僕はほんの少しの間仕事を休むことにした。どうしてもやりたいことがあったのだ。それをするに当たって、今後どうするのかや、悩んでいたこと、そうして下した決断、その全てをまずは親父に話した。
「そうか…」それを話したとき、親父は神妙な顔をしながらも僕と同じ色をした目を潤ませて、そうか、と噛み締めるように二、三度呟いた。
僕がしたかったこと。それは自己満足と言われればそうかもしれないが、ミヤコとの思い出を、彼女の夢を辿ろうというものだ。少しの間休みを貰ったのはそのためだった。
まず、僕は彼女の生まれ故郷を訪れることにしたのである。そして短い旅の初めに、義両親に会うことを決めた。
全てを話したとき、二人はほっとしたような顔を見せたのが僕は驚きだった。

「きっとそれをミヤコも望んでいるだろうよ」
「あの子のためにたくさん悩んでくれて、あの子を愛してくれてありがとう」

二人はそう言って、僕の手を握ってくれた。僕を責める言葉も、詰る言葉も、彼らは一言も口にしなかった。見方ひとつ変えてしまえば僕の決断は、その始まりからも、あまりに身勝手と言えるものである。なのに二人は感謝こそ口にしても、そんな言葉は口にはしなかった。僕は責められて当然だと思っていたのに。
こんな二人から生まれたから、ミヤコはあんなに愛情深い人に育ったのだろうと思うと、胸が甘く痛んだ。

「私、旅がしたかったの」

それは再入院をして、どんどん体が悪くなっていくなかで一度だけ、彼女が弱々しく呟いた言葉だった。最後の最後まで僕を気遣ってくれたミヤコは、自分が一番辛かったであろうに、あまりそういった弱い姿を見せなかった。そんな彼女がたった一度だけ見せた弱い姿だったので、僕はその言葉と、その日の彼女をよく覚えている。

「初めてのパートナーを貰って、二人三脚で旅をして、色んなものを見てみたかった…私、見たいもの、知りたいことは、全部本や誰かの口から聞くばかりで…私自身の目で見ること、知ることは叶わなくて…」

その日、彼女は一度危ない状態になり、病院から僕は連絡を貰って彼女の病室に駆けつけた。何とか持ち直して、目を覚ました彼女が、泣きそうになっていた僕を見て言ったのだ。旅をしたかった、と。

「どうしてかしら。…ずっと昔に諦めてたのに…今、あなたを見たら…旅の夢を、思い出したんです」

どうしてだろうかと、その理由を彼女は僕に尋ねるように言っただけで、ミヤコは自らの意見は口にしなかった。けれど僕はなんとなく、その理由がわかった気がしていた。
僕は彼女が危なくなったなら、連絡を受けてすぐに駆け付けることができる。満足に動く足、そして、その背に僕を乗せて空を飛び、僕を彼女の元へ運んでくれる頼もしい友がいる。
けれど、ミヤコには、その全てがないのだ。何も悪いことをしたわけでもないのに、どうしてだかそんな運命と共に生まれてきてしまったがために。
誰がどういう基準と理由で彼女を選んだのかはわからない。それは神のみぞ知るところで、どんな優れた人間も永劫知ることはない。だからこそ彼女は口にこそしなくても、きっとひっそりと悔し涙を流したのだろう。誰に詰め寄っても自分の運命の理由を教えてくれる人などいないことをわかっていて、そうしてきっと、詰め寄ってもその人を悲しませると思って、誰にも見えないところで泣いたのだろう。

「ね、ダイゴさん。あなたの旅の話を聞かせて」

僕はあの日、自分の旅の話をしながら、それ以上に涙をこらえることに必死になっていた。なるべく明るい話をしたかった。苦労話だって笑える話に変えたかった。だから必死に頭を働かせて、そうすることで泣くのをこらえようとした。
そして、いつか二人で旅をしよう、旅はいくつになってから始めたっていいのだから───そう言って、僕はその話題を終わらせたのだった。
それもあって僕は、この決断を下すに当たって、全てはこの約束を果たしてからにしようと決めたのだった。
必要最低限の荷物を持って、動きやすい服を着て、ひたすら歩く。そのうち息が上がったら、その辺に腰掛けて水を飲んで、また歩き出す。その繰り返しの中で、知らない街を見て、知らないものを知って、成長する。それは旅の大きな魅力のひとつで、彼女がずっと憧れていたこと。

