話をしないか。神妙な顔をした親父にそう言われて、仕事が終わった後で、僕達はデボンのオフィスの近くにある公園に来た。都会の中の貴重な緑というわけで、昼間はデボンの社員がここでよくお弁当を食べたいたりする。しかし夜となるとその姿は変わるもので、昼間ののどかな風景はどこへやら、寂しい空間となっていた。音と言えば夜行性のポケモン達が草陰で動き回る音がたまに聞こえるくらいである。
「どこかレストランにでもしなくてよかったのか?」
「自分の家で食べるって決めてるから、いいんだ」
もし誰かがいれば、何が楽しくて大の大人が、それも親子揃って公園のベンチに二人並んで座っているのかと聞かれてしまうだろう。何だかとても奇妙な光景になってしまった。でもこれでよかったのだろう、と思う。
「で、話って何」
「いや、何…お前もまだ若いんだし、再婚とか、考えてないのかと思ってな」
「考えてないよ。ずっと独身でいい」
「…そうか」
何度か、言われてきたことだった。今まではメールで少し言われたりする程度だったのだが、昼間話しかけられた時に、何となくこの話題になるのだろうなあと検討はついていた。そして大分真剣に親父が僕に再婚を望んでいることも。だから僕は、レストランに誘った親父をここに連れてきたというわけである。
「ミヤコがさぁ、言ってたんだよ、前に」
「ミヤコちゃんが?」
「子供の頃、公園が好きだったって。まだそこまで体が悪くなかったから、お義母さんに、具合がいいときは公園に連れていってもらってたんだって」
どうせミヤコの話をするなら、彼女が好きだった場所で話したかったんだ。親父にそう言って、僕は視線を少し離れたところにあるブランコへ向けた。
彼女が最後に居たあの病院の窓からは、中庭がよく見えた。ベンチと小さなブランコがあるだけの小さな小さな中庭であったが、ミヤコは少女時代の記憶を重ねて、優しい目をしてそこで遊ぶ子供達を見つめていた。彼女のその横顔は、美しかった。
「ブランコが一番好きだったんだって」
ベンチに親父を残して、僕はブランコまで歩いた。ブランコに乗るなんて何年ぶりだろう。久しぶりに座ったブランコは、とても小さかった。小さい頃、親父が休みの日に連れてきてくれた公園のブランコはもう少し大きかったのになあ、と思った。同時に、ブランコからの眺めがあんまり良くない、というより、普段と何ら変わらないものであることに違和感を覚えた。あの頃ブランコに揺られながら見た空や公園の景色はもっときらきらしていた気がした。
「小さいな」隣のブランコに腰かけた親父が言う。
「そうだね」
「…まだ若いのに……可哀想になあ」
「やめてやってくれよ。それを言われると嫌がるんだ、ミヤコは」
可哀想にと言われるのは嫌いだと言っていたことを思い出す。あなたに何がわかるのって思っちゃう、と彼女は苦笑していた。だから僕は彼女の前で可哀想にと嘆くことはしなかった。ミヤコが眠りにつく前、彼女のために泣いたことはもちろんあったが、その時は彼女の目につかないところで泣いた。僕はただひたすらに楽しい話題を探して、一緒に笑って過ごすことに、心を砕いた。
「親父。僕は、一人でいるわけじゃない。例え戸籍上は独身でも、僕にはミヤコという大切な奥さんがいるんだよ。今も変わらず一緒に過ごしてる。眠ってるだけだ、きっといつか、いつかまた一緒に居られる日がきっと来る。だから止めてくれ。あの子の戻ってくる場所を無くそうとしないでやってくれよ───それこそ、ミヤコが可哀想だと思わないのか」
海の都で幸せな一時を過ごして、帰ってきたときには自分を知る人は誰もいなくなっていた。そんな、誰もが知る昔話を読み聞かせてもらってた頃が僕にもあった。子供心に、彼が不憫でならなかった。ここは確かに自分の居た世界なのに、自分を知る者が誰も居ない、帰る場所がどこにもない。けれど海にも帰れない。どこにも行く宛がないなんて。
ミヤコも彼と同じだ。目覚めて、寝起きのふらつく足で僕を探して、おはようと言う僕が居なかったらどんなに心細いだろう。ようやく見つけた僕の隣に、知らない女が平然と居座っていたら、どんなに悲しいだろう、悔しいだろう。
今だって一人、あの寂しい地下室で眠り続けて、眠りの国に一人ぼっちで。起きてきても帰る場所がない。なのにもう、眠りの国にも戻れない。ミヤコがそんな風になっているところを想像するだけで、僕はいてもたってもいられなくなる。顔の見えない女の肩を抱いて泣きそうな顔のまま僕を見つめるミヤコに背を向ける僕を、いっそ殺してやりたくなる。
「でも、ダイゴ、考えてごらん。それはお前の押し付けじゃないのか。ミヤコちゃんは、本当にそれを望むだろうか」
「望むに決まってるだろう。親父に何がわかる?弱っていくあの子を、僕は一番近くでずっと見てきたんだ。ずっと一緒に居たんだ!」
「ずっと一緒に居たならなおのことわかってるだろう、ミヤコちゃんが最後までお前のことを心配してたことだって!」
「ああそうだよ、僕が一番ミヤコのことをわかってる!誰よりも!親父の言う通り、あの子はそういう子なんだよ、周りのことばっかり気にして自分を気にしない、世界にまたとないような不器用人間なんだよ!誰かが寄り添ってやらなきゃ、あの子は自分の気持ちを蔑ろにしてしまう!」
僕らはいつのまにか立ち上がって、声をあらげていた。はあ、と一息ついて冷静に親父を見つめた。今は少し低い位置にある親父の顔は、苦しそうだった。
でもきっと、僕の顔もずいぶんと苦しそうだったのだろう。ダイゴ、と僕を呼ぶ声の響きはどこかミヤコが最後に僕を呼んだ時のそれに似ていた。
「…わかった。お前が、そこまで言うなら、わかった。わかったとも。でも、覚えておきなさい。───お前は、しっかりと生きているんだ」
それじゃあな、お休み。親父は一言一言を噛み締めるようにそう言うと、僕の肩を軽くぽんと叩いて帰っていった。残された僕はそのままもう一度、ブランコに腰かける。緩く揺れるブランコのきぃ、きぃという鳴き声が夜の公園に寂しげに響いた。
「…ミヤコにとってのブランコは、大きいままなんだよなあ…」
見上げた月は、満月でもなく三日月でもない、微妙な形をしていた。はあ、とため息をついてもう一度周りを見ても、やっぱり周りの風景はいつもより低いことを除けばいつも通りのものである。
彼女にとっての世界は、小さな頃のまま時間を止めて、姿を変えぬまま胸の中にあり続けた。きらめきも、空気の匂いも、何もかもが変わらずに。年齢と共に体が悪くなり外にあまり出られなくなってしまって、憧れと懐旧だけを燻らせながら、彼女の胸の内に有り続けた。
「僕は、生きてる…」
親父の言葉を繰り返す。僕は、生きている。そして、これからもきっと生き続けていく。あの頃のミヤコと過ごした輝かしい日々と、彼女が帰ってくる未来への希望だけを、胸の内に燻らせながら。
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