ライブラ事務所のあるビルはとても大きい。そのなかでも組織のリーダー・クラウスが居るこの部屋は、ミーティングやら大きなヤマを片付けたりした後の飲み会やらに使われたりと、ライブラ構成員ならばそれなりに馴染みの深い場所である。もっとも、ライブラ構成員は広い元ニューヨークのこの町の各地に散会しているため、このビルそのものに普段から出入りする者はあまり多いとは言えないのだが。
さて、この部屋は全体的に洋風のしつらえになっている。チェッカード・パターンの床、大きな窓、縦縞のソファー、ガラスシェード…しかしそんな洋風の部屋の隅、よくよく見てみるとそこにはひとつだけ不釣り合いなものがある。天井の高い手入れの行き届いたモダンな部屋の様相に目を引かれ勝ちで気づきにくいが、隅の壁のところにそれは確かに存在していた。昼食のために外に出ようとして、その存在に気づいたツェッドが「あれは何ですか」と隣に居たザップに尋ねた。
「あー、あれなぁ」
名前、なんつったっけな。ザップは眉間にシワを寄せながら、その物体の名前を思い出そうとした。それは寺、でもないし、神殿、でもない。あー、と言いながら空中を見上げる彼に「酒ばっか飲んでるからじゃないっすか」とレオが軽口を叩く。そうして、そんな彼をザップが小突く。ライブラのいつもの光景である。
ふとした瞬間に物の名前が出てこなくなることは誰しもよくあることだ。しかし今回の場合は彼がそれの名をなかなか思い出すことが出来ないのも無理はなかった。───「それ」の名前は、英語ではなかったのだから。
「カミダナ」
不意にザップの頭の上に、黒い革靴が乗った。空中が色づくように足先から露になったそれは女性の形を形成し、彼の頭上には一人の女性が現れる。「猿に外国語は難しかったわね」と涼しい声で続けたチェインが、その答えを言った。
「あとちょっとで思い出せたんだよ、それをお前、邪魔しやがって!」
「口ばっかり大きいこと」
「あ、あの。それにしてもどうして、ええと───カミダナ。あんなものがあそこにあるんですか?っていうか、カミダナって何ですか?」
記者魂だろうか、未知の物への探求心が少なからずくすぐられたのだろう。レオナルドが普段通りの二人の不毛な舌戦に疑問符を投げ掛けた。
カミダナとは、何か?もしもここに日系の者、あるいは日本文化に明るい者が居たのならば即座に答えが出てきただろう。しかしあいにく、ここにはそのような者はいなかった。彼の質問に対する、それがどのようなものなのかという具体的な説明は出てこなかった。
「あー、あれはな、まだお前がここに来る前。番頭とクラウスの旦那が置いたんだ」
「マリア様みたいなもんだと思っとけって、言ってたかな。確か」
「マリア様…?」ツェッドがチェインの言葉を反芻する。そこにマリア像のようなものは、まったく見受けられない。
それの外見を一言で言い表すのなら、木材で精巧に形作られたミニチュア・ハウス。アジアンテイストな、寺のような見た目のそれの中央に置かれた円形の小さな鏡が目を引く。鏡に祈るのだろうかと、レオナルドとツェッドは異国の聖母像らしきものとやらへの想像を膨らませた。
「でも、なんでそんなものを置いたんっすか」
「確かにマリア像ならまだわからなくもないですが…異国のそれを、何故?」
「それは…」
ザップが口を開きかけて、また言葉に詰まる。チェインも「ごめん、それは私もあまりよく知らない」と言い残して、姿を消してしまった。残るザップに二人の視線が集まるが、彼もまた「その時ちょうど、その場に居なかったかもしれねぇ、わかんねぇや」という結論に至った。
「揃いも揃ってわからないって…」
「っていうか、あれについて聞こうとするとスターフェイズさんが恐ぇんだよ。話してもいいが、特にお前にはじっくり話してやりたいな、とか何とか言ってきて」
じっくりって何だよ、と言いながらザップは神棚を睨む。なんの変鉄もないように見えるそれは、彼の視線を受けながら黙ってそこに鎮座している。
「どうしたどうした、何油売ってるんだ?」
ザップに釣られて黙って神棚を見つめていたレオナルドとツェッドに、後ろから声がかけられる。書類と青いカップを持ち、あからさまに呆れたようなため息をついた話題の中心人物が立っていた。いつからそこに居たのだろうかと思いながら、ツェッドが口を開いた。
「すいません、あれについて話してて」彼の言葉に、スティーブンは目を細める。あれ───その言葉が指した神棚を、スティーブンは眩しいものでも見るかのように見つめた。しばしの沈黙の後、「あれがどうかしたのか」と彼が口を開くまで妙な静けさが四人の間に満ちた。聞こえてくる音はクラウスの弾くキーボードの音ばかり。プロスフェアーでもやっているのか、あるいは仕事をしているのか。ちょうどこの時間によく彼は趣味にいそしんでいるから、おそらくは後者だろう。もっとも、その真偽は神棚を見つめるように立つと彼を後ろに立つことになるのでわからない。
