いいなあ、いいなあ。そう思ったことが、思ってしまったことがすべての引き金となった。しかし、そう思うこと自体は子供によくある小さな嫉妬。始まりは、そんな嫉妬だったのだ。
僕はそちらにはさほど明るくないが、海の向こうの宗教では七つの大罪といって、人が犯す罪の根底には、七つの感情があると教えているらしい。そのうちの一つが嫉妬であるというから、僕はきっと罪人なのだろう。だが、それでもいいと幼心に決めたのだ。いつの日か醜くも嫉妬した人であり、今でも誰よりも大好きなあの子が、すべてを失い途方に暮れて流した涙を見たときに。
「ねえ、マツバ君。あのね…」夜眠ろうとしたときに、隣の布団に入ったなまえが僕を呼んだ。「あの配達のお兄さんがね、階段から落ちて、足を骨折して。少し入院するから、しばらくこの辺の担当から、外れるんだって…」
「そっか」
「それって私のせいだよね。私がいつも、昼の内は、呼ばれたら、出てるから…私が、関わっちゃったから」
最後の方は涙声になって、ほとんどかすれていた。私のせいだ、また私のせいでとすすり泣く声が透明な刃となって僕に突き刺さる。そんなこと、彼女は知る由もないのだろうけれど。
「やっぱり、私といると不幸になるんだ。私なんかいない方がいいんだ」
「なまえ。それ、言わない約束だろう」
「どうして。だってみんな、とっても酷い目に遭ったんだよ?小さな頃からずっとそう…ポケモンが死んじゃった子だっていたのに、私なんか…!」
布団の中でくぐもってもなお夜の闇を裂くような鋭い慟哭が、僕の心の一番やわらかいところもまでも、裂いてゆく。この世で一番大切な人が、他ならぬ自分のせいで苦しんでいる。その現実が僕にいつだってとどめを刺すのだ。人知れず閃く無数の透明な切っ先。その中には、なまえが予想だにしないものがひとつだけ紛れ込んでいる。決して悟られてはならない、秘密の刃が。
「大丈夫だよ。僕はずっと、君のそばにいるから。僕は絶対に居なくなったりしないから」
「…でも、もしかしたら、まだ起こってないだけで、マツバ君にもこれから何かあるかもしれないよ」
「絶対にない。大丈夫だよ」
「でも」
「…平気だよ。だから、生きてくれ。僕のことを、想ってくれるなら」
彼女は隠していたようだが、気付いていた。また新しい傷が、白く細いなまえの手首に刻まれていたことに。誰も罰してくれないのならばと自らの手で自分自身を傷つけることで自分を罰する、優しいなまえのたったひとつの悪い癖。
「私なんかが、生きてていいの」
「君が生きていることで、幸せになれる人間がここに居るんだよ」
「…マツバ君は、優しいね」
「…僕が優しいんじゃないよ。もしも僕が優しいというなら、きっとなまえが優しいから僕も優しくなれているんだ」
「マツバ君…」
「だから何度だって言うよ、生きてくれ。居なくなったりしないでくれ」
そっと布団をはいだ。その中の小さな体は、殻に閉じこもるように丸まっていた。抱き起すと、そこには愛おしいぬくもりがあった。僕は静かに、腕の中の命のぬくもりに安堵した。
「私ね、生きたいのに、死にたいの。あなたとずっと一緒に生きていたいのに…重いんだ。私のせいで苦しんだみんなの不幸が、重いんだよ…償えるなら、私も不幸にならなきゃいけないのに。なのにやっぱり、生きたいんだ。それがどうしようもなく、申し訳なくて、死にたくなるくらい苦しいんだ」
「君だけが悪いと、君のせいだと決まったわけじゃない。たちの悪い偶然がたまたま重なっただけかもしれないじゃないか。例えばあの配達のお兄さんなら、彼は最近仕事を頑張りすぎているようだった。ただ疲れていただけかもしれないよ、階段を下りているときに、たまたま目眩がしただけかもしれない」
