数年前の今日、ダイゴの最愛の人は息を引き取った。名前を、ミヤコという。ダイゴを通じて私も彼女と知り合い、親しい友人となったのだった。育ちのよいお嬢さんという言葉がよく似合う、温かく、静かな人だった。彼女を思い出そうとすると、一番始めに浮かぶのは、ダイゴとの結婚式の時に見た姿である。飴細工のように繊細な純白のレースで溢れるウエディングドレスに身を包み、ダイゴの隣で微笑むミヤコさんは思わずほう、と息をつくほど美しかった。

「あんまり綺麗だったものだから、まるで天使みたいだって思ったんだよ」

ダイゴが急変の知らせを受けて駆けつけてすぐに、彼女はまるで彼を待っていたかのように息を引き取ったのだという。ダイゴからの知らせを受けて私が病室に来たときには、もう遅かった。まだ温かさを残した彼女の手を握って、ダイゴは力の無い声で語った。

「本当に天使になってしまいそうで、怖くなったんだ。あの時」
「…そうか」
「どうしてだろう、覚悟はしていたはずなのにな」
「ダイゴ…」
「嘘みたいだよ。信じられないんだ。だってほら、まだ手だって温かいのに」

手を握ったまま、うつ向くダイゴの顔は見えなかった。ただ、肩は震えてはいなかった。それが余計に痛々しかった。覚悟はあったとしても、やはり現実味がないのだろうな、と思った。それは私も同じだった。弱ってしまって、いつこの日が来てもおかしくないとは言われていたとはいえ、それにしてもまさかそれが今日だとは思わなかったし、来てほしくはないと思っていたからだ。

「…ダイゴ。泣いてもいいんじゃないか」

余っていた椅子を彼の横に並べて、その脊を軽く叩いた。まるで彼の代わりに泣こうとしているかのように、私の視界は歪んだ。頬がじわりと熱い雫に濡れる。命の熱さを持った熱が、頬を滑り落ちていく。
不器用で、優しい女性だった。最後の最後まで、最愛の人を気遣ってこの世を去った、愛情深い人だった。右手に握ったままの鞄の中に仕舞ったままの手紙が、ミヤコさんの目を持って、私を見つめている気がした。

「私はいつまでダイゴさんの側に居られるか、もうわからないですから。…だから、ミクリさんに、お願いしたくて」

亡くなる少し前、まるで全てを悟ったように、ミヤコさんは一通の手紙を私に寄越した。「自分がこんな、まるで物語みたいなことをする日が来るなんて思いもしなかったんですけどね」と付け足して、彼女は力なく笑った。

「よくわかりました。当事者になってみて。だって……この体がなくなっても、ものは残るから。そこに言葉を残しておけば、声がなくなっても、大好きな人とお話が出来る。言われてみればそれまでで、わかりきったことでも…その真意は、やはり当事者になってみないとわからないものですね」
「…それで。無粋なことを聞くけれど、何を書いたのか聞かせてくれないか?」

渡すときに一言添えられるだろう、と私は続けた。私を見て、彼女は確かに、と言って、すうとひとつ息を吸った。

「長い手紙ではありません。ほんの一言、二言だけの、手紙です。…あの人、頑固で、これと決めたら曲がらなくて…だから、視界を狭めがちで。きっと…私が居なくなっても…私の影を追ってしまう。だって、私のこと…たくさん愛してくれました、彼は。だからね…」

そう語る彼女の視線は窓の向こうを向き、その表情は見えなくなった。四角く切り取られた空と窓だけが、それを知っていた。ミヤコさんはあの時、どんな顔をしていたのだろう。泣いていたのだろうか、それとも…。彼女は、きっと、ともう一度繰り返して、慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

「心配なんです。私の影を追うあまり、自分のことが疎かになって…自分が生きていることを忘れやしないか。自分を愛してくれる人、心配してくれる人の声に、耳を塞いでしまわないか」

左手の薬指を右手で撫でながら、ミヤコさんは息をついた。きらきらと光る指輪は、まだ傷ひとつ付いていない、曇りのない綺麗なものだった。それが二人の過ごした年月がいかに密度の濃いものであろうとも短いものであったことを物語っていて、やるせなかった。

「私が…あの日。プロポーズ、断ってればって。何度も…思ったんです。そうしたら…彼は。これからも、生きていく彼は。きっと…私とのことを、私のことを、甘い失恋の記憶として…乗り越えてくれた。でも、私はどうしても言えなかった。嘘でも、初めて愛した人のことを、嫌いと言えなかったの…」

