今夜、会えないかな。いつも通りの会話だった。私たちにとっては、いつも通りの会話。私たちの“いつも”。今まで積み重ねてきた時間が私たちを恋人同士という関係にしたし、そしてその結果がこの会話なのである。
そう、私は確かにここにいた。いや、今も、ここにいる。そんなことを意識しだしたことは三年前からで、それまではそんなこと考えたこともなかったのに。ああ、頭が痛い。電話をしながら、台所の小さな引き出しを開けて頭痛薬を取り出した。

「ああ、今夜だよな?了解、いつものところで良いよな?」
「うん。いつものところで、待ってる。…話したいことがあるの」

頭痛薬を飲んだ。余計なことを考えながら飲んだせいだろうか、錠剤が一度に上手く飲みきれず、舌の上に苦味が残った。どこの薬も苦いものなんだな、なんて。そんな当たり前のことを思って、ああ、と絞り出したようなかすれた悲鳴が出た。思い出したくないのに、また、こんな些細なことで思い出してしまった。
引き出しの隣の仕切りに備えてある睡眠薬を瓶から取り出した。白い小さな錠剤を、二錠。これは効き目の弱いやつだから、とりあえず今はこれでいい。今度は上手く飲み込めた。あとは眠気が来るのを待つだけだ。余計なことなんかなんにも考えずにいられたらどんなにいいだろうか。そんなことを思いながら、私はソファーに横になった。
アラームに起こされた時にはもう、夕方だった。まだ少し眠気が残っているが、どうせすぐに覚めてしまうだろう。服を着替えて、適当に化粧をして、髪を整える。鏡に映る姿は、“ここ”に生まれてからはずっと見慣れた“私”の姿。私はどこにいるのだろう。夢の中に置き去りにしていきたかった、背筋をじわじわと冷たくさせる思考が鎌首をもたげる音がした。

「わりぃな、遅れた!」
「良いよ別に。仕事もあるんだし。良いバトルは出来た?」
「ああ、今日来た挑戦者のリングマがさ。すごく良く育てられてて…」

嬉しそうに語るグリーンの身ぶり手振りは相変わらず大きい。最終的には彼が勝ったらしいが、それにしても余程良いバトルが出来たのだろう。良いトレーナーだったんだね、と相槌を打てば、大きく彼は頷いた。すっかりジムリーダーが板についたものだ。
やたらめったら古めかしい柱時計が夜の九時の鐘を鳴らした。いつも待ち合わせ場所にしているこのカフェの名物である。閉店まであと一時間となった店内には、もう私たちの他には数名しか客はいなかった。

「そうだ。それで、部屋、どうする?」
「グリーンはこの前のところが良いんでしょう?私も、あそこでいいよ」
「俺は確かにあそこだったらジムから近いし、良いんだけどさ。でもなまえは病院から近い方がいいだろ?」
「もうひとつの方と、あそこだったら、そんなに変わらないよ。精々十分くらいでしょ」
「心配してんだって。俺が気づかないとでも思ってるのかよ。最近、眠れてないの、知ってるんだぜ」
「……それは…」
「薬だって、前よりも増えてる」

先に一緒に住もうと言い出したのは彼だった。お互いの生活習慣やら何やらは、元々幼馴染みという関係であったこともあって大体のことはわかっているし、暮らしていく上でそんなに支障もないだろうと。将来のことも考えたら、やっぱり一緒に暮らすのが良いんじゃないか───もっともらしく理屈を並べてはいたが、グリーンが一番気にしていたのは、私の精神的な安定のことだったに違いない。
彼の言う通りだった。最近一種類、薬が増えた。眠れていないのは相変わらずといったところだったが、ただ眠れないだけではなくて悪夢にうなされてしまうことが増えたのである。
真っ直ぐに私を見る彼の視線が痛い。いたたまれなくなって、ぬるくなり始めたコーヒーに口をつけた。猫舌の私にはこれくらいがちょうど良い。───“前”の私は、熱々のコーヒーが好きだったのだけれども。

「あのね、ひとつ聞いても良いかな」
「ん?どうした?」
「…すごく、変なことだよ。でも…聞いてみたくて」
「なんだよ、もったいぶって」

彼は明るく笑って、所在なさげになっていた私の片手に自身の手を重ねた。少し堅くて暖かい、いつの間にか男性のそれになってしまっていた、私の大好きな彼の手のひらだ。なんだか泣きたくなってしまって、ふうとひとつ息をついた。また一口だけコーヒーを飲み干して、重たい口を開く。きっと彼なら、多少は笑っても、馬鹿げた話だと思いきり笑い飛ばすことはしないだろう。

「ここじゃない世界があるとしたら、どうする?」
「えっ?」
「ここじゃない…別の世界があって。それで、そこには、ポケモンなんていなくて…人間しかいなくて…」
「何だよ、急に。そんなテレビでもやってたっけか?」
「それでね。…そうだなあ…私たちが今、生きているこのこの世界が…お話の中の世界だったりしたら。そして私が、そこで生まれた人間だと言ったら…グリーンは、どうする?」

飲み下した唾が苦い。背中を冷たい汗が流れた気がした。こんな豆鉄砲を食らったポッポのような顔をしたグリーンなんて、久しぶりに見た気がするなあ。最後にこんな顔をした彼を見たのは、いつだったっけ───沈黙が妙に長く感じられて、そんなことを考え出してしまうくらいには、どうやら私は追い詰められていたらしい。
この感覚は、自分が二人いるような感覚だ。いや、もっと言うのなら、自分と、またもう一人、その中間の自分がいるような。その中間の私、私たちの間にいる私ともいえるそれが、二人の私を俯瞰している。
そんな感覚がもうずっと、私の中にはこびりついてしまって離れなかった。───そしてそれは、私がこうして苦しんでいる原因でもあった。

