とっておきのスミレ色

「とっておきだぞ」

 そう言ってトレイはいつもお菓子を差し出してくる。今日はカップケーキで、プレーンとチョコが同じ袋に入れられていた。

「美味しそうです。ありがとうございます」

 こうして受け取るのもいつものことだ。ジェイドが笑えば、トレイも笑って満足そうに去っていく。これがほぼ毎日なのだから、ジェイドはトレイには少なからず自分に気があるものだと思っていた。しかも毎回「とっておき」なんて言葉を使われてしまっては、よりそう考えたくもなる。

「小腹が空いたときにでも食べてくれ」
「毎日大変じゃありませんか?」
「ん?いいや?俺が好きでやってるんだ」  

 トレイは少し不思議そうにしつつも、次の瞬間には照れくさそうに笑った。それから「じゃあな」と一言だけ残しささっと背を向けられてしまう。
 しかし悪い気はしなかった。特別視してもらえているのは気分がいい。トレイがお菓子を作るのは寮の行事のためであったり、自身の趣味であったりと機会は多いが、「とっておきだぞ」いう言葉と共にお菓子をもらうのはジェイドだけだ。
 ジェイドはトレイを見送ったあと、手に持ったカップケーキを見つめ、小さく笑った。


 その日の放課後、さっそく自室で購買部で買ってきたお菓子のレシピ本を眺めていると、後ろからフロイドに覗き込まれた。また山やキノコに関する本だとでも思っていたのか、フロイドは「ケーキぃ?」と怪訝そうに眉をひそめる。

「え〜?次デザート期間でもやんの?」

 気分が乗らないのか声に面倒くささが滲み出ている。ジェイドはそれに笑いながら首を振った。
 ただ、ドリンクのキャンペーンと一緒にデザートにも力を入れるのはいい案かもしれないと頭にとめおく。アズールが何というかはわからないが、もしラウンジで新しいデザートを作ることになればトレイと話す口実になる。もしかしたらラウンジで働いてもらえるかもしれない。

「そうやってニヤけてるってことはウミガメくん関連でしょ」
「おや、ばれましたか」
「ジェイドわかりやすすぎ」

 呆れた様子でフロイドは自分のベッドに寝転んだ。それほど分かりやすいかと疑問だったが、ジェイドは気に止めず再びレシピに意識を戻す。

「オレ、パウンドケーキが食べたぁい」
「パウンドケーキですか」

 興味を無くしたものと思っていたため、フロイドの独り言のような言葉にほんの少し驚きつつジェイドは頷いた。
 パウンドケーキならば買ってきたレシピ本にも載っており、多少のアレンジについても書いてある。これなら練習次第でよりアレンジすることが出来そうだった。

「わかりました。パウンドケーキ作ってきますね」
「今から?」
「はい」

 フロイドが驚くのは無理もない。寮の消灯時間までそれほど時間はない。しかし今から急いで購買部に材料を買いに行けば、ひとつくらいはケーキを焼く時間がある。
 ジェイドはフロイドに笑いかけ、財布だけを手に掴み、勢いよく部屋を飛び出した。


*


 ジェイドはとってきのパウンドケーキを手にトレイを探していた。何度もフロイドに味見をさせ、最終的にはアズールにもどうにか感想をもらうことが出来た自信作だ。トレイが好きだというスミレの砂糖漬けもトッピングしてきた。
 ジェイドは早く「特別ですよ」とトレイに手渡したかった。そしてあわよくばトレイもジェイドにとって特別なのだと実感してくれればいいと思う。
 しかし学園のキッチンでようやく見つけたトレイはハーツラビュルの下級生と何やら料理に勤しんでいる。数人の後輩に取り囲まれるようにしてトレイは作業しており、後輩たちは時々「おおっ」と小さく歓声を上げながら手元をのぞき込んでいた。

「トレイさん」

 とっさに名を呼んでしまったが、声は刺々しくなかっただろうか。今更心配したところで遅い。けれど、トレイの見開かれた目にそう考えずにはいられなかった。

「ジェイド、どうしたんだ?」
「トレイさんを探していたんです」
「俺を?」

 ジェイドがトレイに歩み寄れば、トレイを囲んでいた後輩たちが離れていく。なぜだかその様子が小気味よくて、ジェイドはわざとゆっくりトレイへ近づいた。

「これをあなたに渡したくて」

 トレイの目の前に立ったジェイドはずっと大事に抱えていたパウンドケーキの箱を差し出す。プレゼント程大げさにならないように、それでもある程度見栄えはするようにラッピングした。そんな箱を見て、トレイはぱっと目を輝かせる。

