
「ったく、あのバカどこ行った!!」
バタバタと廊下に大きな音を響かせながら駆ける彼の姿に、周りの知人たちはまたか、とため息を漏らしていた。
「あれ、衣更君どうしたの?」
「あぁ真!!名前見なかったか?!」
不思議そうに尋ねてきた真に問い返すも「ううん、見なかったよ」と首を横に振る真に、真緒は肩を落とす。全くどこにいったんだあのバカ。彼の額には、今まで走った証である汗がにじみ出ていた。
「真緒―!!」
ふと聞こえた、探していた人物の声。窓の向こうから響くその声に反射的に振り向けば、屋上のフェンスをよじ登りこちらに手を振る名前の姿に、廊下で話していた2人は目を見開く。
「はっ?!なんであんなところにいるんだよ!!」
「えっちょ名前ちゃん危ないよ……って、衣更君!?」
言葉を漏らすよりも早く動き出す真緒の背中が凄まじい速さで離れていく。その後ろ姿を見つめて真は小さく笑いを零して見送った。
*
自身の口から絶えず繰り返される呼吸が荒々しくなる。それにも構わずに屋上へと続く階段を二段飛ばしで駆け上がると、冷たい感触のドアノブを思いっきり握る。重みのある鉄製の扉を押し開けた瞬間、屋上を駆け抜けていた風が、一気に正面からぶつかる。
「名前!!」
「え?」
なんでこんなところにいるの?とでも言うかのようにフェンスによじ登ったまま振り返った大きな瞳はまん丸に見開かれていて。固まっている彼女を降ろそうと歩みを再開したとき。屋上を再び通り過ぎる悪戯な風。それは真緒の髪の毛や彼女の髪の毛を攫うと同時に、彼女の長けの短いスカートを翻そうと仕掛けるから、真緒は慌てて目を背ける。
「わっ真緒来ないで!スカート大変なんだって……!」
フェンスから慌てて手を放しスカートを押さえつけた彼女。「おい馬鹿あぶないだろっ!!」ぎょっとした真緒の忠告。しかし、それどころではない彼女はパニック状態らしく、なかなか元の形に戻ってくれないスカートを足で押し込もうとでもしたのか、次は足をフェンスから離した。小さな身体が急に傾き始める。
「う、ひゃあああ!」
「おい!馬鹿!」
それがいけなかったらしく、不安定な彼女の細っこい身体は屋上のコンクリートに向かって落ちていく。あぁ、これは痛い。結構まずいかな。なんてどこか頭は冷静で。考えながら次に訪れるだろう強い衝撃に、目を瞑ったその時、ドンと鈍い音が屋上に響き渡る。
「……あれ?痛くない?」
恐る恐る目を開けるとそこに移るのは、見慣れた赤くなびく髪の色。抱きしめられるように背中に回された大きな手が、双方の私の腰に置かれていた。
「真緒!?大丈夫!?」
「……いってぇ」
私が落ちる直前、下に回り込んで受け止めてくれたのだと、数秒経って理解する。コンクリートに背中を打ったのだろうか痛感に歪んだ表情に背筋が冷えた。
「真緒怪我は?!」
「〜〜っ、いや……」
声にならない悲鳴を零した後「平気」と言ってくしゃりとほほ笑む。でも、やはりその顔は少し汗ばんでいて、痛みのせいか彼が時折見せる無理矢理な笑顔と酷似していた。彼に万が一のことがあったらどうしよう。踊れない、さすればアイドルにだってなれなくなってしまうのだろうか。もしそうなれば、それはすべて私のせいだ。胸中に生まれた大きな不安が渦を巻くようにして膨れていく。彼女の顔はどんどんと曇ってゆく。
「ごめんなさい……。屋上ならステージ良く見えるかと思って、それで……」
自分のせいで彼の未来が消えてしまったら、大好きな人の夢を壊してしまうことになる。そう考えた瞬間、不安が形となって溢れ出す様に涙が次々と零れだす。
「ごめ…んな……さいっ……」
「……ん?お前なんで泣いてんだっ!?」
本当に何やってんだろう。自責の念で潰されそうなくらい胸が痛む。少女の目からぽたりと零れ落ちてしまった雫が、下にいる真緒の頬、にじみ出る汗の上に落ちて交わる。目を開いた彼は名前の顔を見てぎょっとする。
「どこか痛かったか?どこが痛い?」
「違う……真緒は、怪我は?」
「俺は大丈夫、それよりお前は?泣くほどどこか痛いんじゃないのか?」
彼はよいしょと上半身を起せば、自然と彼の上に跨っていた彼女と向き合う形になる。 心配そうな瞳と涙におぼれた瞳の視線が交わった。