それもひとつの愛の形だと、わかっていたのに───。ミヤコさんの言葉は、一言一言に、まるで血が滲んでいるかのような、迫る想いが込められたものだった。その端々に、ダイゴへの温かな愛が溢れていた。聞いているこちらが嫉妬してしまうほど。こいつは、幸せ者だ。虚ろな顔をして、まだ温もりを残したミヤコさんの手を握りしめるダイゴの肩に手を回した。人当たりも良くて誰からも好かれるくせに、自分からはあまり他人に踏み入らない、少し臆病なこいつにとって、最愛の人を失った悲しみと喪失感はどれ程のものだろうか。呆然とした風に、ぼんやりとミヤコさんの顔を見つめるその姿は、すがるべき母親とはぐれた迷子の子供のようで、痛々しくて見ていられなかった。

「だから。今、あなたが生きていること。自分では気づいていないかもしれないけれど、たくさんの人があなたを心配してくれること、大切に思っていてくれてること。どうか、忘れないでね、って。これから先も生きていくあなたが新しい愛を望むことは自然なことなんだから、愛されることを躊躇しないでね、って、書いたんです」

ミヤコさんの声が、耳の奥で蘇る。手紙の内容を、彼女は笑って私に告げた。それまでは視線をそらしていたくせに、その時はしっかりと私を見つめていた。強い眼差しだった。だから私は、確かに任されたよ、と言葉を返したのだ。精一杯の力を込めた声で。

「他の誰かと幸せになることに、嫉妬心はないのだね。見ているこっちがうんざりしてしまうくらいに君達は仲が良かったから、びっくりだ」
「私も嫉妬しちゃうかなって思ってたんですけど、そうでもないです…確かに、ずっと一緒に居たいし、愛していてほしいですけれど。でもね、いいことを思い付いたから」
「いいことって?」
「あの人の子供に生まれたら、また一緒にいられるでしょう?だからね、私、そうしたらきっとまた会えるだろうから…嫉妬はしてないんですよ」

彼も新しい愛を得てまた幸せになれて、私もまた彼に会える、それってとっても素敵でしょう?───そう言って、冗談めかすようにくすくすと笑ったミヤコさんの姿が思い出される。
いつになったら、鞄の中に仕舞ったままのあの手紙を渡せる日が来るのだろう。彼がだめになりそうになったら、渡してやってほしいと彼女は告げた。もしも自分が心配していた通りにならなければ、捨ててしまって構わない、むしろこの手紙は渡す機会が訪れない方が良いものだとも。
かといって捨ててしまうのもなあ、と、いつ渡せばいいだろうか、と悩んでいるうちに見事にミヤコの心配した通りになってしまった。大切に大切に取っておいたけれど、いつでもダイゴに渡せるようにと持っているうちに、封筒の表面は柔らかく毛羽立ってしまっている。

「ミヤコさん。君は驚くだろうね。そして、悲しむだろうか。あいつは君が心配していた通り、自分の殻に閉じ籠って、耳を塞いでしまっているよ」

ダイゴさんへ、ミヤコより。綺麗な字でそう書かれた封筒を、指で撫でる。片手の中のグラスの氷が、答えるようにカランと涼やかな音を立てた。夏の夜に飲む冷えた酒が喉に流れていくときの熱さは、涙を流すときの頬の熱によく似ている。
あいつは地下室に冷たい棺を作り、その中に横たわる彼女の凍った亡骸に毎日語りかけている。きっといつか戻ってくるんだ、ミヤコは死んだんじゃない、眠っているだけだと言い切って、白雪姫のように透明な棺の中で眠る彼女を慈しむダイゴの姿を見たら、ミヤコさんは何と言うだろうか。もしかしたら、泣いてしまうかもしれない。ダイゴのことを心から愛していて、あんまりにも優しい人だから、きっと自分を責めて、そして彼を案じて涙を流すだろう。
ミヤコさんがこの世を去り、あの地下室で凍えた棺の中に眠るようになってから、ダイゴは一度たりとも「死んだ」というような直接的な言葉を使ったことはない。心から───いや、もしかしたら、心のどこかではわかっていて、その物わかりのいい心の一部のせいで余計に苦しんでいるのかもしれないが───再生を信じているのだ。

「今こそ、渡すべきなのだろうか…」

悩みに悩んでいるうちにどうにも渡せずに持ったままになってしまった手紙。近いうち、渡してみようか。いや、でも。
一気にあおった酒が喉を滑り落ちる。涙のように熱い。そういえば、あの日以来あいつの泣いたところはついぞ見たことがないままだなあ、と思った。つんと痛い胸に、どこかで鳴く夜更けの鳥ポケモン達の声がぼんやりと響いた。
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