彼の質問には、レオナルドが答えた。「何であれが置かれたのかって、話してたんです。誰もはっきりとわからなかったもので」
「あれなぁ…」スティーブンが、彼にしては珍しく小さな声で、まるで答えるのを悩むかのようにゆったりと言葉を選ぶ。「……まあ、特にザップにはいつか話しておこうと思ってたしな。君らにも話しておいて損はない」
うん、と一人で納得したような様子で、スティーブンは三人にソファーへ座るよう促した。
「要は、女性には気を付けろって話だよ。あれはそう、“大崩落”から半年ほど経った頃だったかな…」
───崩落前、マンハッタンのアッパー・ウェスト・サイド、リバーサイド・ドライブの 122 丁目には、「サクラパーク」という名前の公園があった。
そこは極東の国・日本の首都である東京と、ヘルサレムズ・ロットの原型となった町・ニューヨークが姉妹都市となったことを記念して、東京から日本の石で作られた灯籠が贈られたりと、日本とニューヨークの友好の印だった場所だった。日本語で桜の木という意味を持つ言葉をあてがわれた通り、その公園には日本から贈られた無数の桜が植えられていた。
暖かくなると淡いピンク色の花でいっぱいになるサクラパークは、ニューヨークでもなかなか美しい場所のひとつであった。───“大崩落”が起こるまでは。
「サクラパークの桜の木のなかには、およそ百年程前に日本から贈られてきたものもある。大崩落でめちゃくちゃになったあの公園の桜はほとんどダメになってしまったんだが───辛うじて生き残ったのがそれだけだったのか、あるいは区画が入れ替わったときにその生き残りの木がたまたま一本だけ飛ばされてきたのか───ここから少し歩いたところに、一本だけ桜の木が生えていたんだよ」
「…今はもう、無いんですか?」ツェッドの残念そうな声に、スティーブンはああ、と短く返す。
桜の木を見てみたかったのだろうか。いささか残念そうな彼の様子に苦笑を浮かべながら、スティーブンは話し続ける。
「ある時、たまたまそれを見つけてね。大崩落のせいなのか、その桜は季節でもないのに、まるで勘違いしたかのように立派な花を咲かせていた。すごく綺麗だったよ。思わず見惚れたな…。でも、それが全ての始まりだった」
その桜を見た日から、毎日毎日、奇妙な夢を見るようになったのだとスティーブンは語った。奇妙な夢。その声は真剣で、とてもじゃないが茶化せるような話ではないのだろうということが三人にひしひしと伝わってくる。女に気を付けろという話だと彼は話し始める前に語ったが、それでもザップが逃げずに聞いている辺りにスティーブンの声音の重々しさが顕れている。
「いつもいつも、僕は荒れ果てた野原に一人で立ってるんだ。見渡す限りぼうぼうに生えた雑草まみれで、空も薄暗い。冷たい風が吹き付ける荒れた野原を、僕はずっと歩いていく。するとしばらくして、一本の木と、朽ち果てた寺のような建物、それから汚れた鳥居が見えてくるんだ。…ああ、鳥居って何だかわかるかい?わからないか…日本の、神様を祀る場所の入り口にある大きな像だよ。とにかく、僕は決まっていつも、そんな場所にたどり着くんだ。奥からは女性のすすり泣く声が聞こえてきてね…あんまり悲しそうな声だから、気になって仕方なかった」
スティーブンが持ってきていた青いカップからは、既に湯気が出なくなっていた。静かに語る彼が、一度足を組み直す。「そのうち、声が聞こえるようになった。寂しい、こっちへ来て、ってね」
「その女性の声で?」レオナルドの問いにスティーブンはひとつ、頷いた。そう、と答えて彼はぬるくなったコーヒーを啜る。
「僕はそう言われる度に、なんとなく、鳥居の向こうへ行ってはいけないと感じていた。だから「仕事が忙しい」とか「そんな気分じゃない」とか答えて交わしていたんだけど、彼女に話しかけられるようになってからかな…たまに夢の内容が、酷いものになるときがあった。──生きたまま、地中に埋められる夢だ」
スティーブンはそこで一度言葉を切った。ふう、という彼の呼吸の音と聴衆三人が生唾を飲む音が、いやに生々しくそれぞれの耳に響く。
