「私、ずっと前から今日を待っていた気がするの」

寝る前に二人ならんでソファーに腰かけぼんやりとテレビを見ながら過ごす、いつも通りの夜。隣に腰掛けたなまえはふと、思い出したように謎めいた言葉を口にした。

「今日?何かあったっけか」
「ううん。記念日でも、何でもないけれど」
「…それは、どういう?」
「ええと…その、何だか変かもしれないけれど」

出会ったばかりの頃の彼女は随分と恥ずかしがりやで、口数も少なかった。人と話すのが苦手なのだと、自慢のポケモンの毛並みを整えてやりながら語っていた、いつかの寂しげな横顔が頭をよぎる。
手を握ることはおろか、まずは目を合わせて話すことから始まった私たちの仲は、始まりがこうだっただけになかなか良いものだと自負している。行ったり来たり、近寄っては離れたりと、二人で歩いてきた道が長ければ長いほど、踏みしめられた道は固まるのだろう。

「笑わないでね。ふと思ったことだけど、とっても真面目な話なの」

まだ湯気のたっている暖かなマグをローテーブルに置いて、なまえはどこか遠くを見るような顔をした。その視線は私から、向かいの窓の外へと向けられてしまって、私は黙って彼女の横顔を見つめることになる。
過去を追想するとき、人の視線は左上を向くという。それなら彼女はいま、何を思っているのだろう。何を見ているのだろう。間違っても、目の前のテレビではない気がした。

「あなたが帰ってくるのを待って、一緒にご飯を食べたり。それから、手を繋いで歩いたり。あとね、隣で眠って、二人で朝を迎えられるのも。今となっては当たり前のことだけど…それってきっと、奇跡みたいなことでしょう?」

色違いで揃えたマグカップが、並んで白い湯気を立てている。私まで視線のやり場に困っていると、彼女は私の手を握り、しっかりと向かい合って、私の目をしかと見つめた。いつもは少し照れ屋さんなのに、今のなまえのその瞳は、矢のように真っ直ぐだった。

「二人同じ時代に生まれて、出会って、同じ場所に生きているのは、奇跡とも言える確率のことなんだろうって。それで、そう思ったら、私…ずっと前から、今日を待っていた気がしたの」
「…今日は何か、悲しい物語でも読んだのかな」
「いいえ。ただ、ふと…そんな考えが浮かんだだけ」
「そうか……ああいや、突然そんな話をされるとは思わなくて。少し驚いたんだ」

なまえは愛の言葉というよりも、やはり真面目な話として話していたつもりだったのだろう。うっかりでれっとしてしまった私の態度に、彼女は少しむっとしたような顔をしたので、慌てて弁解して、返す言葉を考える。

「そうだなあ…」

彼女のまだ少しだけ濡れた髪を、握られていない方の指先でくるくると遊ばせてみる。柔らかくて、同じシャンプーを使っているはずなのに、何故か少しだけ違う彼女の香りが鼻腔をくすぐった。
パラレルワールドという言葉がある。無数の分岐の上に成り立つ、数えきれないほどのIfの世界。彼女と出会った雨の日に、もしも私が傘を持っていなかったなら。もしもあの日が晴れていたら。彼女が何度目かの旅先に、もしもシンオウの土地を選んでいなかったなら。
数えだしたらキリのない無数の「もしも」という偶然が重なって、今のこの瞬間に繋がっているのだとしたら。そのひとつでも、重ねてきた偶然の中で、別の選択肢を選んでしまったならば、今こうして、私はなまえの髪に触れることはできなかっただろう。
真面目に考えてみれば、今が「今」という形で存在しているのは、なるほど確かに奇跡と言えることなのだろう。一期一会だとか、そういった言葉はまさに的を射た言葉である。

「もしも君が、ずっとずっと前から今日を待っていてくれたなら…私も同じように待っていたんだろうか。それとも、待たせてしまったのだろうか。どちらにせよ、きっと私は、なまえのことを泣かせてしまったのだろうね」

今みたいに。付け加えた言葉を耳にして、思っていたより少しだけ自分の声が弱いことに気がついて、胸の奥がしくしくと痛んだ。それはいつの日かまだ小さかった頃に、膝にこさえた傷の痛みによく似ていた。
二つ並んだ、色違いのマグカップの中身。それはほんのりと蜂蜜の香りがするホットミルクで、無茶をしてしまった私を思ってなまえが淹れてくれたものだった。

