「大丈夫です…きっとまた、会えるから」
だから泣かないで。私は、平気ですから。ねえ、ダイゴさん。静かでよく通るあの澄んだ声でミヤコが僕に語り掛けてきた、彼女のこの最後の言葉を、生涯僕は忘れることはないだろう。
さて、天を食らわんとするかのように聳え立つ無数のビル群が並ぶ、イッシュ地方一の大都会ヒウンシティに堂々と立つ、ひときわ大きなビルがある。それが、彼女の父の経営する会社だった。遠い遠い海の向こうの大企業の社長令嬢に生まれ、何一つ不自由なく育ったあの子と僕の出会いは数年前。デボンコーポレーションと彼女の父の会社が業務提携をするということになり、その時に僕たちは知り合った。もともと僕らの父が同じ大学の先輩と後輩だったとかで面識があったらしい。それで互いの子供の話になったのだと聞いた。そして、元ホウエンリーグチャンピオンであることや仕事、そして趣味の関係であちこちを飛び回る僕の話が聞きたいとミヤコが言い出したようだった。
初めて会った時の彼女の印象は、大人しそうな子、だった。今でもはっきりと覚えている。大都会の中とは思えぬほど緑の溢れる広い庭、その片隅のベンチで僕らは初めて言葉を交わしたのだ。生まれつき体が弱かったために十歳を過ぎても旅ができなかったと語った彼女は、僕の昔の旅の話や、リーグの話、素敵な石を見つけた時の話…どうでもいいような話にさえ目を輝かせていて、その様子がとても可愛らしかった。
「最近はとても調子がいいから、お医者様はこのままなら治ってしまうかもしれないと仰っているんですよ」―――あの時はそう、語っていたのに。
それから少しして、僕たちは手紙のやり取りをするようになった。女性と手紙のやり取りなんてしたことがなかったものだからそういうことに不馴れなせいもあり、とりとめのない話ばかりの僕の手紙に、溢れんばかりの喜びや好奇心を綴ってくれる彼女の返事を待つこと、そして、彼女の喜びそうな話題を探すことが、僕の新しい趣味になった。
イッシュへ出向く用事があった時は、彼女の具合が良ければだが、必ず会いに行った。嬉しそうに出迎えてくれる彼女と会うたびに、段々ともしも帰ってきた時にミヤコがこうして迎えてくれたらと思うようになったものだった。
そして、出会ってから交流を深めて、一年ほどたった頃だろうか。結婚を前提に付き合ってくれないかと、人生で初めて僕は女性に思いを告げた。断られることはないだろうと、自惚れていた。ルックスだってそこまで悪い方じゃないと自負しているし、家はあのデボンコーポレーション。しかも、何度も海を越えて彼女に会いに来て、それなりに仲良くなっていたのだから。しかし、彼女の答えは「ごめんなさい」というものだった。
「…私は、もう、そんなに、長くはないみたいなんです。ほら、最近あまりお会い出来なかったでしょう?…だから、ダイゴさんのような未来ある方と、こんな私が結婚を前提に…お付き合いなど…」
嘘でもあなたのことを好きじゃないからと、言えればよかったんですけれど、私、そんなこと、言えなくて、言いたくなくて、嘘でも好きな人を嫌いだなんて言えなくて、こんな答えしか言えなくてごめんなさい。―――一語一句、覚えている。いつもにこにことしていたミヤコが、初めて、涙を流して、声を震わせて僕に頭を下げたのだ。衝撃と、彼女が近い未来に居なくなるという信じがたい現実がいっしょこたになって僕の頭をぶん殴った。
君しかいないんだ、だからどうか僕を君を幸せにする最初で最後の男にさせてくれ。もう長くないなんて言うのなら、出来る限り長い時間を、君と居たい。一分一秒でも長く、君のそばに居たいんだ。確かこんなことを言った気がする。
必死で、泣きそうになりながらすがった。みっともない告白だったかもしれない。どうせプロポーズをするなら、例えそこが一流レストランではなく彼女の寝室だったとしても、いつもより澄ました顔で少しきざすぎるくらいの態度で、かしずいて指輪を渡すくらいがいいのかもしれない。でも、そんなことを考えられる余裕などなかった。とにかく彼女を頷かせようと必死だった。
「ごめんね、ダイゴさん、ごめんなさい。ごめんなさい…最後にわがままを、あなたの人生を巻き込んだわがままを、言ってしまって、ごめんなさい…」
ほんの少しの時だとしても、残っている時間を、あなたと居させて―――あんまりにも切なすぎるプロポーズの返事を受け取って、親父や彼女のご両親は正直少し苦い顔をしていたけれど、僕達は結婚した。
そして僕達は自然豊かなホウエン有数の、ヒワマキ程ではないにしても緑の多い土地として知られるトクサネで、短い結婚生活を送った。とても短かったけれど、帰ってきて、ミヤコが笑っておかえりと言ってくれる、ただそれだけで僕は世界の富を全て手に入れるよりも幸せな気持ちになれたものだった。
「大丈夫です…きっとまた、会えるから。だから泣かないで。私は、平気ですから。ねえ、ダイゴさん…」
自分の心配をしていればいいものを、最後の最後まで僕の心配ばかりして、ミヤコは静かに眠りについた。覚悟がなかったわけではなかった、覚悟の上の結婚だった。それでもやっぱり、耐えられなかった。
手術は成功していたのだ、体力の衰えがひどくなってしまったせいだったのだ。それなら、体さえ、保存しておけば、いつかは―――。
その瞬間、イッシュで研究されているという「コールドスリープ」という技術が、頭をよぎった。体を冷凍保存して“眠らせ”て、“眠った”体の再生の準備が整うを待つという「治療法」。
彼女の言付けにより、彼女はこのホウエンの地に眠るということになっていた。ミヤコは治療をしなければならないのだ。言葉とポケモンバトルならば、僕は負けない自信がある。
僕らの両親はやはり反対をしてきたけれど、可能性がないわけではないのだ。むしろ医学は日進月歩、常に前進を続けている。イッシュといえば医学の聖地とも言えよう。そんなところの技術なのだ。必死に話し合って、半ば強引に、ミヤコを治療することを決めた。
だからミヤコは死んでなんかいないのだ。椅子も食器も、いつ目覚めてもいいように、ふたつのまま。何も変わらないこの家で、僕は待ち続ける。冷えた地下室に「眠る」彼女の目覚めを。
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