「いいのか?中身はなんだろうな?」
「パウンドケーキです。いつもお菓子をいただいているのでそのお礼に」
「お礼なんてよかったのに。でも嬉しいよ。ありがとう、ジェイド」

 はにかむトレイに「とっておきですよ」と口を開きかけたジェイドは唐突に聞こえた空腹を知らせる音に声をかき消された。キッチンに響いた腹の音にトレイは吹き出し、後輩たちも笑い出す。腹が鳴ってしまった本人だけが顔を赤くして小さく震えていた。

「すみません……でもおいしそうで……」

 そう言う後輩の視線の先には先ほどトレイが作っていたらしいパイがある。おそらくジェイドがキッチンに入ったのとほとんど同時に出来上がったのだろうそのパイからはいい香りがしていた。普段ならばドアを開けた瞬間に気づくだろうに、全く気がつかなかった。そのことに自分でも驚く。
 それほどトレイのことしか頭になかったことがほんのり恥ずかしくなりつつ、ジェイドは邪魔が入ったことに少しだけ腹が立つ。一番の醍醐味だった「とっておき」を伝え損ねてしまった。

「食べようか。特別だぞ。他の奴らには秘密だからな」

 落ち込むジェイドにトレイが気づくこともなく、さらに追い打ちをかけられる。後輩たちの歓声をどこか遠くに聞きながらジェイドはトレイにパウンドケーキを押し付けるようにしてその手に持たせた。

「渡したいものも渡しましたし、僕はもう帰りますね」
「もう帰るのか?ちょうど焼きたてのパイもあるしよかったらジェイドも……」
「いいえ」

 言葉を遮られたことに驚いた様子のトレイにジェイドは微笑みかける。

「僕はお邪魔のようですし。よかったらそれも皆さんで食べてください」

 また声が刺々しくなったかと頭をよぎったもののジェイドは立ち止まることなくその場を離れた。トレイにとって特別は特別ではなかったと考えると胸が鋭く痛んだ。
 それは部屋に戻ってからも収まらず、倒れこむようにジェイドはベッドに伏せる。様子をうかがってきたフロイドに事の次第を話せば、呆れ交じりのため息をつかれた。

「渡せたんでしょ〜?いいじゃん」
「……よくありません」
「もー、ウミガメくんに直接言えよ」

 ベッドにうつ伏せになっているジェイドにフロイドはイラついた声を上げた。
 「とっておき」とはなんだったのだろう。勝手に期待していたと言われればそれまでだが、だとしても毎日言われ続ければ期待だってするだろうとジェイドは心の中で毒づいた。でもそのトレイにとっての特別は日常的なもので、ジェイドに言っていた「とっておき」という言葉も大して意味がなかったのだろう。

「イラついたからってみんなで食べろって言ったのもジェイドなんでしょ〜?」
「そうですけど……」
「それに明日もどうせウミガメくんからお菓子もらうんだしその時に言えんじゃん」
「そうですけど……」

 フロイドの言う通り、いつものようにトレイから声をかけてもらった際に「あれは特別だったんですよ」と言うことは出来るだろう。しかしあの場にいた後輩たちと食べてもいいと言った手前、「とっておき」だったことを伝えるのは気が引けた。
 無理に渡さずに日を改めるべきだったとジェイドは深いため息をつく。ずっと落ち込んではいられないが、今は拗ねるくらいしてもいいだろうとそのまま目を閉じた。


*


 翌日、フロイドの予想通りトレイはジェイドにお菓子を渡してきた。今回はマドレーヌだったが、いつもより袋は大きく、ぱんぱんに詰め込まれている。ジェイドは差し出されたそれを受けるか一瞬ためらった。けれども結局はいつも通り受け取ってしまう。

