トレを長生きさせたいジェ

※食事に血を混ぜる描写があります。卒業後の同棲設定です。






 指先にナイフの刃を当てるとたやすく皮膚が破れ、血が滲みだした。重力にしたがって落ちる血液をそのままに、何滴か調理中の鍋の中へ入れる。味も臭いも残らない程度の血液が入ったのを確認し、止血をして用意していた絆創膏を指先に巻き付けるように貼った。
 あとはレシピ通りに味を調えれば夕食の完成だ。何の変哲もないスープ、強いて言えばジェイドが家庭栽培したキノコが入っている特別なスープとして今夜もトレイは疑うこともなく食べてくれるだろう。それでも万が一を考え味見をし、念入りに確認をした。以前に一度だけトレイから「血の臭いがする」と言われたことがあるからだ。その時は本当に魚を捌いたのでその血のことであったのだろうとは思うが、うっかり料理に血を入れすぎてしまったのも事実だった。
 ジェイドが料理をすることに疑惑を持たれるようなことがあってはいけない。トレイにはこれからも人魚の、ジェイドの血を摂取し続けてもらわなければ。

「ただいま」

 玄関の開く音と共に聞こえてきたトレイの声に、ジェイドはにこやかに後ろを振り返った。仕事から帰ってきたトレイは一直線にジェイドの歩み寄ると、ぎゅっと体を抱きしめてくる。首元で深呼吸されるのは気恥ずかしいが、一緒に暮らすようになってから毎日のようにされていたので慣れてしまい、もう騒ぎ立てることではなくなっていた。ジェイドはいつものようにやんわりとトレイの体を押し返しながら着替えてくるように促す。

「もうすぐお夕飯食べられますから。ね?」
「わかった……ん?」

 するっとジェイドの手を撫でたトレイは貼られている絆創膏に気が付いたらしい。そのまま手を握られ、目の高さまで持ち上げられた。

「どうしたんだ?まかさ包丁で……?」

 何を言われるのかと思えば、心配そうに眉を下げながら見上げてくるトレイにジェイドは笑った。

「違いますよ。仕事中に書類で切ってしまっただけです。すぐ治ります」
「この前も切ってなかったか?」
「ふふ、そうでしたか?気を付けますね」
「うん、気を付けてくれ」

 トレイは絆創膏が巻かれたジェイドの指先に軽くキスを落とし、ようやく手を離した。やっと着替えに行ったトレイを見送って、ジェイドは食事のために食器をテーブルへ並べる。
 指先を切るのはしばらく控えたほうがいいかもしれない。しかし、服に隠れているからといって安易に腕に傷をつけることも出来ない。一緒に暮らしている中で隠すのは難しく、どこにキズをつけたとしてもどうせ肌をあわせる時にバレてしまう。これからは少し考えなければならないだろう。


・・・


 下唇に歯を立てる。皮膚が破れる痛みがして、口の中に血の味が広がる。顎に伝った血をそのままに、音もなくソースを混ぜ合わせているボウルの中に落ちていくのを見た。

「ジェイド」

 背後からかけられた声にジェイドは咄嗟に手で口元を覆った。驚きに目を丸くしながら振り返れば、無表情にも見えるトレイがすぐ後ろにいる。

「トレイさん……いつの間に……?」

 休日だから昼寝しようとジェイドが誘い、そして一緒に眠った。休日に二人でゴロゴロして過ごすのはよくあることで不審に思われることなどなかったはずだ。夕食の支度のために先にジェイドが起き出すのもいつもと変わらない。時々はトレイもジェイドと共に料理をすることはあるが、今日のように気配を消してまで突然現れるようなことはしなかった。
 トレイは無言のまま、ジェイドの手首を掴み強引に口元から手を剥がした。手には微かに血がついており、噛んだ唇からもまだ少量の血が垂れている。

「これは、あなたが驚かすから……えっ」

 ジェイドが言い訳を言う間もなく、手についた血をトレイに舐め上げられ、間の抜けた声が出る。トレイは驚いたまま固まるジェイドを気遣うこともなく今度は血の出ている唇に吸い付いてきた。
 片方の手でジェイドの手首を掴み、もう片方の手でジェイドの後頭部を抑えるトレイからは逃さないという気迫を感じる。しつこい程に唇の傷を舐められ、トレイの肩を押し返し離れようとするがトレイはびくともしなかった。次第にトレイはジェイドの口内へ舌を差し込み、好き勝手に弄り始めた。舌と舌が触れ合うとひどく気持ちがいい。気付けばトレイを押し返そうとしていた手からは力が抜け、ジェイドからも必死にトレイの口に吸い付いていた。
 絡ませあっていた舌の根が痺れ始めた頃にようやくトレイの唇が離れていく。ジェイドは肩で呼吸しながらまだ無表情でいるトレイの顔を見つめた。