愛しい人の涙を止めるために、僕はいくつの慰めという嘘を重ねただろうか。
悪いのは、他ならぬこの僕だ。幼いころ、友達に恵まれなかった僕に手を差し伸べてくれた、たった一人の大切な友達だったなまえ。やがて彼女を通じてたくさんの友達に恵まれた。けれど仲良くなればなるほど、彼らの一番がなまえであることが許せなくなった。
なまえを通じて広がった僕の世界。それは彼女こそが世界であることと同義だった。なまえが一番なのは僕だけでいい。僕だけに大切に思われていればいいのに。みんなから愛されるなまえを、僕だけのものにしたい。どうしたら僕だけのなまえになってくれるだろう───。
そんな幼い独占欲が、みんなから愛されるなまえが嫌われてしまえばいいのに、そうしたらなまえは僕だけのなまえになるのにと思わせた。そしてそう思った理由の影には、人気者のなまえへの幼い嫉妬があった。いいなあ、いいなあ。たくさんの友達がいて、いいなあと。独占欲という幼い愛と、そんな愛ゆえの嫉妬。陰と陽の愛情に、幼い僕はいともたやすく足元をすくわれてしまったのである。
そうして幼くとも、普通の人とは違う才覚が自らの内にあることくらいはわかっていた僕は、蔵の中で見つけた古いまじないに手を出した。彼女に出会う前は大きな蔵の中で昔のものに触れたり、蔵の影でゴーストポケモンたちと戯れるくらいしか楽しみのなかった僕は、きっと父よりも母よりも、誰よりも蔵の中身に詳しかったのである。そのために、偶然見つけていたぼろぼろの本の中身が、ふっと脳裏をかすめてしまったのだった。
だがしかし、見よう見まねでなまえにかけたまじないは、僕の才が手伝って成功してしまった。彼女の幼馴染みが怪我をしたのを皮切りに、次々と彼女に関わる人が不幸に見舞われた。僕はあの年で自らの才能を自覚できるくらいには聡かったが、しかし肝心なところで愚かであった。
あの頃は真剣であったとはいえ、今思えば軽い気持ちで手を出したまじないが、まさかここまで強力な呪いであったとは。そのことに気がつけるほど賢くはなかったことが、今となってはただただ悔やまれるばかりである。
なまえは悪くない。すべての元凶はこの僕なのである。彼女は一番の被害者だ。その優しさから僕に手を差し伸べてしまったがゆえに理不尽に呪われて。挙句後悔した僕がずっとそばにいたせいで、自らを呪った張本人を愛し、愛されてしまって。
「なまえが大切だよ。誰より、何より大切だ。君さえそばに居てくれたら、僕は世界一の幸せ者になれるんだよ」
「…ありがとう。私も、マツバ君が居てくれたら…マツバ君のそばに居られたら、とっても幸せ。ねえ、私、まだ、生きていても…いいかなあ」
「当たり前だろう?こんなに素敵な人に愛されて僕はとても幸せだけれど、そのためにもなまえが居てくれなくちゃいけないんだから」
「うん。まだ…生きてるね。ずるいけど、やっぱり、死ねないや…」
「…それで、いいんだよ。うん、それでいいんだ」
やっと見られたなまえの愛しい笑顔に、胸が二重に締め付けられる。僕に比べたら、お前がずるいものか。誰がどうしてお前をずるいと言えようか。世界一の幸せ者こそ、世界一の卑怯者だ。僕は自分達の幸せと最愛の人のために、最愛の人を苦しめるたった一つの真実を墓まで持っていくのだから。最愛の人が苦しむのを見て苦しみ、後悔の炎に焼かれながらも、これで彼女が未来永劫自分だけのものだと確信し心のどこかで笑みを浮かべていて、なおかつそんな自分を認めさえしているのだから。
「ごめんね、大好き。愛してる」
暗い部屋の中、寄り添いあって隠れるようにそっと重ねた唇の味には、愛の甘さと罪の苦さが混ざっていた。
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