「どうだろうな、パラレルワールドとか、そんな言葉もあるからな……そんな世界があっても、いいんじゃないか?俺には想像できないけど」
「……じゃあ、もし私がその世界の人間だって言ったらどうする?」
「びっくりするよ。そりゃあな。でも…」
「でも?」
「もしお前が、そっちに帰りたいって言ったら…俺、止めちまうかも。なまえには、悪いけどな」

グリーンは、話したいことって、もしかしてこれのことだったのか?と言ってまた、笑った。優しい笑い方だ。彼は昔から感情を顔に出す方で、喜怒哀楽がはっきりとした人だったが、私がこんな風になってからはよく笑うようになった気がする。三年前、就職したポケモンフーズのメーカーを辞めた時からだ。
彼は私が、人間関係に悩んで仕事を辞めたのだと思っている。いや、彼だけじゃない。私の、こちらでの“両親”も、彼のお姉さんも、みんなみんな、そう思っている。小さな頃から真面目一本の性格だった私のことを、知っているがゆえだろう。昔から真面目な子だったから、悩みすぎちゃったのね、と近所の人が私のことをあわれむように話していたのを知っている。
だが、実際には、違うのだ。私は人間関係に悩んで仕事を辞めたのではない。三年前に私の身に起こったことは、そんなことではない。そんな悩みだったら、どんなによかっただろうか。いや、良くはないが、それでもこんな悩みよりもまだいくらかマシだったに違いない。

「…ごめんね、ありがと、グリーン」
「ああ。それで、部屋のことなんだけど、もうあそこで決まりでいいよな?」
「うん、いいよ。電話、私がしておこうか?」
「あー…俺がやっておくよ。ついでに見に行きたいものもあるし」
「そう?わかった。それじゃ、お願いね。ありがとう」

私は二十年と少し前、マサラタウンに住む夫婦の間の一人娘としてこの世に生を受けた。同い年で、近所に住むグリーンとレッドが一番の仲良しで、いつも三人で遊んでいた。どこにでもいる子供だった。十歳の時に旅をして、私は二人ほどバトルは強くなかったし、これといった目的があるわけでもなかったので、二人よりも少しだけ早くマサラタウンへ帰ってきて。それからしばらくの間は勉強をして、ポケモンフーズのメーカーに就職をしたのだった。私は、本当にどこにでもありふれた人生を、送ってきていたはずだった。
だがそんなありふれた人生は、突如として終わりを告げた。三年前のことである。朝起きたときに、強烈な違和感を覚えたのだ。私の部屋はこんなところじゃない。私が住んでいるのはトキワシティでもない。私が住んでいるのは埼玉県で、生まれ故郷は九州の片田舎、勤め先は小さな商社で、会社の電話番号は───と、本当に当たり前のように、それまでの日常を否定するもうひとつの記憶が頭の中にどうっと洪水のように溢れかえったのだ。
ポケモンなんて、ゲームやアニメの世界の生き物じゃないか。よく知った幼馴染みの彼らは、小さな画面のなかに居た人たちだったじゃないか───それまでの人生はおろか、大切な人たちの人生まで。その存在も何もかもを否定する、強烈に生々しい、“もうひとつの人生”の記憶が甦ってきたのである。ベッドから起き上がった足から力が抜けて、猛烈に気持ちが悪くなって、トイレに駆け込んで、訳もわからないまま溢れる涙を止めることができなかったあの日。あの日から、私の生活は、その全てが変わってしまったのだった。

「それじゃ、帰るか」
「ありがとうね。変な話、聞いてくれて」
「いいって。たまには空想話するのも、悪くないしな」
「変わらないなあ」
「どうしたんだよ、急に」
「ううん。…そうだよね。グリーンは変わらないよ、昔から、こうして…結構世話好きでさ、優しかった」
「止めろよ、照れる!まあ…ほら、あれだろ。好きなやつには優しくするのが男ってもんだろ」

単純だけど、男なんてそんなもんなんじゃねえの。照れ臭そうに笑う彼の背は、私よりもずいぶんと高い。昔は私の方が大きかったのに、いつの間にか抜かされてしまった。彼の小さかった頃を覚えている。今ここにいる“私”の、昔の記憶。色褪せてなんかいない、どの記憶も私が生きた証だ。私はここに生きているのだ。
そう、ここに───ここに生きているのに。私の中の、もうひとつの記憶が、今のこの幸せに、強烈に影を落とすのである。あちらにも、彼と同じように、愛した人が居た。大切な友達もいて、家族だっていたのだ。私は、むこうで死んでなんかいないはずだ。事故に遭った覚えも、病気をしたわけでもない。
それならば、本当の私はどこにいるのだろう。“私”って、何だっけ。あちらの私と、こちらの私。どちらが本物なのだろう。どちらかひとつを選べずに、両方の自分の居場所に焦がれては、“私”なんてどこにもいないのだと感じて、両方の自分を俯瞰してはあまりにも鮮烈で冷たい孤独に震える“私”がいるのである。

「グリーン?」
「な、なんだよ」
「私やっぱり、グリーンのこと、好きだなあ。好きだよ、本当に」
「やめろって、ほんと…」

おどける彼を見て、私もつられて笑った。握った手に、力が入る。どうかこの手を離さないでほしい。彼には死んでも言えないだろう。これからがあるのならば、そう、きっと、それこそ墓まで持っていくことになるに違いない。さっき話した話が全て嘘偽りのない事実だなんて、そんな、嘘みたいな本当の話は。
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