「夢のなかなのに、感覚がかなり生々しかった。真っ白な服を着せられて、異国の言語で何らかのまじないに似た言葉を聞かされながら、土を被せられるんだ。…土の冷たさ、圧迫感、呼吸が出来なくなる息苦しさ、土の粒が衣服に入り込む感覚…こんな夢を立て続けに見てごらん。そのうち夢と現実がよくわからなくなってくる。夢を見ながら、最初のうちは「またこの夢か」と思えていたのが、だんだんとその境界が曖昧になっていくんだ。まるで、紙にインクが滲んでいくようにね。情けない話だが、僕でさえあれにはやられたよ。埋められる夢から醒めるたび、吐いた」
夢と現実の境目が曖昧になっていく。スティーブンのその言葉には重みこそあったが、三人にはあまりぱっとしない感覚であった。夢とは荒唐無稽なものであったり、あるいは日中の記憶が断片的に出てくるもの、という一般的な「夢」しか彼らは経験していなかったのだから、当然だ。
どんなにリアルであろうとも、起きてしまえば、夢を見ていたときには現実のように感じられたあまたの不条理や非現実性に気付いて、「夢だ」と悟る。そして、夢と現実に決定的な境界線を引く。それこそが三人にとって、いや、大多数の人々にとっての「夢」である。
マジョリティーが必ずしもマジョリティーではなく、非現実が現実になるこの街の特異性。それを三人は理解し受け入れていないわけではない。しかし、そうであったとしても、生物的に「夢」とはそのようなものであるという認識はやはり大きい。
「最初のうちはただ生き埋めにされるだけだった。けれど、荒野の夢で、泣き声が聞こえてくるだけでなくだんだんと話しかけられるようになったように、少しずつ変化が出てきた。埋められながら、迫る苦しみに怯えていると、聞こえてくるんだよ。「助けてあげましょうか」「苦しいでしょう」「こちらへおいで、助けてあげる」っていう、彼女の声がね」
「…番頭、その。なんかやばくないっすか?何か、途方もないくらいにやばい何かが後ろに居るような…」
「それだけじゃないぞ、ザップ。…起きた時にはいつも、ベッド周りや服には、土汚れがついていた」
「うわっ…!」
言葉にせずとも、三人の頭には、「何かやばいものがいるはずだ」という確信めいたものがあった。レオナルドが小さく怯えた声を上げたのを見て、うっすらと笑いを浮かべていたスティーブンが、また表情をもとの真剣なものに戻す。
「そんなわけで、何かがおかしいってのは僕にもわかった。で、呪いか何かを疑ったんだ。君たちも知ってのとおり、ここライブラには呪術の類にも通じた関係者が少なくない。夢を通じて対象者を弱らせる…そんな呪いもあるのだろうと思って、ライブラのつてで診てもらった。で、結果がこれだよ」
スティーブンは、視線を斜め上に上げた。その視線の先には、この彼の長い話のきっかけになった「神棚」。「やっぱ呪いだったんすか」というザップの言葉に、しかし、彼は首を横に振る。
「日本で千年近く昔に、洪水か何かは知らないが、何らかの理由で神に捧げられた女性が、後に供養されて神格化された。その神性存在がおそらくは件の桜の木に宿っていて、たまたま通りかかってその桜を見た僕に恋をしたのだろう、と言われたよ。なんでも、日本語で桜を表す「サクラ」という言葉には、「神が宿る木」という意味があるそうだ」
「恋…?」ツェッドがやや素っ頓狂な声を上げる。ザップがげっ、という声をあげさっと視線をスティーブンから逸らした。そんなザップをレオナルドが呆れたような目で見つめる。
「で、しっかり供養してやれと言われて置いたのがあれってわけだ。ザップ、お前も気をつけろよ。お前はクズだが見てくれだけはいいんだから」
軽く笑って、最後の一言に噛みつくザップをいなしたスティーブンがポケットから財布を取り出した。「ほら、昼がまだだったんだろう?長く話してしまったからね、これで何か食べてこい」
紙幣をレオナルドに握らせると、スティーブンは持っていた書類へと視線を落とす。
「何やってんだよ。ちゃんと持っとけ、ほら」
「行きましょうか。レオ君、何が良いですか?」
握らされたばかりの紙幣がレオナルドの手から滑り落ちた。床に音もたてずに落ちたそれを拾ったザップが「早く行こうぜ」と固まったままのレオナルドを急かす。
「どうかしましたか?」
既にソファーから立ち上がったツェッドが、レオナルドへ怪訝そうに声をかける。黙ったままのレオナルドの視線の先にはスティーブンが腰かけているソファーのみ。普段の彼なら、仕事の邪魔になってはならないからとすぐに立ち上がるだろう。しかし、早くと声をかけられても、彼は曖昧な返事すら出来ずにいた。ここに居る彼以外の者には、「それ」は見えてはいないのである。レオナルドの視線の先では、薄い笑みを浮かべた着物姿の女性が、スティーブンをその後ろから真っすぐに見つめていた。
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