穏やかな気候、そういえばそろそろ秋かと、徐々に赤く染まり始めた葉を見上げる。さて、いったいどこで俺は道を踏み外してしまったのか。自分では普通に生活してきたつもりだ。普通に授業をサボって、木影で眠って、欠伸をかいて。そんな日常の中のどこに踏み外す要素があったのか。まだぼんやりとしていて、覚醒しきってない頭で考えてみるが、まるでわからない。
「凛月!!凛月ぅー!!」
「げぇ……」
どこにも変態に好かれる原因なんて見つからない。また来た。背後から聞こえる甘ったるい声に、苦い声を溢す。本当なら今すぐ走って逃げたいけど、生憎朝からそんな元気はない。幸せそうに声を弾ませて駆けてくる学院唯一の女子生徒である名字名前。本当、なんでこんなのに好かれてしまったんだろう。
「凛月、お嫁に来ませんか」
「おはよう代わりに、それ言うのやめてくれる?」
「え、なに?もらってくださいだって?」
「あれぇ、この耳は飾りかなぁ?」
低い位置にある彼女の耳を軽く引っ張ると、その瞬間僅かに肩を跳ねさせ硬直してしまった名前。あれ、やりすぎたか、なんて思ってみたのもつかの間。
「どうしよう、もう耳洗えない」
覗き込んだ先にある真顔のうっすらと開いた唇が、そう言葉を漏らした。聞かなきゃよかった。そう後悔したところですでに手遅れだ。
「不潔な女の子は嫌いだよ」
「毎日洗うわ」
「気変わり早すぎ」
「だって凛月に嫌われたら生きていけない」
嫌われたくない相手にしつこく付き纏う人間の言葉とは思えない。
「それより凛月、今日もかっこいいね!!」
「……そう」
「そして可愛い!!」
「へぇ」
クラスが違うのが唯一の救いか。朝は特に眠いから、なるべく一人静かに登校したいんだけど。眠たくて開かない視界の端、歩幅を合わせて付いて来ている少女の頭に嘆息がこぼれた。
「あ、今のため息艶っぽい」
「あんたの耳って本当都合良いよね」
「え、やだ…そんな褒められたら照れちゃう」
「褒めてないんだけど?」
両手を赤く染まる頬に当てている名前、冷たい視線を送ったはずなのに、その頬は増々赤みを増していく。
「その冷たい目でもカッコいいよね」
「こっちは朝から堪ったもんじゃない。…あぁ…どういう目で見れば、アンタは離れてくれるんだろう」
「どんな目でも凛月なら大歓迎」
「気持ち悪い」
「褒め言葉ありがとう」
この変態、どうも簡単には追い払えないようだ。にっこりと笑っている名前を見て悟る。冒頭に戻るが、なんでこの変態が付きまとうのが俺なのか。その原因をずっと考えているが、やはり答えは見つからない。
「まぁまぁ、そう気を落とさないで」
「誰のせいだと思ってんのかな」
「え?う〜ん……兄者?」
「あんたのせいだよ。兄者もうっとうしいけど、それと並ぶくらいアンタがうっとうしいの」そう言葉にすれば、まるで理解出来ないといった面持ちで、難しい顔してうんうんと唸りだす名前。
「凛月」
「なに」
「それは兄者と同じくらい、私とも親密な関係だということですか」
「馬鹿なの?」
瞬間冷たい風がふわりと髪を揺らした。それにつられるように顔を見上げた名前がハッと目を開く。元来大きなまん丸の瞳が、更に大きく見えた。本当、黙っていれば顔は良い方なのに。突然、目の前の彼女が目を合わせたままくすりと笑った。
「ふ、ふふっ」
「人の顔見て笑うとかなんなの」
「いや、ごめん」
ちょっとだけしゃがんで?相変わらずくすくすと肩を揺らす名前に、眉を寄せる。なにか企んでいるのだろうか、綺麗に弧を描いた瞳を凝視していても、その真意はわからない。ほら早く、急かしてくるその声に、仕方なく渋々膝に手を乗せてかがむ。
「よっと……」
すると視線を頭に向けた名前が、その小さい手を俺の頭に伸ばして視界から外れた。近づいた首筋からは甘い匂いがして、一応これでも女なんだよなぁ、とぼんやり考える。再び視界に写りこんだ手は何かを掴んでいた。
「あぁ、赤くなる前に落ちちゃったのか」
「葉っぱ?それどこから……」
「凛月の頭についてたんだよ」
くるくると指で弄ばれている葉っぱ。それは見上げた先にある、中途半端に赤い木々たちの中から舞い落ちた、ほとんど緑色の葉だった。彼女はそれを見落とし、まじまじと見つめている。
「こんな綺麗なら、染まればもっと綺麗だっただろうに」
「へぇ、名前も紅葉が綺麗とか思うんだ?」
「失礼ですよ!?」
「緑でも十分綺麗でしょ?」
「それもそうだね。流石、凛月」
眉を八の字にしてこちらを睨む名前が、顔をくにゃりとさせて微笑んだ。本当、よく表情が変わるよな、疲れないのだろうか。その顔を見ているのに、全く飽きが来ないことに気が付いて、知らないうちに口角が緩んでいた。
「あ、凛月が笑った」
「え」
「い、今笑った!!」
急にびょんっと勢いよく、2、3歩飛び退いた名前に思わず目を見張る。今、自分が笑ってた?いや、それよりもそんな驚くことではないんじゃないか、なんとなく怪訝な顔つきになる。
「そんな驚くことでもないんじゃない?」
「いえいえ!!」
素早い動きで、ポケットから取り出されたスマホ。綺麗な指さばきで、ささっと操作をすると、それがこちらに向けられる。
「さあ、もう一度」
「は?」
「今の!!今の笑顔撮りたい!!」
「うわぁ……」
キラキラとした笑顔で、そんなカメラ向けられたって、笑うわけないのに。眩しい笑顔に軽蔑の眼差しを向ける。
「そのゴミを見るような目も……素敵です」
「気持ち悪い」
こんなのに構ってたら、いつまで経っても学校に辿り着けやしない。スマホを構えている彼女を放って進む。え?だとか、待って!?とか焦った声を無視して歩けば、パタパタと忙しない足音が追いかけてきた。
「そんな照れないでよ可愛いなぁ」
「もうお願いだから消えてくれない?」
「それも、テレなんですね」
「もう……」
何を言っても無駄な気がする。わざと歩幅を大きくして歩いてみると、背も足も俺より小さい彼女が、その速さについてこられるわけもなく段々と離れていく距離。それを必死に埋めようとするぱたぱたと小走りするローファーの音が聞こえた。
「可愛いね、凛月」
「はいはい、もう話しかけないでね。俺眠いから」
「うん」
おしゃべりな口は意外にもぴたりと止まる。一瞥すると、隣を歩く名前は口元を緩ませながら前を向いて歩いていた。まるで隣にいるだけで良いとでもいうように、頬を薄っすら赤らめて幸せそうに。
「……ほんと、ばかだねぇ」
涼しい風か吹き抜けるが、不思議なことにあまり肌寒いとは思わなかった。少しだけ足の速度を緩めれば、一瞬驚いたような顔でこちらを見上げた名前。
「凛月」
「なに」
「大好きです」
聞き飽きたんだよ、その台詞も。いつの間にか眠気も吹っ飛んでしまったようで、またため息が零れた。