「電車、乗らないんですか」
だいぶん暗くなってきたプラットホーム。指差し確認をして、走り去っていく電車を何度も見送りながら、私は先程から視界の隅で気にかけていた男性に声をかけた。
「いや、乗るよ。そのうち乗る」
「はあ…そうですか」
「線路を見ていたんだ」
「線路を?」
「そう、線路」
萌える若葉のような色をした髪を後ろでひとくくりにしたその男性は、薄い笑みを浮かべながら「線路を見ていたんだよ」と繰り返した。
「面白いですか?」
「それなりには」
「ははあ。さてはあなた、あれですか。電車が大好きな方でしょう!見るのは構いませんが、何でしたっけあれ…なんとか棒。あれでの撮影は止めてくださいね、感電の恐れがありますから」
私はつとめて明るく、しかし明るすぎない口ぶりを心がけながら、彼の隣に座ってお喋りをした。もう一人いた同僚の駅員には、そっと目配せをして。
手に持っていたカンテラを隣に置いて、彼の瞳を見つめる。近頃はやりの格好が良い男性のそれというよりも、彼の顔立ちは“綺麗な”という形容詞が似合うそれだった。ほんの少しだけ感じられる憂いのような影が、水面に映る月のように、掴み所のない魅力を添えている。
とても目を引く、という訳ではない。しかしどうにも気になってしまう。彼はそんな人だった。
「いや、違うんだ。電車がそこまで好き、というわけではなくて」
「…ええ?それじゃ、どうして」
───まさかとは思いますが、自殺なんかじゃ、ありませんよね。
茶化すような声音ではなく、しかし、あんまりにも暗すぎないようにと、細心の注意を払いながら私はずっと引き伸ばしていた本題をそうっと口にした。
そう、ずっと、気になっていたのである。ベンチに座ったままいっこうに腰をあげず、何本もの電車を見送りながら線路を見つめ続けるこの人が。
我々駅員の仕事のひとつに、彼のような人に声をかけるというものがある。自殺を考えているように見える人がいたら引き留め、話をして、何とかして思い止まらせるというものだ。人を死に駆り立てるエネルギーはおぞましいということを、我々はよく知っている。
だから私は彼に声をかけたのだった。───こうやって、ぼんやりと線路を見つめ続ける人は、放っておけない。
「そんなのダメですよ。きっとすごく痛いですし、やめた方がいいです。…あの、ここの近くにね、ちょっと高いけど美味しいご飯が食べられるお店があるんです。そんなこと考える前に、その…」
「いや、僕は別に死ぬつもりはないよ。そんなことは全く考えちゃいないからね。まだ、見なければいけないもの、探さなければいけないことが、沢山あるから」
「あっ、…そうなんですか。その…本当に?」
「本当にだよ。…そうだなあ。君は数学に興味があるかい?」
「はぁ、数学に?」
疑問で返すや否や、彼は先程見せた笑みよりもよほど自然な微笑みを見せて「そう!」と力強く頷いた。
数学。その言葉にあまりいい印象はない。学生時代はあんまり得意ではなかったのである。別にそこまで出来ないというわけでもなかったが、だからといって得意かと言われればその答えはノーだった。
「非ユークリッド幾何学という、現代数学に非常に大きな影響を及ぼした分野があるんだけれどね。この分野においては、平行線は交わるんだよ」
「えっ、平行線ってこう、真っ直ぐなのに?」
「そう。二つ並んだまっすぐな線路の先を見てみると、交わっているように見えるだろう?簡単に言ってしまえば、そういうことかな」
「ああ……確かにそう言われてみると、そう見えますね。不思議。こうして言われてみなければ、気にもしなかったけれど」
「線路を見ながら、それを考えていたんだよ。だから僕は別に死ぬつもりはないんだ。…これで安心してくれたかな」
まもなく、二番線にカナワ行きの列車が参ります。白線の内側にお下がりください───聞きなれた駅内放送のアナウンスが、ちょうど彼の話が終わったところで人気もまばらなプラットホームに鳴り響く。話はこれで終わりだと言うように、彼はベンチから立ち上がった。つられて私も、カンテラを持って立ち上がる。
「それじゃ、僕はそろそろ行くよ」
「はい。お気をつけて」
「ありがとう」
「……あっ、あの!」
「…何だい?」
振り返った彼が、突然大きな声をあげた私を不思議そうな顔つきでこちらを見る。「線路の話、面白かったです」
「そうかい?それは良かった」
「また聞かせてくださいね。私、ここの駅に居ますから」
「うん。それじゃあ」
彼が軽く手を振ったところで、彼を乗せた電車のドアが閉まる。ドアがしまったところで、私の名前を名乗ることも忘れていたし、彼の名前を聞きそびれたことに気がついた。
電車がゆっくりと走り出す。彼はまだガラス越しにこちらを見ていた。もう声なんか届きやしないだろう。
片手に持ったカンテラが、私に少女のように元気に手を振らせることはしなかった。
代わりにカンテラを持っていない方の手を、バレリーナのように指先まで力を込めて、ぴんと伸ばしてこめかみに添える。きっと今までで一番綺麗な敬礼を、私は彼にして見せた。なんだか不思議でちょっと気になる面白いあの人が、次に顔を見せてくれたときに、私のことを忘れてしまわないように。
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