01

 がらんとした店内をぼんやりと見ていた。窓には雨粒が激しく叩きつけられ、時折聞こえる風の音がその激しさを物語っている。
 大型の台風が直撃しているのだから店を閉めたらどうだと進言したが、それは聞き入れられず商品の数は普段より減らしてはいるがいつもと同じように開店した。けれど予想通り、客は一人も来ていない。天気のよい土曜日ならば混雑はしなくても客が途切れることはほとんどないのに。
 店番を任されていたトレイはそんなことをぼんやりと考えながら大きく息を吐いた。店の奥でトレイの父もケーキを焼くこともなく、退屈そうに備品チェックをしているのが見える。母は「事務仕事をする」と言って、早々に上の居住スペースへ行ってしまった。弟と妹の様子も気になったのだろうが、やはりこれほどまでにやることがないのなら休みにしたほうがよかっただろうとトレイはカウンターに頬杖をつく。

「お父さんがお店閉めるって。手伝ってくれる?」
「いまから?」
「ずっと開けててもしかたないでしょ」

 けれどそう言いながらトレイの考えを読んだかのように店内に母が姿を見せた。店を開けたはいいものの、予想よりも台風の勢いが強かったのだろう。とにかく父が店を閉めると言ってくれてよかったと胸の中で安堵しながらトレイも手伝い始める。
 しかし開店してから数時間しか経っていないためそれほどやることもない。後は戸締りだけ、という時に外からドンっと何かが強く壁に打ち付けられる音がした。急いで窓から外の様子をうかがっても打ち付ける雨粒に遮られよく見えない。仕方なくトレイは不安そうな顔の母を店内に残し、外へ出た。
 雨風は未だ強く吹き荒れ、トレイはとっさに眼鏡が飛ばないよう手でおさえた。少し店先に出ただけだというのにものの数秒でずぶ濡れになる。それでも視界の悪い中で目を凝らすと店の出入り口のすぐ横、花壇の上に誰かが倒れているのがわかった。

「大丈夫ですか!?」

 トレイは声をかけながらその人影に近づく。風で煽られて壁に頭を打ち付けでもしたのか、倒れている人は微動だにしない。救急車が必要か、それよりも死んでしまってはいないか、頭の中で思考しながらその人の傍に屈んだ。
 その人は、人間ではなかった。頭は人間に見えるが鰭があり、肌は手触りも、色も人間とは程遠い。極めつけは足ではなく、尾鰭があることだった。

「……人魚」

 妹に読んでやったことのある絵本の人魚とは違うが、その人も人魚だとしか思えなかった。トレイは雨に打たれながらも目の前に存在する人魚に思考が停止してしまう。
 人魚は呼吸が苦しいのか、鰓をパクパクと開閉させている。けれどトレイはどうしてやればいいのかわからず、動けないままでいた。

「トレイ?何かあった?」

 なかなか戻ってこないトレイを心配したのだろう母が店から出てくる。屈むトレイと倒れいている人魚を見た母は一瞬驚いたように息を飲んだが、すぐにトレイの背中を軽く叩いた。

「中に入れてあげなさい。もう……かわいそうに」
「でも、母さん。家のどこに寝かせるんだ?」
「人魚なんだからバスタブがいいよ。水入れてくる」

 慌しく店に戻って入った母を見送り、トレイを人魚を担ぎ上げた。重さは問題無かったが長い尾鰭だけは持ち上げきれず、少しだけ地面に擦れてしまう。どうにかならないかと人魚の体を抱え直してみたが、どうにもならずに仕方なくトレイはそのまま人魚を店の中へ入れる。
 店に入るとカウンターの上にタオルが何枚か用意されており、トレイが人魚を抱えたままでも歩きやすいように通路の荷物などがどかされていた。しかも母から話を聞いたらしい父が簡単にトレイの濡れた体を拭いてくれる。そうして階段を上がり、床にタオルがしかれたリビングを通って浴室へ向かった。
 浴室ではすでにバスタブに水が半分ほど溜められていた。そこへゆっくりと人魚を下ろす。水に浸かった人魚は苦しげだった表情をほんのりと緩め、鰓も外で見たときよりもゆるやかに開閉していた。
 人魚は初めて見る。けれど、その人魚の顔にはどこか見覚えがある気がして、トレイは浴槽の傍に膝をつき、まだ目を閉じたままの人魚の顔を覗き込んだ。整った顔立ち、黒いメッシュの入ったターコイズの髪。瞳の色は何色だろうか。きっと綺麗に違いない。その時、ふいに人魚が目を開けた。

