それは何故なのかと思えば思うだけ、まるで子供がこの世の全てに疑問を感じるかのように彼女は感じてしまう。
侍女に優しくコルセットを締められて、まるで王妃のような純白のドレスのような何重ものフリルとレースが重なってあしらわれた姿を見る時、彼女は何故彼女たちにこれだけ尽くされることに慣れているのだろうかと思った。
「ねぇみなさん、どうして私はこんなにもあなた達にこうされることに慣れているんでしょうか」
誰も答えることはなかったが数名で着替えをさせる彼女たちの手は明らかに止まるが彼女の問いかけは止まらなかった。
「どうして私はこの城で、あの方のそばにいて、どうしてあなた方に世話をされることが当たり前なのでしょうか」
「おく...マリス様、それはあなた様が目覚めてから私達がそうしているからです」
「どうしてそれが当たり前なのでしょう、私はずっと寝ていたんですか、誰もそれを知らないのでしょうか」
鏡越しに見えた侍女達の表情に彼女はどうして彼女達が泣いてしまいそうなのだろうかと思った。
「だっておかしいじゃありませんか、私は人間なのに、こんな神の城にいるだなんて」
ぐしゃりと侍女達は悲しい目をして彼女を宥めては身支度の手伝いをさせた、大丈夫だと言い聞かせる彼女たちの声を聞いたのはその時が初めてであるはずなのに彼女は聞き覚えがあるような気がした、全てがわからないと彼女は感じて城を歩いた、アクアリウムと寝室以外には行かないはずがまるでこの城にずっと住んでいたように彼女はずっと慣れた足取りで廊下を歩いた、その背後には侍女が着いており何処かに逃げ出すわけではないものの彼女は「ここは書斎、あっちは大広間、向こうは客間」と呟いた、そして気付けば彼女はアクアリウムの部屋の中で横になっていた。
何も言うことはなかった。
ただぐったりとその小さな体で動き回った反動が来るかのように彼女は伏せていればいつものように医務官達が現れ彼女を検査し、そして小さな口の中にラムネを入れて、力なく眠る彼女をみつめた、それはどこまでも悲しそうに。
夜になればポセイドンは彼女の寝所に現れそのベッドに入った。
昼間、彼は彼女のそばにいなかったが珍しいことが起きているという報告を逐一受けていた彼は知らぬふりをして今日も静かに横たわる彼女のネグリジェの裾に手を入れて、そして珍しくその布を全て剥ぎ取った、まるで陶器のように美しい肌と滑らかな真珠のような肉体、必要なもの以外は何も存在しないその肉体を彼は味わい尽くしていた。首筋に顔を寄せて、足の間に手を伸ばして指を作業のように潜ませて、奥から溢れる蜜を拾って狭いその場所を開いて、彼女からも小さな吐息が漏れるのを彼は一つも漏らすことなく聞いた。
じっくりと丹念にほぐしたその場所に彼はその身を沈める時、彼女がシーツを握る指先が白くなるのを見た。苦しそうに大きな質量を受け止める彼女を見下ろして無表情にただ義務的に彼はそれを進めた時、彼女の手が彼の首に回り、彼を弱い力で抱き寄せて女のように声を上げた。
「好き...好き、ポセイドン様」
そうつぶやいたとき、二人は夢から覚めたように互いの顔をみつめた、彼は目を大きく見開いて「マリス...?」と動揺したように問いかけるが、彼女は彼以上に動揺した顔をした、何を言ったのかはわからない、けれどずっとそういっていた記憶があるような気がした、そしてそう思った途端に頭の奥が割れてしまいそうな痛みに襲われて、思わず身を捩って逃げ出そうとポセイドンの胸を押した、嫌もダメも言わない彼女がみせた逃げるような拒絶を受ける彼は唇を噛み締めた。
「どう、して...なっ、んで」
「考えるな、貴様は余の海の中にいればいい、なにも考えず...全て忘れていればいい」
全てというのは何を指すのだろうかと思いながらも彼女は大粒の涙をボロボロと流した、彼の大きな手が包み込むように腰や後頭部を抱きしめて、互いが深く繋がりあいながら息苦しさに意識が遠のく中で彼女の目には彼が見えた、泣いてしまいそうなその表情の意味を知りたいと願っても彼は答えてなどくれない。けれども瞼を閉じたその奥で彼は幸せそうに微笑み優しく頭を撫でていた。
『全くお前はいつもそれだな』
呆れたようにいう彼の眼差しも声も指先も全てが相手を心から愛するもののようであり、彼女はこの夢は誰の夢なのかと思いながら深い夢に落ちた、冷めたくない夢だと思いながら、彼の熱を味わいながら海に包みこまれるように抱かれながら。
「一時しのぎにしかならないといっただろう」
蠅の王ベルゼブブはそういった。彼は深い眠りに落ちた彼女をみながらベッドのそばに置かれた小さな小瓶をみつめた、それには小さなラムネのような錠剤があるがそれはもう既に半分近く無くなっていることに呆れながら隣の部屋で佇む海の王にうんざりしたような、しかしどこか憐れんだような言葉を掛ける。
ポセイドンは一切彼を見ることはなく、静かに窓辺に佇み外をみつめていた。天界の夜は冥界よりも明るく眩く、月に照らされた海は危ういほどに美しいものである。特にこのポセイドンが支配する海はなによりも美しいものであると神々の誰もが感じてしまう。もし海で生きている者がそれを目にすれば無我夢中になるのも無理はない。それはベルゼブブも理解していたことだった。
「魂の定着として神力を注ぐこと、そして定着が進めば記憶が戻っていくから薬を飲ませる、だけどそれがいつまで持つかなんてわからない。特に君の傍では、どれだけ管理しようとそれがこの呪いの本質だ」
ベルゼブブはポセイドンの背中に向けて冷たいような現実の言葉をナイフのように突き立てた。
『これを行ったとして、お前たちは苦しむだけかもしれないんだぞ』
かつてハデスはそういってポセイドンが持っていたものを手に取った。
そして彼はそれら全てを理解して「それでもいい」と答えてしまった、正確には彼はそれでもいいからと頼んでしまったのだ、自分のエゴだとわかっていても、他者に同じ罪を重ねさせるとしても、それでも彼は望んだのだ。
「愛は呪いだと、貴様が一番知っているはずだ」
「そうだ、だから僕はあなたに力を貸すよ、ハデスさんの頼みじゃなくても、あなたも僕と同じ闇を抱えているから」
これは置いていくが時間は進むぞと告げて彼は新しいラムネを置いて出ていってしまう、ポセイドンは静かに外を眺めた、海は静かに夜を告げて波音が彼の耳の奥でこだまする。
たった一言のことだった、彼女の口からこぼれた愛の言葉を繰り返して思い出す時、彼は静かに拳を握り顔を伏せた、悲しみも憎しみも愛おしさも混ぜ合いながら、秒針は静かに進んでいく、例えそれが壊れていてもいつかはネジが巻かれてしまうから。
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