La floraison







 暑い。
 九月に差し掛かる頃、もう涼しくなっても良いはずなのに必要以上に元気な太陽が強い光を放っている。窓ガラス越しでも強い日差しを遮る術もなく、窓際の席をクジで引き当てた一ヶ月前の自分を恨みながらつまらない現代文の授業を聞き流す。
 どうせなら問題集でも進めてしまおうか。定期考査もすぐ近くまで迫ってきている。ぱらぱらとページを捲りまだ終わっていない所を見つけて適当に広げる。設問一。主人公がクラスメイトの女の子から目を逸らした理由を答えよ──テストの点数をその女の子から見られてしまった時の行動だ。普通に考えれば悪い点数を見られたのが恥ずかしかったからだろうか。
 解答欄を見ればもう答えていた問題だった。過去の私は今の私と似通った解答をそこに書き込んでいたようだった。しかし不思議なことに、その解答の上には赤でチェックマークが書かれていた。どうやら思っていた最適解は間違いらしい。では答えはなんだ。少し気になって解答冊子に手を伸ばしたところでタイミングよくチャイムが鳴る。

 六限目が終わり、騒めきと間延びした空気が立ち込めた教室の雰囲気に流されて席を立つ。今日はレギュラーミーティングがあって部活自体はない。チーフマネージャー以外は参加しなくても良いということなので、特段することもないし家に帰ろうと思う。




「おい、苗字」

 右から名前を呼ばれてその方向に振り向く。宍戸が私の横に突っ立っていた。何の用、と聞く前に机の上に小さな何かを転がす。それを拾い上げてみれば、折り畳まれたメモ紙だった。それ、隣のクラスのヤツがお前に渡せって。宍戸が大して興味無さげに言う。何か言葉を返す間もなく宍戸が席を離れる。気怠そうに鞄を担いでいるのを見るに、跡部から速やかに集合するように念を押されているのだろう。苦笑を零して紙を開いてみる。文字を追う。
 
 だい、に、おんがく、しつ…………?ああ、第二音楽室か。そう合点するのには大して時間は要しなかったが、真の意味は瞬時には理解できなかった。第二音楽室が何なんだろう。第二音楽室に来いということだろうか。恐らくその解釈で合っているはずだが、言葉が足りていないのではないかと軽く文句を言ってみたりもする。
 隣のクラスのヤツとしか言われていないが、流石の宍戸も女の子をヤツと呼ぶとは考えにくいし──男子、だろうか。
 流石に異性を呼び出す意味がわからないほど鈍くはない。強い緊張感が腹の底から込み上げる。とりあえず行ってみるしかないと腹を括った。





 第二音楽室の扉の前に立つ。確かに中からは人の気配を感じた。ごくり。静かに息を呑む。緊迫した空気がドアの隙間から流れ出しているようなそんな気さえして、指先が震える。その力が上手く入らない指で取手に手をかけ、扉を開く。カタカタと若干立て付けの悪い扉が動き遮っていた中の風景が顕になる。

 そこに居たのは何処か見覚えのある男子生徒──ああ、サッカー部の部長だ。結構顔も格好良くて結構女の子に人気があるはずだ。思いもよらぬ人物に吃驚していると、向こうが先に口火を切った。その顔に浮かぶ緊張の色に、思わずこちらも身構えてしまう。


「来てくれたんだ、さんきゅ」
「うん……えっと、何か……用事、だよね?」
「あ、ああ……聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「……苗字って、好きな人とかいるのか?」

 ドクン。痛いくらいの鼓動が体を突き上げる。何でそんなことを聞くんだ、とは聞けなかった。聞くまでもなかった。そんなの分かっている。その一言が全てを示している。
 返事を待つ彼の目は真剣だった。生まれて初めて告白された私はどうしたらいいか分からず、足元を見つめて正解を模索する。しかし、考えつくより先に口が動いていた。


「…………いる。好きな人、いる」
「……やっぱり、か」

 即答だな。男子生徒が困ったように笑う。冗談めいた口調が逆に苦しくなって、泣きたいのはあちらのはずなのにこちらが泣きたくなる。でも、ちゃんと言わなければいけない。


「俺、苗字のこと好きだったけど……諦めるしかなさそうだな」
「ごめん……ありがとう」
「おう。…………じゃ、俺行くわ」


 手を軽く上げて、私の脇を通り過ぎていく。その背中を見送った。……告白された、と言っていいのかは定かではないが、告白紛いのことをされたことが未だに信じられない。あまりにも現実味がない。頭に靄がかかったようにぼんやりとしていて、何も考えられない。全て終わったはずなのに、どうしたらいいかわからない。これが断ったことへの罪悪感なのか、告白されたことへの驚きなのかはとても今の私には判別できない。




 ──ガシャン!