「おわっ!」

 目を開けた人魚に突然抱きつかれたかと思えば、次の瞬間には怒り心頭といった様子の人魚に怒鳴られていた。しかし人魚の言葉はイルカの鳴き声のようで、何を伝えたいのかは全くわからない。ただ人魚が口を開ける度にチラチラと見える鋭い歯やその歯並びが気になって、トレイは人魚の口元から目が離せなかった。
 それが悪かったのか人魚は一度口を閉じると、今度はぐわっと大きく口を開け、がぶりとトレイの鼻に噛みついた。痛みにトレイはとっさに手で鼻をおさえ、浴室にある鏡で確認する。血は出ていなかったが、鼻にはくっきりと綺麗に人魚の歯型が残っていた。

「何するんだ……」

 恨めしげに人魚を睨みつけるが、人魚は拗ねたようにトレイから顔をそらした。人魚はまだ不満げに小さくきゅいきゅいと鳴いている。トレイは鼻をおさえながら母を呼んでこようと立ち上がった。けれどそれは人魚に腕を掴まれ阻止されてしまう。
 トレイが人魚を振り返れば、人魚はひどく不安そうな顔でトレイを見上げていた。怯えているようにも見え、トレイはもう一度浴槽の傍にしゃがみ込む。

「どうした?」

 人魚は必死な様子で何かを話しているが何を言っているのかトレイにはわからない。トレイが眉を寄せると人魚はショックを受けたようで、泣き出すのを我慢しているような表情のまま黙り込んでしまった。手からも力が抜け、トレイの腕から離れていく。
 そんな人魚が痛ましくて何かしてやれないかと思案したがトレイは何も思いつかなかった。とりあえず先ほど呼べなかった母を呼ぼうと再び立ち上がる。今度は引き止められることもなかった。
 母を呼べばすぐに浴室へ来た。弟と妹も一緒にいたが騒ぐこともなくバスタブの中にいる人魚へ手を振ったりしている。だが人魚は体の具合や空腹の心配をするトレイの母にも、興味津々で話しかけた弟たちにも一切興味を示さなかった。もう悲しげな顔はしていなかったが、トレイのことを恨みがましく睨みつけると水の中に潜ってしまう。バスタブの中にぎっちりと入れられるだけ体を入れると、入りきらなかった尾鰭だけがバスタブの縁に垂らされ、呼びかけても人魚は全く反応しなくなった。


・・・


「シャワーを浴びたいんだ。だから……その、俺の部屋に来てくれないか?」

 バスタブに立てこもられたらどうしようかと内心ひやひやしながらそう問いかければ、人魚は思ったよりも素直に水から顔を出した。ほっと息をつきながらトレイは人魚と目線を合わせるように膝を折る。

「俺が運ぶから。触ってもいいか?」

 人魚は小さく頷く。トレイは「ありがとう」と礼を言って人魚の体を浴槽の中から抱き上げた。当たり前だが服がびしょびしょに濡れ、さすがにこのまま部屋までは行けないとトレイは一度タイルの上に人魚を下ろす。
 不思議そうな顔の人魚を安心させるために笑いかけながら、棚からバスタオルを一枚手に取る。それを人魚へ渡せば、何をして欲しいのか理解したらしい人魚は静かに体を拭き始めた。その間にトレイは濡れたシャツを脱ぎ、最初からこうしておけばよかったと思いつつ上半身だけ裸になる。体を拭き終えた人魚からタオルを受け取り、自分の脱いだシャツとまとめて洗濯機へ入れ、また人魚を抱きかかえた。
 人魚は一言も鳴かなかったが大人しくトレイの首に腕を回し、さらには長い尾鰭をトレイの体に巻きつけ、協力的な態度を見せた。最初の怒り狂っていた態度とは大違いだったが大人しくしている分には助かると、トレイは特に何も言わなかった。
 人魚を避難させておくのにリビングでもよかったが、トレイ以外の人間に怯えているようだと言う母の意見でトレイの部屋に連れていくことになった。トレイの部屋には家族で出かけるときに使っている大きめのレジャーシートをすでに敷いており、そこへ人魚を下ろす。さすがに体が乾いてしまうのはまずいだろうと水を入れた霧吹きも用意していた。

