トロイメライのオルゴールが耳元で鳴り、重たいまぶたを開けた。もう、朝が来ていた。幸せな夢を見ていたから、目覚めたくなかったな、と、目を開けたあとで思った。あのまま夢の世界に居られたら良かった。
いつも通り、二人分の朝食を作る。いつ、ミヤコが起きてきても、あったかいご飯を食べさせてやるために。起き抜けの体に、それもずっと寒いところで眠っていた体に濃い味はきついだろうからと薄味の料理を作るうちにいつしか僕は味付けの濃いものが苦手になった。
健康に気を遣うライフスタイルの人間の鑑のような朝食を作り終えて、鍋に蓋をして、自分の分だけをテーブルに並べる。一人で食べる食卓に、会話はない。テレビの音と、換気のために開けた窓の向こうから聞こえてくる鳥ポケモンの鳴き声ばかりが満ちるこのリビングはどこか現実味がない。音がないわけではないけれど、なんだか、少し、目に見えないこの世界を作る要素がずれているような気がするのだ。どこかがおかしくて、何かが足りない。それが何かは言わずと知れている。一番真ん中の最後の1ピースが欠けてしまったことで永遠に未完成になってしまったジグソーパズル。今の僕の世界は、まさにこれだ。
「早くしろよ!」
「待ってよおー…」
窓の向こうから元気のいい子供たちの声が聞こえる。学校のプールに行くようだ。カードがどうこうだとか、懐かしい会話が少しだけ聞き取れた。プール。もうそんな時期だったか。なんだか暑くなったなあ、と思えばあっという間に夏が来て、秋、冬、春と季節が流れていく。味気ない毎日を繰り返していると、時間が流れるのはあっという間だということを知った。
「私、泳いだことがないから、いつかプールや海に行ってみたいなあ」
ふと、夏の暑い日に熱を出したミヤコが、ある時ぽつりと言っていたのを思い出した。そうだ、そう言えばそんなことも言っていた。かわいい水着を着てみたい、水の中を思いっきり泳いでみたい、そんな他愛もないことを彼女は心の底から夢見ていた。
「きっと涼しいですよね」
「夏だからね。気持ちいいだろうよ」
「ダイゴさん、プールとか行きませんか?」
「もうそんな年じゃないよ」
「いつか元気になったら、連れていってくださいね」
いつか。いつ来るかもわからないそんな未来の話をするとき、決まってミヤコはとびきり可愛く笑っていた。約束ね。念押しするように小指を差し出す彼女はまるで幼い子供のようで、僕はそんな彼女をかわいそうに思うと同時に、いとおしくて堪らなかった。
今でもふと───特に、今日のような、ミヤコとの幸せな夢を見た日の朝なんかは───これはたちの悪い長い夢なんじゃないかと考えることがある。いつかきっと、あのトロイメライが聞こえてきて、一番大好きなあの声で「起きて」と呼ばれて、目を開ければ最愛の人の姿があるんじゃないかと。
さすがにそれはないよなあ、とは思う。それに、そんな都合のいいことがあるわけないことも。でも、そうだったらいいのになと先の見えない理想の未来を待つことに疲れた心が、そんな甘くて儚い妄想をさせるのだ。ないない、そんなこと。そう言って冷静な心がその妄想を振り払うのは何度目か。しかしそんな妄想が出来るからこそ、まだまだ待ってみようという気にもなれるから、人間の心は実に良くできている。
書類をさばき、部下に指示を出し、パソコンの画面とにらみ合い、リーグにも顔を出して、灯りの灯らぬ我が家へと帰宅する。ただそれだけの毎日を、ぜんまい仕掛けの人形になって繰り返すだけの日々。温度を失った心を携えて、何も感じぬままに流れる時間を生きていくだけの日々。
「ミヤコ。あと少しで、誕生日だね」
透明な箱の中で眠る彼女の寝顔は穏やかで、いつ見たって可愛らしいと思う。声も匂いも、五感の全てで覚えている。今も変わらず、世界で一番大切な人だ。
「気は長い方だけど、さすがに待たされ過ぎるのは困るよ?それに、このままじゃきっと、いつか年老いてしまって、若い君に釣り合えなくなってしまうからね」
たとえどれだけ時間が流れても、きっと僕のこの気持ちだけは冷めないだろう。いつまでだって、心の奥で、くすぶり続ける。ミヤコの欠けた色のない毎日にの中でどれだけ心が冷えてしまっても、それでもこの思いだけは、熱を帯びたままだ。
その証拠に、僕は彼女が眠りについてから、一度だって涙を流していない。彼女がきっと起きてきてくれると、信じているから。泣けば、その可能性を否定することになるだろうから。
「お寝坊さんも、ほどほどにしてくれよ。今年の誕生日こそ、二人でお祝いしよう。とびきりのプレゼント…今年も考えておくからさ」
早く起きるんだよ。いつもの言葉をかけて、背中を向ける。リビングの壁時計は、午後十二時の手前を指している。変わらない明日がまた、すぐそこまでやって来ていた。
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