 静けさを取り戻した音楽室には似つかわしくない衝突音が響いた。ぼやけていた頭が急に冴える。冷静になって勢いよくその音の方向に体を向ける。また、硬直した。


「……鳳、君」



 何でここに。
 そんな問いは驚きに吸い込まれてしまった。そしてその問いの答えは、倒れた譜面台と共に彼の足元に散らばった楽譜の山を見れば容易に想像がつく。しかしそれどころではない。音楽室の扉の前に鳳君が立っているということは恐らく……先程の一部始終を聞いていた、ということになる。
 そこまで行き着いて、顔から血の気がすうっと引いていくのがわかった。内側から体を叩く鼓動が加速していく。拍動は強まるばかりで、周りの音が聞こえない。それでも彼の声はやけにはっきりと聞こえてしまうから不思議だ。


「す、すみませ……あの、聞くつもりなくて、その、」
「……だ、大丈夫、だよ。ごめん、音楽室に用事だよね、私もう行くから、」
「ま、待ってください!」


 え、と声にはならなかった。彼が伏せていた目を上げる。その目は、つい先程も目にしたような、そんな気がした。鳳君が一歩、二歩と間合いを詰める。それに合わせて訳も分からず更に駆け足になる鼓動。真摯なその瞳が私を射抜く。鳳君にこんな目で見つめられたのは初めてでのことで、私はもっとどうすれば良いか分からなくなってしまった。


「先輩の好きな人って、…………忍足さん、ですか」
「…………え?」
「ああっ、すいません、その、…………俺は、応援しますから!あ、もちろん本人には言いませんし俺にできるサポートなら……」
「ちょ、ちょっとストップ!」
「…………へ、」


 一人暴走し始めた鳳君を今度は私が制す番だった。数々の疑問が脳を支配する。なんで鳳君が私の好きな人なんて聞くのか。そもそもなんで忍足君が今出てくるのか。沢山の謎が頭をぐるぐる回るけれど、冷静じゃない頭ではそれらを解決することは叶いそうにもない。とにかく誤解に誤解が重なってできたこの複雑な状況を打破しなければ。正直鳳君と対峙しているだけでいっぱいいっぱいの中、乾いた口を必死に動かして言葉を絞り出す。


「お、忍足君じゃないよ」
「えっ!?そんな……」
「私が好きなのはっ、」


 肝心なところで息が詰まる。どうしてこうも私は思い切りがないのか。そんな自分の性格が世界一恨めしく思えて、なんだか投げ出したくなる。それをグッと堪える。自然と床に向けていた視線を上げる。こうなったら当たって砕けろ!息を吸い込む。



「…………鳳君が好き」

 鳳君の目が丸くなる。そしてその言葉の意味を理解して耳から徐々に真っ赤に染まっていく。ぱくぱくと空気を食むように口を動かす様子が少しおかしくも思えるような気がした。口にしてしまえば案外平静を保っていられるものだ。彼もそんな動きを繰り返すうちに整理出来たようで、先程までの呆けた顔とは打って変わって引き締まった表情になる。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。


「……先輩は、俺の事嫌いなんだと思ってました。目が合うと逸らされるし……明らかに避けられてましたから。それに、後輩の男なんて頼りないでしょうし」
「…………ん?」
「忍足さんとよく話してるし、忍足さんみたいな大人っぽい人が好きなんだろうなって思って、」
「ま、待って。それじゃまるで鳳君が……」
「まるで、じゃありませんよ」


 鳳君がゆっくりと手を伸ばす。
 「──名前先輩のことが好きです」そしてそのまま相変わらずの優しい手つきで私の体を引き寄せた。いとも簡単に収まった鳳君の腕の中は熱いほどで、多分私もそれに負けないくらいの熱量を持っている。
 脳に雪崩込む膨大な情報量に脳がついていけない。でも確かに聞こえた。彼の声がしっかりと耳に残っている。二重に響く鼓動は確かに押し付けられた胸板からも聞こえてくるのだ。


 私歳上だけど、いいの。
 絞り出した声はやはり掠れていて情けないほどに震えていた。それでも照れ隠しのつもりだったそれを、そんなの関係ないです、と言って抱き締める腕の力を強める彼がどうしようもなく好きで、好きで。


 ──主人公がクラスメイトの女の子から目を逸らした理由を答えよ。ふとあの設問が頭に浮かんだ。
 その理由は多分、この痛いくらい鳴り響く感情に似ている。


背伸び、そして跪く






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