「ええと……何か必要なものはあるか?」

 興味深そうに部屋の中を眺めていた人魚はトレイの言葉に何かを書くジェスチャーをして見せた。トレイは文字を書くのだろうかと不思議に思いつつも、机の引き出しからペンと紙を取り出し人魚へ渡してやる。それを受け取った人魚はさっそく床に紙を置き、さらさらとペンを走らせ始めた。
 手元を覗き込んでもどんなことが書いてあるのかはわからない。その何かを書き終えた人魚に紙を渡され、まじまじと見ても書いてあることを理解することは出来なかった。おそらく書いてあるのは文字なのだろうとは思う。しかし読むことは出来ず、必然的に内容を理解することも出来ない。

「悪い。お前の言葉はわからないよ」

 人魚はまた泣くのを我慢するような苦しげな表情になった。トレイはそんな人魚の気を紛らわしてやれないかと、人魚の書いた文字の隣に自分の名前を書いてみせる。

「これが俺の名前。トレイ・クローバー」

 指で示しながら読み上げると人魚は興味深そうに名前を見つめては、自分で書いた文字と見比べていた。また紙とペンを要求され、トレイは快く渡してやる。人魚はトレイの名前のすぐ下に文字を書き綴っていた。
 書き終えた人魚は再びトレイへ紙を渡してきた。トレイの文字を真似て書いたようだったがやはり読むことは出来ない。

「これ、人魚の言葉か?」

 人魚は渋い顔で首を横に振った。トレイの文字を真似てかいたのだから人魚にとっては人間と同じ文字のつもりなのかもしれないと思い至り、機嫌を損ねてしまったかもしれないとトレイは苦笑いを浮かべる。
 トレイと人魚は間に置かれた紙とペンを見つめ、お互いに黙っていた。トレイは黙りこくる人魚に何と声をかければよいのか分からず、人魚は言葉を交わすことを諦めたのか無表情のままだ。しかし、その沈黙を破るように部屋の外からトレイを呼ぶ声が聞こえ、トレイは内心ほっとしつつ人魚を残して部屋を出た。

 夕食とシャワーを終え、部屋に戻ったトレイは惨状に開いた口が塞がらなかった。部屋を一度ひっくり返したのかと思えるほど、整頓されていた物たちがあちこちに飛び散っている。本棚の本はすべてが床にブチまけられ、クローゼットも漁られたのか衣類が飛び出し、ベッドは布団が落とされているだけでなくシーツまで剥がされていた。
 そんな散乱した部屋の真ん中で人魚は何かを考え込むように顎に手を当て険しい顔をしている。時にパラパラと本をめくってみたり、棚の中を掻き出してみたりと何かを探しているようにも見えた。頑なに食事を取らなかった人魚が何を考えてこんなことをしたのかはわからないが、怒りで手が震えてくる。

「おい!」

 トレイは人魚を怒鳴りつけた。人魚は涼しい顔を一度トレイに向けたきり、また床に散らばる物へ視線を戻してしまう。
 犬や猫などのペットに部屋を荒らされるのはこんな気分なのかと、脱力した体に力を入れ直したトレイはもう一度怒鳴りつけながら何とか人魚へ歩み寄り、無理やり顔を向けさせた。がっちりと顎を掴んでいるが人魚は顔をしかめるだけで逃げ出そうとはしない。トレイはこの人魚が何を考えているのかわからないまま、ダメなことだと弟たちにするように叱った。
 人魚の名前が分からないことは不便だったが、どうにかもう二度としないと首を縦に振らせることが出来た。トレイはむっすりと不機嫌な人魚になんてふてぶてしいのかと心の中で毒づきながら、部屋の片付けを始める。まずは本から拾い始めたが、どれもシワや傷がついていることはなく、濡れていることもなかった。他のものも衣類が少しシワになってしまったぐらいで、壊れた物はなく、傷すらついていない。
 トレイは人魚をそっと振り返ったが、人魚はつまらなそうな顔をしつつも、棚から出した小物や文房具を元あった場所へしまっていた。そんな様子がかわいらしく思えトレイは笑みを浮かべる。

「何か欲しいのか?」

 そうトレイが声をかけると、人魚は複雑そうな様子で口を開かけたが結局何も言わずに口をつぐんだ。言葉がわからないと知りつつもそんな姿を見せられてしまえば気になってくる。トレイは手に持っていた本を全て片付け、目線を合わせるように人魚の前にしゃがんだ。