「とっておきだ」
「……トレイさん、それはどういう意味ですか?」
「え?」

 ジェイドはトレイの目をじっと見据えた。トレイは驚きと困惑が混ざった目でジェイドを見つめ返してくる。

「トレイさんにとっての特別ってなんですか?とっておきもそれほど意味のない言葉なんでしょう?」

 もう声が刺々しいなどと考えてはいられなかった。一度言葉に出してしまえば最後、胸の傷口から血が溢れてくる。

「僕は、僕にとっては“とっておき”でした。でもトレイさんは違うのでしょう?」

 最初はトレイを睨みつけていたのに、次第にジェイドの視線は床に向いていた。こんなことで落ち込んで、それを晒すなんて情けない。けれどこの痛みをトレイにぶつけずにはいられなかった。

「……昨日のパウンドケーキはジェイドのとっておきだったのか?」

 やはり伝わらなかった。ずきずきと痛む胸にほんの少し腹立たしさも混じる。
 ジェイドはもう嫌味でも言ってやろうと口を開いた。

「ええ。フロイドに何度も味見を頼み、トレイさんが好きだというスミレの砂糖漬けをのせた、とっておきだったのですけど……」

 「トレイさんは違ったのですよね?」と最後まで言葉は出てこなかった。目の前に立つトレイは手で顔を隠しているが、隠しきれない両耳が真っ赤になっているのが見えたからだ。ジェイドはどうしたのかと呆気にとられた。

「いや、その、すっごく嬉しくて……おいしかったよ」
「それはよかった……違います。よくも僕のとっておきを踏みにじってくれましたね」
「何の話だ?」
「どうせ“特別”な後輩さんたちと食べたのでしょう?」

 赤面するトレイに胸の痛みも腹立たしさも消えかけたが、ジェイドは昨日トレイを囲んでいた後輩たちを思い出し、再びトレイを睨んだ。しかしトレイはきょとんとするばかりで、ジェイドも拍子抜けする。

「せっかくジェイドからもらったのに他の奴らにやるわけないだろ」

 しかもそう強めに言われてしまえばジェイドも頷くしかなかった。けれどトレイがあの場にいた後輩たちを特別扱いしていたことに変わりはない。このまま絆されるわけにはいかないとジェイドはぎゅっと眉間にしわをよせ、どうにか頬が緩まないよう力を込めた。

「それに、俺にとって特別ととっておきは違うんだ。とっておきの方が上というか……待て。お前、あいつらにやきもち焼いてたのか?」

 じわりじわりと顔に熱が集まってくる。そんなことはわかっていてもどうすることも出来ず、ジェイドは仏頂面のまま顔を真っ赤にするしかなかった。さらにトレイに爆笑され、顔だけでなく体全体が熱くなる。

「トレイさん!笑うなんて!」
「わっ、悪い、でもあまりにもジェイドが、かわいくて……っ!」
「ええ、ええ!やきもちです。ですがトレイさんのせいですよね?」

 トレイは笑いながら弁明してきたが、ジェイドの顔の赤みは引かずむしろどんどん熱くなっていく。ついにジェイドは自分でもよくわからないまま開き直りと責任転換をしてのけた。
 その発言はさらにトレイの笑いを誘ったらしく、目じりから涙が零れ始める。自分も顔を赤くしているのにどういうことだとたまらずジェイドは背を向けた。そのまま立ち去るつもりだったが腕を掴まれ、中途半端に足を出した体勢で止まる。

「笑ってごめんな。つい嬉しくて」
「……僕は嬉しくありません」
「俺のとっておきはジェイドにしか渡してない」

 思い出したかのように胸が突然痛んだ。しかしトレイの言葉を噛み締めるうちにだんだんと痛みは治まり、微かではあるものの充足感が芽生えてくる。

「……特別もとってきも、僕だけじゃなきゃ嫌です」
「ああ、もちろん。軽々しく言わないように気を付ける」

 その言葉にようやくジェイドはトレイに向き直った。腕を掴まれたまま見つめあうことになり、また顔が熱くなる。

「まだジェイドの“とっておき”のパウンドケーキが残ってるんだ。よかったら一緒に食べないか?」
「……いいでしょう。特別ですよ」

 ジェイドとトレイはお互いに頬を赤く染めながら小さく笑いあった。



とっておきのスミレ色