「旅ですか?」通りすがる人に声をかけられる度、僕は笑って答えた。
「ええ、妻と一緒に」

やってみなければわからないものだ。きっと辛いに違いないと思っていたのだけれども、自然と自分が笑って答えられるようになったことに、驚いた。
僕がこの旅を通して知ったことは三つある。一つは、今まで遠ざけていたけれど、思い出と向き合うことは思ったよりも苦しくはないのだということ。二つ目は、心にミヤコの姿を描きながら巡ったイッシュという地方は、とても面白いところだということ。
もちろん思い出を辿り、きっとミヤコならこんなことを言うんだろうなあと考えながら街を回るのは、全く悲しくなかったと言えば嘘になる。笑い合う幸せそうな人たちを見るたびに、そこに自分達の姿を重ねて悔しくなかったと言えば僕はとんだ嘘つきになってしまう。
けれど、彼女の願いを叶えてやれるのは僕しかいないのだと思うと、止まりかけた足はまた動いた。ミヤコが僕を思って手紙を残してくれたように、彼女を思って行動することは慰めにもなったのだ。
今、僕はライモンシティの観覧車の中にいる。事情を話した所、奥様と一緒ならと言ってもらえたので、二人きりで観覧車に揺られているのだ。ミヤコはこんな高いところに来たのは、初めてだろう。本当にここにいたのなら、彼女はどんな反応を見せるだろうか。怖がるだろうか、それとも、喜ぶのだろうか。
歩いている間は鞄の中に入れている彼女の写真を取り出して、腕に抱える。観覧車の列に並んだのが日没前だったので、暗くなってきた空には昼と夜とが混ざっていた。
赤と橙と金色、それからほんの少しの紫の夕焼けと藍色と濃紺の夜空が近い。僕らは今、空にとても近いところにいるのだ。気づけばもう、残すところ半周となっていた。

「初めての旅は、どうだった?喜んでくれたかな。喜んでくれたならいいな…」

白いドレスに身を包んだ写真の中の彼女に語りかける。僕らの旅は、今日で終わった。義両親から、ミヤコが小さな頃にライモンシティの遊園地に行きたいと言って泣いていたという話を聞いて、ミヤコとの思い出を辿りながら、彼女の叶えられなかった夢をひとつずつ叶えるというこの旅のフィナーレはここにしようと決めたのだ。

「あっという間だったね。でもきっと、いつか僕が年老いて自分の人生を振り返る時が来たのなら、きっとこの旅は僕の人生の中でも二番目くらいに色濃い思い出になるんじゃないかと、思うよ」

ねえ、それじゃあ一番は?心に描いた彼女が、僕に問いかける。わかってるくせに、あの子はきっとこう聞くのだろう。

「やっぱり一番は、君と過ごした時間なんだろうな。これから先、どうなるかなんてわからないけど…でもきっとそうだろう」

僕がこの旅で知った三つのこと。その三つ目は、進んでいくことは忘却ではないということだ。
僕はミヤコからあの手紙をもらって、旅に出ようと決め、そして全ての決断を下すまで───ずっと、周りからの励ましの言葉が「ミヤコを忘れて元気になれ」という風に思えてしまっていた。
故人とは、永遠である。近くて遠い場所で、時が止まったまま、ずっと変わらない姿を保ち続ける。彼または彼女の時計が止まったその日から、それ以上思い出は増えることはない。
だから上書きされないまま、いつまでもその時を留めて、残された人間の記憶の中に留まり続ける。
僕はそんな永遠になってしまった彼女の姿をずっと追い続けることこそが、手の届かぬ所へ行ってしまった彼女への愛情の示し方だと思っていた。あの冷たい地下で彼女を眠らせておくことで、彼女の居場所を確保した気になっていた。二人だけの世界に閉じ籠ることで、自分もずっと留まっていられると信じていた。
でもそれらはきっと、違うのだ。彼女の言う通り、これからも生きていく僕の時計は進み続ける。嫌でも進み続けていくからには、留まることなんて出来ない。でも、だからといってそれはミヤコとの思い出を無かったことにするわけではないのだ。
思い出はいつまでも有り続ける。だからいつだって、振り返ることができる。当たり前のことだがそれは、進むからである。進まなければ、振り返ることさえも出来ない。
生きていく限り時が流れて、そして人生を歩んでいくことは自然なことなのだ。だからたまに辛くなったとき、寂しくなったときにまた歩き出すために、思い出がある。
思い出は溺れるためのものではなくて、きっとそうやって、たまに振り返ってまた進むためのものなのだ。ミヤコもそう言いたかったんじゃないか。ミヤコ、僕の答えは、どうかな。まぼろしの彼女に問いかける。きっと彼女は、笑っていた。
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