パソコンの電源を落として、就業の仕度をする。ううんと思いきり伸びをすれば、固まった体からぱきぱきと疲れた音がした。はあ、と息をつく。今日もこれで一日が終わったのだ。あとは帰って寝るだけだが、今日は金曜日。土曜日曜は休みだから、少し遅くに寝ても良いかもしれない。
帰ったら何をしようか。そうだ、この前見つけてきた石を磨かなければ。それから、読みかけの本があと少しで読み終わるところのままで棚の上に置いてあるままだった。あれこれとやりたいことを思い出して、少しだけ軽い足取りで会社のビルを出た。ぺこりとお辞儀をしてくれた受付の社員たちにお疲れと声をかけて軽く会釈。さあ、早く帰らなければ。
ボールから出したエアームドが、じっと僕を見つめてくる。この時間にボールから出すと気遣わしげな眼差しを向けてくるのはいつものことだ。よろしく頼むよ、といつも通りに声をかけて、夜空に漂う。上空を吹き抜ける夜風は今日は一段と冷たくなってきていた。
カナズミシティからトクサネまではかなり距離がある。ポケモンを頼らずに移動するならば陸路と船で行くことになるだろう。しかし空を飛べるポケモンを頼ればこうして毎日移動することもわけもない。耳が冷えて少しだけ痛かった。まだマフラーを出すには早いと思っていたが、そろそろ夜は巻いておいた方がいいかもしれない。

「エアームド、お疲れさま」

トクサネに着き、飛んでくれたエアームドを労ってボールへ戻す。何となく気が向いたので、家の前ではなく少しだけ離れたところで降りてみた。今夜は星が綺麗だ。上機嫌だったせいか、どうにも足は軽い。空を見ながら歩く、なんて、ロマンチストのようなことがしてみたくなってしまったことを責める人はいるだろうか。いなければいい。最近の歌はあまりわからず、たまに聞くCMソングを鼻唄に夜の街を歩く。海が綺麗だからだろう、かぎなれた心地よい潮風の香りが僕を出迎えた。
自販機に硬貨を入れて、暖かいコーヒーを選ぶ。がたんという音が夜の空気を震わせた。まだ吐く息こそ白くはなかったが、冬の足音はすぐそこまで迫っている気がした。

───オリオンのベルトから少し右上に赤い星があるでしょう?

ふと、そんな会話をしたことが頭をよぎった。あれはそう、まだ学生だった頃のことだ。一人で帰っても良かったのに、親父が寄越す迎えでいつも帰ることになっていた僕は、あの日も迎えの車を待っていた。友達がいないわけではなかったが、あまり僕は同じ年の頃の男の子たちのように騒ぐ質ではなかったせいか、そこまで大勢のクラスメイトに囲まれる方ではなかったので、いつもこの待ち時間が退屈で仕方なかったのだ。
図書室で本を読みながら迎えを待っているのがいつもの時間の潰し方だったのだが、あの日は確か授業がいつもより早く終わる日であったのにそれを前日に伝え忘れてしまったせいで、いつもより待ち時間が長いことに気づいたのだ。いつもよりも強く退屈を感じながらも、僕は時計をチラチラと見ながら本を広げた。

「石が好きなんだ?」

いつしか本に没頭してしまっていて気づかなかったのだが、いつの間にか前の席に一人の女生徒が座っていた。彼女はどうやら僕がページをめくる本の表紙を見て、そう話しかけたようだった。「私も好きだよ。ほら、天然石のブレスレットとか可愛いし」と続け、彼女は人好きのする笑みを浮かべながら、制服の袖を少しだけ上げた。確かに白く細い手首には、藍色のブレスレットがひとつだけ付いていた。

「それ、ラピスラズリ?」
「そうそう、それ。この色いいなって思ったの。やっぱり詳しいんだ」
「珍しいね。女の子っててっきり、皆ローズクォーツとか…あの辺のものを持っているものだとばかり」
「ああ、確かに人気よね。でも私、お店で見た中ではこれが一番好きな色だったのよね。ほら、夜空みたいな色でしょう?」

夕日が差し込むオレンジ色の部屋の中、ちかちかと鈍く光る石のブレスレットを撫でながら、名も知れぬ彼女はにこにこと微笑んでいた。僕と話すのは、果たして楽しかったのだろうか。あの時の僕はそんなに面白い話を出来たようにも思えなかったのだが。しかし彼女は嬉しそうに「一度話してみたかったの」と僕に告げたのだ。

「いつもこの時間になると、ここで一人で本を読んでるね。友達とでも話していればいいのに」
「大体皆すぐに帰ってしまうからね。付き合わせるのも申し訳ないし、それと…あまり見られたくないんだよ」
「ひょっとして、あの車を?」
「そう」

僕は彼女と初対面であったが、彼女はどうにも僕のことをよく知っているらしかった。頷きながら、まあわからないでもないなあと彼女はまるで昔からの友人のように僕の話を聞いていた。そして僕も、初対面の彼女と不思議にもさして緊張もなにもせずにゆったりと会話を続けたのだった。まだ、彼女の名前さえも知らなかったというのに。

