結婚して数年―――といえど、片手で十分に数えられる程の年数だが―――経った頃だろうか。ミヤコは少しずつ、少しずつ、弱っていった。今までは起きて近所を一緒に散歩出来る程度には元気だったのが、段々と家の中を歩き回るので精一杯になり、ついにはほとんど寝たきりになったのだ。そしてある時、具合が悪くなり救急車で運ばれてからは入院を余儀なくされたのだった。

「…別に毎日来てくれなくても、私は大丈夫ですよ?」ミヤコは困ったような顔をして、横になったまま、僕の手をそっと撫でた。

彼女は、毎日お見舞いに来る僕の身を案じているようだった。この先も、結局、最後まで彼女は僕のことを心配していた。最後まで僕は、彼女のことを心配しながら、彼女に心配されっぱなしだったのだ、おかしなことに。そんなミヤコがしょっちゅう僕を案じる言葉を言うものだから、その都度僕は、僕が毎日来たいんだよ、君も知っているように、あの家には何にもないからね、ミヤコが居ないとつまらないんだ。そんなことを言っていたと思う。

「お仕事で疲れているんでしょう?それに、洞窟とかにだって行きたいでしょうに。ほら、お家にある石を見ていたり、本を読んだりだって…あのね、私に構ってくれるのは嬉しいけれど…もっと自分の時間を…」

そういう僕の言葉を聞いたミヤコが次に言うのはもっと自分の時間を大切にしてくれという言葉だった。小さな頃から入退院を繰り返してきたという彼女は、彼女自身の生来の気質も相まってか、とても控えめな人だった。悪く言えばかなり遠慮がちな人だったのだ。後々聞かされた話なのだが、自分のせいで僕の時間を奪ってしまっているのではないかと、ミヤコはずっと気に病んでいたらしい。その自分の時間を、ミヤコと過ごしたくて来てるんだよ、石も洞窟も好きだけど、やっぱり君が一番だから…そう何度も言い聞かせていたのだけれども。

「病院でしばらくゆっくりしてミヤコが元気になったら、また行くよ。だから、僕の相手がめんどくさいなら、早く元気になってくれよ?」

冗談めかして笑う僕の言葉に、くすくすと笑いながら答えたミヤコの様子が、思い返せば思い返すほど胸を締め付ける。

「ふふふ。めんどくさいだなんて。そうですね、早く元気になって、また…わくわくしながらあなたの帰りを待つのも、悪くないかもしれないですね…」

毎日毎日、仕事が終われば必ずお見舞いに行った。なるべく楽しい話題を探して、残された時間を楽しもうとしていた。―――そろそろ、いつその時が来てもいいよう覚悟を決めるようにと、医者から伝えられたためだった。
ミヤコがその残酷な現実を悟らずにいられるように、僕は彼女の前では頑張っていつも通りの僕でいた。無論本人であるミヤコは、自分に残された時間があとどれくらいなのかをわかっていたかもしれないけれど、それでも僕は彼女の前ではいつも通りにしていたかったのだ。彼女を慮る気持ちもあったが、同じくらいそれは僕自身の希望でもあった。
ミヤコが入院して以来、僕は今までの人生とこれからの未来を考えるようになった。お見舞いの帰り、僕だけしかいない家に帰ってくると、いつもいつも。彼女がいなくなった後、自分はどうなるのかと。
冷静な自分は、家柄のこともあるから自分はこのまま男やもめとしてはいられず、きっと親父辺りが無理矢理にでも結婚を勧めてくるのだろう、そして、そのまま結婚していつの間にか妻となる女性に情がわいて、子供を授かって、そしていつの日か死んでいくのだろうと、考えた。実にありふれた、何の変哲もない未来予想図である。あんまりにも普通であるが、普通であるということは幸せなことだ。好き好んで荒波に揺られる船に乗りたがる者はそうそういるまい。きっと多くの者が穏やかな波に揺られる遊覧船に乗りたがるであろう。そう、それと同じことである。この未来予想図のままに生きることには、決して誤った選択ではない。価値のある選択なのだ。
しかしその一方で、ミヤコ以外の女性など愛したくないと、ずっとミヤコを想って生きていく方がずっと幸せじゃないかと反論してくる自分がいたのだ。ミヤコのいない未来のどこに価値があるのか。確かに彼女がいない未来なんて実につまらないし、想像しただけで発狂しそうになった。どうすれば一分一秒でも長く彼女と一緒に居られるか、ミヤコが入院してからそればかりを考えていたからこそ、そんな未来を思いたくなかったのだ。そんな風になあなあに流されて過ごす人生なんて、緩やかな心の自殺に等しいと思った。
そんな人生なんかより、僕はミヤコを思って生きる方が幸せだ。そうだ、それがいい。お見舞いから帰ってきて何度目かの未来予想図との葛藤の後の決意を固めたある夜、僕は携帯端末を床に叩きつけた。暗い部屋をぼんやりと照らす、ミヤコちゃんに今後もしものことがあったならお前はどうするのかと問う親父からのメールを表示する画面の冷たい光が、じりじりと網膜を通して心に焼き付く音がした。
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