「ごめんね、真緒。わたしのせいで……」
「大丈夫だって。軽く打っただけで怪我してねぇし、な……?」
赤子を慰めるように、抱き寄せて頭を優しく撫でるその手つきに、彼女の涙腺はますます崩壊していく一方で。すでに顔を覆う両手の掌は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「本当、焦ったんだぞ。ようやく見つけたと思ったらあんなところにいるんだからさ」
「だって、真緒驚かせようと思って……」
とんだサプライズだな。確かに驚いたけどさ。そう言ってため息交じりの笑いを漏らす。いつでも世話焼きな真緒に助けられてきた。だから、たまには自分で達成したことを彼に自慢したかった。そして、褒めてもらいたかったのだ。
「頼むから危ないことはしないでくれ。こっちの寿命がいくらあっても足りないだろ」
そう、こうして少し硬い大きな手で、すごいなって笑いながら撫でてほしかった。
「……え?なんで?」
頭の上と背中に回る暖かな手の感触に、心地よさを感じていたその時、ふと彼の言葉に疑問を覚えた。私が危ないことをすると、どうして彼がそんなに危機感を感じるのだろうか。こっぼれる涙を拭いつつ首を傾げると真緒の手がビクリとして動作を止める。
「この鈍感……っというか、なんでそっぽ向いているんだよ」
「だって涙でぐちゃぐちゃになったし」
「そんなこといって、やっぱどっかケガしたんじゃないだろうな」
「ちがう……や、見ようとしないでよ」
「取り合えず顔見せろ」
「やだ、いまひどい顔してる!!」
真緒の大きな手が逃げようとする名前の両手を掴み、あっという間に微弱な両手は剥がされてしまう。突如冷たい屋上の風が吹く。それが外気に晒された顔に当たるとひんやりとして心地よくて、熱る頬に今更気が付く。でも晒された無様な顔を、彼に見せるのは抵抗があって、せめての反抗心で顔を俯ける。
「こら、逃げるな」
伏せた顔を逃がさないとばかりに、真緒のゴツゴツとした手が名前の顎に添えられる。
「やだ、今ブサイクなんだって!」
「はいはい、名前はいつでも可愛いぞー」
「馬鹿にしてるでしょ!?あぅ……」
顎を掴まれて強制的にくいっと持ち上げられた顔は真緒の目前に晒される。そこで視界に入った真緒の整った顔に思わず言葉を失えば、彼はほら、と呆れたように眉を下げた。
「こんな目を赤くして。お前腫れやすいんだから擦るなよ」
「う……」
「全く、本当に世話の焼ける」
そう言った真緒が彼女の目元を指の腹で優しくなぞる。その表情が言葉の割には嬉しそうだったので、彼女は思わず閉ざしていた口元がわずかに緩む。
「真緒は世話焼くの好きでしょう?」
「あのな、確かに嫌いじゃないけど疲れるんだよ!」
「でも、嬉しそうだった」
「…っ!それは…お前だからであって……」
途端、言葉を失くして目を逸らす彼。その頬は微かに赤みを帯びていて、尖らせられた唇からぽつりとそう呟いた。再び、何度目かの強い風が屋上を吹き抜ける。激しい風は、名前と真緒の髪をさらう様にして通り過ぎた。
「……いっそお前を、ずっと目の届く範囲に置けたら、こんな心配しないでいいんだけどな」
ぽつりと真緒が呟いたのを合図に、風がぴたりとやむ。少し寂しそうなその横顔は、遠くにふわふわと浮かぶ白い雲をその目にとらえていた。
「……名前、目を閉じろ」
突如真剣な顔して私に向き直る。鼻先が触れ合うまで数センチの距離なのに、彼はいつものように慌てない。頭に疑問符を浮かべながらも、真剣な彼の言う言葉に従って、名前は少し痛む瞼を閉じた。瞼の裏に屋上に差し込んだ光の眩しさを感じる。「真緒」思わず彼の名を呼んだ瞬間、口に当たる固い何か。驚いて目を開けた瞬間、その固い何かはコロっと口に転がり込んで。
「はは、旨いだろ」
ほんのりと口内に広がる甘い味。クチャリと彼の手元からするビニール特有の音に、これが飴玉だということを知る。目の前で無邪気に笑う彼に、私は少し肩の力を抜いていた。
(期待していたなんて言えないな)
(あぶなかった……凛月に飴玉もらっといて良かった)
互いがそう思っていることなど露知らず。口内の飴玉が、何の味はわからなかったけどそれは少し酸味を含んでいて。どうしようもなく甘い味がした。