「あの……」
「隠さなくても言ってくれたら飲んだ」
「えっ?」

 またジェイドは間抜けな声を上げた。トレイはふっと表情を緩め、指先でジェイドの唇に触れる。そこからもう出血はしていないが軽く爪を立てられればすぐに血が出てくることは予想出来た。

「知っていたんですか?僕が血を食事に混ぜていたこと」
「最近だけどな。フロイドが注意しろってわざわざ電話してきたよ」
「フロイドが……」

 ジェイドはトレイに自らの血を摂取させていることを誰にも、それこそフロイドにも話してはいない。しかしどうやらフロイドにはバレてしまったらしい。
 だが、それはジェイドの計画が上手くいっている証拠でもあった。フロイドの目から見てもトレイは人間から離れていっている。外側からではなく、内側からゆっくりとトレイは変化していた。もっともっと長期戦になるかと思っていただけにジェイドは喜びを隠しきれず笑みを浮かべる。

「人魚の血肉には不老不死の力が宿っている。それは迷信です」
「でも長寿の薬にはなるんだろう?」
「ええ!寿命を変えると言うよりは長寿種である人魚に近づけるのですが」

 それでも人間の寿命が延びることには変わらない。
 人魚であるジェイドにとって、人間の寿命は短すぎた。だからこそ、トレイの命の期限を延ばし続けなければならない。肉を食べさせるのは難しいため、ずっと血を飲ませ続けるつもりでいた。人間から逸脱したトレイはきっとジェイドから離れなくなるだろうという下心もある。

「俺だってお前と長く一緒にいたい」
「嬉しいです。でもまさか抵抗感が全くないとは思いませんでした」
「うん、無いな。だからもうコソコソ料理に混ぜなくていいぞ」
「やはり味が変でした?」
「いや……」

 その先を言い淀んだトレイは気まずそうに明後日の方を向く。ジェイドは無理矢理にでも視線を合わせようとトレイの視界に入った。

「ジェイドの血の味がわからないのはもったいない気がして」
「んっふふ……!あなたは全く……」

 気恥ずかしさからか苦笑しているトレイから渋々とではあったが、そう聞き出せたジェイドはこらえ切れずに笑い出した。トレイの顔が赤くなるようなことはないけれど、ジェイドと目を合わせようとしないその態度からトレイ本人も気まずく思っていることがわかる。そのことがおかしくてジェイドは少しの間笑い続けた。

「ジェイド、笑い過ぎだ……」

 呆れた様子のトレイにどうにかジェイドは笑うのを止めた。

「すみません、嬉しかったのでつい」
「嬉しかったのか……」
「ええ、僕と同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて」
「じゃあ今度からはそのまま飲ませてくれるか?お前の血」

 ジェイドが返事をする前にキスで口を塞がれる。呆気に取られたジェイドの下唇に歯を立てられ、薄い瘡蓋は簡単に噛み切られた。痛みに驚く間もなく、血を吸われ始める。初めての感覚にジェイドは身を引きそうになったが、トレイに腕を掴まれその場から動くことはできなかった。
 ずいぶんと長い間トレイに血を吸われていた気がする。時折労わるように傷を舐められてまた歯を立てられ、血を吸われることを繰り返され、ジェイドは唇が痺れるような感覚がしていた。

「もぅ……っ、トレイ、さんっ」

 止めてくれと意思を込めて息継ぎの合間に名前を呼んで、少しだけ強めに体を押し返せばさすがにトレイはジェイドから離れた。しかし物足りないと言いたげな瞳とペロリと舌先で唇を舐めるトレイの仕草に心臓が音を立て、うっかり絆されそうになる。ジェイドは軽く頭を振って気持ちを切り替え、中途半端な状態で放置されている夕食になる予定のものを指さした。

「僕、まだお夕飯の準備中ですよ」
「わかった。じゃあ、続きは寝る支度まで終わってからな」
「……はい」

 それはつまり、寝かせてもらえないやつだろうと思っても言葉には出さなかった。「洗濯物、取り込んでくる」とキッチンからいなくなったトレイにどこか安心しつつも、ずっとうるさい心臓の音にジェイドはつい下唇の傷に触れる。
 今夜は一体どうなってしまうのだろう。嫌悪も感じず、抵抗もなく血を飲んでもらえることはありがたいが、毎回こんなことをされてはジェイドの身が持たない。
 ジェイドは新しい悩みの種に苦笑いを零しつつ、料理の続きを始めた。