「今日ね、ゲンさんが、鋼鉄島で…波導の力を使ったと、聞きました。…ねえ、波導って…命の力なんでしょう?そんなものを一度にたくさん使ったら、どうなってしまうの?…あなた、私が今日、それを聞いてどれだけ怖かったと思ってるの?」

彼女の手を握る力は決して弱くはなかった。なのに声は迷子の子供のようで、うなだれた姿は、まるで萎れた花のようだった。人見知りの気があっても、少し内気でも、その実なまえが芯の強い女性だということは私がよく知っている。なのにこうも彼女が、私のために胸を痛めて、なよ竹のように涙している。その光景はどこか神聖で、知らず知らずのうちに私は目を奪われてしまう。

「あなたの人生なんだもの。好きなことを学んで、修行して、身に付ければいい。でも…お願い。私と…」

私と一緒に生きていて。
窓の向こうの風の音にかき消されてしまいそうな震える声は、あんまりにも寂しげだった。
鼓膜を揺するすすり泣きが、どうしてか胸の奥を暖める。殉教者のなきがらに寄り添う乙女のように、なまえの涙は神聖だった。自分ひとりのためにこの子がここまで心を砕いてくれるのが、誇らしく、また嬉しく思う私は、ひどい男なのだろうか。
マグの湯気はすでに影を潜め、さっきまで流れていた陳腐なラブストーリーは、昼間にはあまり見ないCMを流し始めている。かちかちと音を立てる時計の針に合わせて、彼女の細い背を撫でてやった。
ずっと今日を待っていた、そんな言葉に、私はなんと答えてやればいいのだろうか。こんなときにきざな言葉のひとつでもそっと語りかけてやれる男が、女性に好かれるのだろう。しかしどうにも私にはそういった類いの才はなかったようで、頭に浮かぶのはきざとは呼べないものばかりである。きざにしようと思えば思うほど、さっきのドラマのように陳腐で、どこかから借りてきたような、実の無い言葉になってしまうのだ。
ここでまた、口にする言葉によって、無数のIfが生まれるのだろうか。これから辿る道はどんな結末に繋がるのだろうか。考えて、少しだけ背中が粟立つのを感じた。

「笑わないでくれよ。頑張って考えてもみたが、あんまり上手く喋れていないかもしれない」

迷子の瞳が、私を捉える。それまで用意していた言葉たちは、風に流されるフワンテのように、どこかへ流れて消えてしまった。ちくしょうと思いながらも、何かを喋らなければと動かす口は、やっぱりきざには程遠い言葉を並べ立てる。

「知ってるだろう?私はそんなにできた人間じゃない。君が叱ってくれなかったら部屋だってすぐに散らかしてしまうし、修行に励むあまり、いい年をして服をひどく汚してしまったりもする。ああ、破いたこともあったっけか。それに今は、こんなに君を泣かせてしまった」

濡れた睫毛がぱちぱちと瞬く。言っていて自分にうんざりしたが、なまえは真面目な顔つきで次の言葉を待っている。ごうごうと、少し強くなった風が窓枠を揺する音に、二の句を急かされているような気分になった。

「情けないけれど、私は君なしではまともに生きていけないよ。……なまえ、これからも私と一緒に生きていてくれるかい」

腫れてしまうからとせっかく指で拭ってやったのに、彼女は後からまた溢れた涙を袖口でごしごしと擦る。泣いたあとに目を擦ると後から痛くなるだろうに。こら、と声をかけるとなまえは私の心を射止めた笑顔を見せた。

「あなた、私がいないとだめなんだから。でも、それでいいの。私、とっても嬉しい」

剣を握り彼女を守る騎士のようにはなれなくとも、それでいいのだと笑うなまえの笑顔が眩しい。彼女がいないとてんでだめな私でも、きっと彼女の手を握って共に歩むことはできるだろう。
照れ隠しに飲み干したすっかりぬるくなったホットミルクが、やけに甘ったるく体に染み込んだ。
もう少ししたら寝よう。今はこうして、ほんの少しだけ恥ずかしいけれど、穏やかで心地よいこの空気に包まれていたかった。
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