「退屈だよな?まだ嵐はすごいから外には出してやれないし……」

 言葉がわからないとなるとテレビはつまらないかもしれない。本も文字が読めなければ退屈は紛らわせないだろう。そこでふっと弟たちが持っている絵本を思い出した。絵本ならば文字がわかならくても絵で物語を追えるかもしれない。

「ちょっと待っててくれ」

 トレイは人魚の返事も待たずにまだ散らかったままの部屋から飛び出し、弟たちの本が並んでいる本棚に向かった。その本棚はリビングに置かれており、すぐさまトレイはいくつか本を手に取ることが出来る。しかもそこには絵本の他にもいくつか図鑑が並んでおり、少し悩んだがそれらも持っていくことにした。
 数分でトレイが部屋へ戻ると、あまり散らかり具合は変わっていないがトレイが居ない間も人魚が片付けを進めてくれていたようだった。そのことにお礼を伝えつつ、トレイは人魚へ持ってきた本を差し出す。人魚は不思議そうな声で一度鳴いた。

「好きに読んでくれ。気に入るかはわからないけど」

 トレイがそう言いながら人魚の近くに本を置いてやると、人魚は小さく頷いた。それに満足したトレイは人魚にニッと笑いかけてから部屋の片付けに戻る。これでしばらく退屈をしのいでくれれば部屋を荒らすこともないだろう。つまれた本の一番上の一冊を手に取る人魚を視界の隅で見つつ、トレイは散らばったままの衣服を拾い始めた。

 静かに植物の図鑑を眺めている人魚を観察しながら、片付けが終わったトレイも海の生き物の図鑑をパラパラとめくった。さすがに人魚のことは載っていないが、魚の生態が少しでもわかれば人魚の理解の助けになるはずだ。そう半ば祈るようにトレイはせめてどの魚の人魚なのか知りたいと隅から隅まで目を通した。
 たまに人魚へ霧吹きで水をかけてやることも忘れずに、寝るまでの数時間を部屋で人魚と共に過ごした。しかし明日も休日とはいえ、普段それなりに規則正しい生活を送っているトレイはやはりいつも就寝している時間には眠気に襲われてしまう。そろそろ人魚をバスタブに戻そうとトレイが立ち上がると、人魚はきょとんと図鑑から顔を上げた。

「ごめんな。もう寝ようと思うんだ」

 人魚はこくりと頷くと、見ていた図鑑を閉じ、レジャーシートの上でとぐろを巻くように丸くなった。トレイはその行動に目を見開いたが、すぐに「いやいや」と寝る体勢の人魚に近づく。人魚は怪訝そうにトレイを見上げてきた。

「バスタブまで運ぶぞ?まさかここで寝るのか?」

 人魚は当たり前だとでも言いたげに大きく頷く。トレイはどうしようかと頬をかいた。人魚は丸まったまま、ここから動く意思はないようだ。
 トレイはため息を吐くと、人魚の尾鰭に霧吹きで水を吹きかけてやった。人魚はトレイがバスタブに運ぶことを諦めたのがわかったらしく美しく整ったつり目を細めて微笑む。その表情に胸の奥でどきりと音が鳴った。

「あ……寝る支度をするから明かりを消すのは少し待ってくれ」

 もう一度人魚は頷くと丸まり直し、目を閉じた。その姿が可愛らしく見えトレイの頬が緩む。とにかく早く寝る支度をしてしまおうとトレイは部屋を出て洗面所へ向った。


・・・


 目を覚ましたトレイは微睡みもそこそこに昨日人魚を助けたことを思い出し、体が乾いてしまっていないか心配になり飛び起きた。部屋を見回すが人魚の影も見えず、しっかり眼鏡をかけてから人魚を探しても部屋のどこにも姿はない。昨日敷いたレジャーシートと用意し霧吹き、人魚に貸した絵本と図鑑が積まれているだけだ。
 誰かがバスタブまで連れて行ったのかと、トレイは大きく伸びをしてベッドから降りる。顔を洗おうと洗面所へ行ったついでに浴室も覗き込んだが、バスタブからは水が抜かれており、人魚の姿もない。まさか夜中のうちに出て行ったのかと、トレイは歯磨きしながら首をかしげた。

「人魚?あんたがバスタブに運んだんじゃないの?」

 朝食を作っている母に話を聞けど人魚がいなくなっていることは知らないようだった。弟と妹からは「人魚いなくなったの?」「どうして?」と質問攻めにされるがトレイにもわからない。朝早くから開店準備をしている父に聞いても人魚のことは何も知らなかった。

