La floraison






 思い残しがないようになんてこと、到底人間には不可能なことのように思えた。
 遺書という物は自らの死期を悟っているからこそ前もって書くことが出来る。しかし、それが分かっているからといって、言いたいことを余すことなく伝え切れる人間がどれだけいるのだろうか。紙の余白は有限だし、言葉だって無尽蔵なようで人間のちっぽけな脳に蓄えられる語彙は限られている。


「私、遺書とか上手く書けないタイプだと思う」
「急に何だ」
「全然伝えたいこととか、残したいことが纏まらないの。多分書き忘れもあるし」
「ああ、……後輩への引き継ぎの事か」


 納得したような声音を漏らしながら手塚は私の手元のキャンバスノートに目線を落とす。我々テニス部の三年生は、選手マネージャー共に全国大会を終えた八月を境に引退する。引退を前にして部長である手塚とマネージャーの私は、引き継ぎ作業に追われていた。この引き継ぎノートの作成もその一環として個人的に行っているものであるが、もう今日の分の作業を終えたはずの手塚は練習に顔を出す訳でも帰宅する訳でもなく、部室でペンを持って小一時間頭を悩ませる私を眺めていた。

 業務内容だとか事務的な連絡については一通り書き終えたしなんとか内容が伝わる程度の文章になっていると思う。手塚に確認してもらったしきっと大丈夫だろう。

 しかし、問題はノートの締めの言葉だった。私は手塚のように皆を引き締めるような一言は言えないし、大石のように優しく力強く皆を励ますような事も言えない。一体私は後輩のマネージャー達に何を残してあげられるのか。


 何を伝えたいか。パズルのピースを手繰り寄せるように、そっと長かったようで短かったような三年間を回顧する。明らかなミーハー心で友達と共にテニス部マネージャーになった私を嘲るかのようにマネージャー業は過酷だし、周りの目は厳しかった。私は無性に悔しかった。辞めてやるのも癪なので絶対に認めてもらおうと死ぬ気で働いたし、全然興味がなかったはずのテニスの用語やルールも死ぬ気で叩き込んだ。一矢報いるべくしてもがいていただけなのに、いつの間にか毎日私以上に汗水垂らしてがむしゃらな部員たちに心を打たれていた。そして自然と互いを認めていた。

 チームが負けた時、泣き出しそうになるのを堪えてタオルを渡したら「変な顔」と変な顔で茶化された。チームがギリギリの試合に勝った時は喉の奥から叫び出しそうになってどうにかなりそうで、試合後でハイになっているはずの彼らに「落ち着け」と宥められた。そんな一喜一憂を繰り返して遂に今年の夏──青春学園中等部テニス部は、全国大会優勝を収めた。優勝旗を受け取って、隣に座る男は、手塚国光は、笑っていた。


 私がマネージャー業に振り回されていた一年生の頃から、この男だけは別格だった。彼のテニスは強く真っ直ぐで美しかった。そんな彼を合間に目で追うようになったのは自然なことだと思う。彼は高みにいた。その気持ちに近づきたいと思った。もしかしたら。いや、もしかしなくても、私が今日まで駆け抜けて来られたのはこの男の存在故だろう。彼のテニスに、魂に惚れ込んだのだ。駆け抜けた。我々は既に、駆け抜け終わったのだ。じわりと目の奥に熱が滲んだのを感じ、ばたんとノートを閉じて立ち上がる。


「もういいのか」
「うん」
「……泣いているのか」

 泣いてない、と強がった声が震えた。そういえば私は、文章だけじゃなくて嘘も下手くそだったかもしれない。息を長く吐き出す微かな音に一拍遅れて、衣擦れの音が聞こえた。カタンと椅子が揺れる。



 抱き締められている。目を伏せていても、それだけはハッキリと認識できた。柔く閉じ込められた腕の中は清潔な花の柔軟剤の香りがする。いつも見つめていた大きな後ろ姿は、思っていた以上にすっぽりと私を覆い隠している。紛れもない手塚国光の優しさだった。その優しさに甘えるべきか私にはわからず、力なく下ろした両腕は行き場を失っている。


「無理に言葉にしなくてもいい。今まで態度で十分に示してきたはずだろう」
「……うん」
「少なくとも、俺はお前に感謝している」


 酷く満たされている。頭上に落とされた声は凛として甘い。駆け抜けた日々は確かに終わりを迎えようとしている。けれどもその前に、言葉にしなければいけないと心臓が早った。



「手塚、」
 今までありがとうございました。返事はない。私は、愛しくがむしゃらな日々のかけらを閉じ込めるように、そっと暖かな背中に手を回した。
 


残滓






- 12 -

bookshelf