「ねえ、喉渇いちゃった。下の自販機に行ってもいい?」
「いいよ。…え、僕もいくのかい」
「せっかくなんだし、ね?一緒に行こうよ」

僕は彼女に押しきられるような形で、一階の自販機まで歩いていった。女の子と二人で歩くことがあまりなかったので、すれ違う生徒の上履きの色をしきりに気にしていたのを覚えている。上級生か下級生なら安心していたし、僕と彼女のそれと同じ色だったときは、なんだか恥ずかしいような気がして、視線を泳がせてつまらなそうな顔を作ろうとしていたのだった。
彼女はオレンジジュースを選んでいて、僕はいまのようにコーヒーを選んだ。しばらく二人でそのまま、近くのベンチであれこれを話ながら僕はコーヒーをちまちまと啜っていた。確か、僕の方が飲み物を飲むのは早かったように思う。すぐに空になってしまって、空き缶をもて余していた。

「私はね、星が好きなの。部活も、天文部。夏とかは寝袋に入って屋上で星を見たりするんだ」
「へえ、あの部活、そんなことしてたんだ。知らなかったよ」
「来週もね、屋上で星を見るの。この時期の合宿は寒いから大変なんだけどね。でもすごく楽しみなんだ」
「今の時期だと、オリオン座なんかがよく見えるのかな」
「そうそう。私、冬の星座が一番好きでね…」

大きな瞳を星のようにきらきらとさせながら、彼女は僕に部活やら、星の話やらをしてくれた。顔いっぱいに「楽しい」という気持ちを露にする彼女と話すのはとても楽しくて、それとなく教えられたなまえという彼女の名前は、彼女が怒った様子の教師に呼びつけられて慌てて駆け出していってしまうまでに、すっかり舌に馴染んでしまっていた。
女の子のことを、ここまで親しく呼んだのは初めてだった。更に言うなら、教師のもとに駆け出していくときに、すれ違った男子生徒に声をかけられていたずらっぽく笑う様子に、何だかむっとしてしまって───そんな自分を恥じたのもまた、初めてだった。

「提出する手紙、まだ出してなかったの忘れてた。ごめんダイゴくん、また話そうね!…それからこれ、捨てておいてくれる?」

まだ中身の入ったオレンジジュースの缶を残して、彼女は僕の元から走っていってしまった。小さく手を振ったあの子の笑顔を思い出して、思わず笑みが零れる。そう、忘れもしないあの日。熟れすぎた果実がすとんと落っこちるように、ほんの数時間話しただけの女の子に、僕は初めての恋をしたのだった。
傾けた缶からはもう、何も流れてこなくなっていた。コーヒーは全て飲んでしまったようだ。空き缶を捨てに自販機の横のゴミ箱まで歩いていって、もう一度色とりどりのラインナップに目がそれる。
パッケージデザインは変わってしまったが、僕が飲んだ缶コーヒーの斜め横に、あの子が飲んでいたオレンジジュースがあった。さっきのお釣りを入れて、ボタンを押す。落ちてきた缶の大きさは、多分あの日のものも変わっていなかった。
プルタブを開けて、缶の縁に唇をつける。缶の冷たさが身に染みた。微かに香るオレンジの香りが、思い出に刻まれた罪の味を鮮烈に、痛烈に思い起こさせる。あの日、僕は捨てておいてと頼まれたのに、妙に胸がドキドキとしてしまっていて、いけないことだと思いながら、一口だけ渡された缶の中身を飲んでしまったのだ。
懐かしさと、えもいわれぬ切なさが、乾いた笑いを誘う。脳裏にあの時のオレンジジュースの味が、はっきりと蘇った。柑橘類のほんのりとした苦味が同居した、甘ったるいオレンジジュースのあの味が。甘い飲み物はあまり好きではなかったのに、どうしてだろう、あの日の僕は悪くないなんて思ってしまったのである。すぐに恥ずかしくなって、何てことをしてしまったのかとひとしきり自分を責めて、周囲の人気の有無をを確認してすぐに僕は風の吹き込む玄関まで走っていった。
一口、二口、三口。コーヒーの苦味を消すように流れ込むオレンジジュースは、多分あの日のそれと成分も何も変わっていないはずだった。しかしなぜだろう、やっぱりあまり好みの味ではない。これは本当に、あの日のものと同じものなのだろうか。同じはずだ。でも、きっと何かが違うのだ。僕の思い出はこんな味ではなかった。あの日、こっそりと一口だけもらってしまったオレンジジュースは。僕は今でも舌に感じたその味を忘れていない。───忘れられずにいたことに、今こうして気づいてしまった。
最後までなんとか飲んだ缶を捨てて、もう一度星を探す。三つ並んだオリオンのベルトの右上に、赤く光る星が確かにあった。今度探してみてねと彼女が伝えた星だ。星なんてあまり興味がなかったのに、その日初めて聞いたばかりの名前を一度で覚えてしまったのがあの星だった。あの星のようにほんのりと赤い頬が可愛かったあの子は、今何処で何をしているのだろうか。
舌に残るオレンジジュースの酸味が思い出を鮮やかに輪郭付けていく。もしも誰かに初恋の色はなにかと聞かれれば、きっと僕はオレンジ色とアルデバランの赤色と答えるに違いない。
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