「今日は嵐も過ぎたしお店開けるよ」
「わかった。手伝うよ」

 そうして人魚が来る前の頃のように家族で朝食を食べ、開店準備を手伝い、開店時間からは店先に立つ。昨日が一日中嵐だったためか、いつもより客足は増えていた。そんな忙しない中でも弟や妹の面倒のためたびたび店から離れる母に代わり、トレイは働き続け、昼の休憩が取れたのはもう夕方と呼ぶ時間帯だった。
 母が用意してくれた昼食をリビングで取り、一度休もうと自室へ戻る。すると、今朝片付けたはずのレジャーシートの上に人魚が寝そべり、まだ本棚へ戻していなかった図鑑を読みふけっていた。

「え……?お前……」

 ドアの前に呆然と立ち尽くすトレイに気づいた人魚が挨拶するように一度鳴く。恐る恐る人魚に近づいてみれば、人魚は目を何度か瞬きながら首をかしげた。

「どこにいたんだ?」

 人魚は自分で霧吹きを使ってるようだったがそれ以上に濡れている様子はなく、まるでずっとトレイの部屋にいたように思えた。だがトレイが朝起きたときに人魚の姿はなかったはずだ。トレイは眉間にシワを寄せながら人魚に問いかけたが答えはない。
 家のどこかに隠れていたのだろうと思うことにし、トレイは鉱石の図鑑に視線を落とした人魚を尻目にベッドに横になった。

 腕に何かが当たっている感覚にトレイの意識はゆっくりと覚醒し始めた。薄目を開けて腕を確認すると、上半身をベッドへ乗り上げさせた人魚がトレイの腕に額を擦り付けている。猫が人間に甘えるとき体を擦り付ける場面を思い起こさせるその行動に、トレイは心臓が跳ねたがなんとか動揺を表に出さずに済んだ。
 人魚は一度トレイの腕から額を離すと、今度は頬を押し当てすりすりと擦り付け始めた。端正なつり目をとろけさせながら擦り寄る人魚にトレイはひっそりと歯を食い縛る。どうしてここまでトレイに懐くのか理由は全く思いつかないが、かわいい行動にひどく動機がした。
 その時、部屋の外から母がトレイを呼ぶ声がした。素早くトレイから離れた人魚に笑ってしまいそうだったが、再び母から呼ばれ笑いも引っ込み、体を起こして大きな伸びをする。人魚はとぐろを巻きながらじっとトレイのことを見つめていた。

「もう一働きしてくるよ」

 トレイを見つめたままの人魚へそう声をかければ、人魚に腕をつかまれ引き止められる。少し驚きながら「ん?」と向き直れば、人魚は図鑑のあるページと自分を交互に指差し始めた。
 意図がいまいちわからずも、トレイは膝をつき、図鑑を覗き込む。そのページでは翡翠についてが書かれており、人魚は翡翠の写真の横に書かれた”ジェイド”という文字を指差していた。

「ジェイド?」

 人魚はこくこくと何度も頷きながら自分のことを指差す。トレイははっとして人魚を見た。

「お前の名前か……?」

 間違えているかもしれない不安を抱えながら問えば、人魚は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。その表情にトレイも嬉しくなり、笑い返した。

「ジェイド」

 名を呼べば人魚、ジェイドはくすくすと笑う。鋭い歯がちらりと見えたがそんなことは気にならないほど、ジェイドが喜び、笑う様子がかわいく思えた。
 しかしずっと部屋でジェイドと一緒にいるわけにはいかない。トレイが立ち上がると、ジェイドの笑みは寂しげなものに変わった。「すぐ戻る」とは伝えたものの、ジェイドの表情晴れない。トレイもまだ仕事があることを残念に思いながらも、ドアへ手を伸ばした瞬間、その腕をジェイドに引かれ、もう片方の手で胸元のシャツを掴まれ強い力で引き寄せられた。
 けれど咄嗟にジェイドと自分の顔の間に手を入れることに成功し、トレイの手の平にジェイドの唇が触れた。今、ジェイドはキスしようとしたのか。トレイは混乱で頭が真っ白だったが、ジェイドから悲しさと怒りが混ざったような目で睨まれ、逃げるように部屋から出てしまう。
 ジェイドとキスしていたらどうなっていたのだろう。ドクドクとうるさく音を立てる心臓に呼吸が短く荒くなる。トレイはジェイドを残してきた部屋の前にずるずると崩れ落ち、鼓動が落ち着くまでのしばらくの間、少しも動けなかった。