冷たい風が吹き付ける夜のことだった。今日は少し肌寒いな、と思いながら私はろうそくの火を頼りに仕事に励んでいた。もう、店じまいはとうに済んでいる。これはお直しを頼まれたものだった。慎重に慎重に手を動かしながら、一針一針を進めていく。
あと、もう少しだけやったら寝よう。欠伸をかみ殺して目を擦り、また手を動かし始めた。
そこから数針を縫ったところで、ふと控えめなノックの音がドアの向こうから聞こえてきた。こんな時間に来客だろうか。店じまいはとうに過ぎている。こんな夜更けに訪ねてくるとは、何か相当の理由のある人なのだろうか。それとも、酔って家を間違えた人だろうか。
どちらにせよ放っておくことも出来ず、私は再び手を休めて立ち上がった。

「はい。どなたですか?もう、店じまいは終わって…」
「開けなくていい」 

鍵を開けようとしたが、寸手のところで険しい声が聞こえてきて、私の手は止まった。次いで、体が冷たくなっていくのを感じた。開けなくていいという奇妙な申し出に驚いたから、というだけではない。そのドアの向こうから聞こえてきた声が、私の一番好きな人だったからである。

「…開けなくて構わない。この店の女店主へ、ある男からの懺悔を承った。聞いてくれないか」

聞きなれた大好きな声がする。いつもは優しい響きの声が、今はなんだかとても険しく、そしてその口ぶりはまるで他人へ話しかけているようで、私の体はどくどくといやな脈動を刻み始めた。虫の知らせというやつだろうか。彼の身に何か取り返しのつかないことが起こってしまいそうな気がして、寒かったはずなのにじわりと汗が滲むのがわかった。

「あなたは、…誰」
「名乗るほどの者でもない。伝言を頼まれただけの…そう、ただのメッセンジャーだ。…君がこの店の女店主でいいのだろうか」
「…はい。私です」
その人は、まるで神父様にでも話すかのように語り始めた。

「その男は、もう二度と帰ってこれないかもしれないところに行かなければならないそうだ。…そんな自分が、こんな気持ちを持つべきではなかったのかもしれない。いや、きっと、そうだろう。少なからずその男は、近いうちに彼女のことをひどく傷つけることになるのだから。でも、彼女と過ごせた時間があったからこそこの決断ができたと、幸せだったと言っていた」

もう二度と帰ってこれないかもしれないところへ───開口一番に語られた言葉に、喉の奥がきゅっと閉まるのを感じた。走ったあとのように脈動は早まり、呼吸は浅くなっていく。

「感謝と謝罪を伝えてほしいと、話していたよ。だからどうか…何があっても、彼を許してやってくれないか」

この小さな店はいまや、たった一人のための懺悔室だった。彼の言葉尻は、神に許しを請いに来た者のように幽かに震えていた。たとえ「伝言」という形をとっていたとしても、その震える声が、紛れもなく彼が───私の愛した人が、最後に他でもない私へと残す言葉なのだということを嫌でも私に実感させる。
初めて彼と会ったときを思い出す。一目見れば、軍属の───それも波導使いであるとわかる青い服を着た男性が、困り果てた顔で店のドアをくぐって来たのである。地位も名誉も十分に持っている立派な人だというのに、服を破いてしまってどうしていいかわからないと、悪さをしてしまった子どものような顔をして、彼はうちの店に駆け込んできたのだった。
あのときはこんな身分の方に下手なことは出来まいと、ただその一心で震える手に無理矢理針を握っていたのを覚えている。そうして、私はなんとかマントの破れた部分を直して、おっかなびっくり元通り綺麗に仕上がった服を渡した。

「すごいな。まるで、時の奇跡でも見たようだ」

私からマントを受けとると、彼は晴れた日の空の色をした瞳を丸くして、心底安堵したようにそう呟いた。
すごいな。もう一度呟く彼は私の手をまじまじと見た。彼がきっと日頃見ているであろう身分の高い女性のそれとは違う、荒れた私の手。私は恥ずかしくて、腹の前で組んだ手をそっと隠した。
彼はそんな私を見ると、おもむろにその手袋を取った。そして、その固い手のひらで、私の手を握ったのだ。

「ありがとう」
言うやいなや、彼は右膝をついて私の手へキスをした。彼のような高貴な身分の人が、この私に。
服を直してくれた感謝だと、彼は言った。
私は仕立屋の人間として、客の依頼を受けただけ。果たすべき義務を果たしただけのこと。それに対してここまで素直に、眩しすぎるほどの感謝を彼は私に示してくれたのだ。

「お役に立てて…光栄です」

ようやっと絞り出せた言葉はたったそれだけで、もっと他になにか言葉があったのではないかと今でも思う。
けれど彼は私のその言葉に、笑ってくれた。そしてその、右膝をつきながら笑った顔を見たときに、私は確かに心を奪われてしまったのだった。たとえ───身分、住む世界、着る服、食べるもの、自分にとっての日常。私たちを取り巻くその全てが、まるで違っていたとしても。
その一件以来、彼は暇を見ては度々私の店へ来てくれるようになった。くだらない話から、夢のような話まで、私たちはたくさんのことを話した。戦争が終わったら何がしたいか。そんな夢物語を語っていたあの頃を思うたび、この胸は甘い痛みに苛まれる。
彼は、笑いたいときには笑い、困ったときには困った顔をする、素直な人だった。自分にも周りにも、いつだって嘘をつかない人だった。その実直な振る舞いと、身分を感じさせない明るさが、周囲の人間の心をつかんで離さない人だった。

「頼む。許してやってくれ。でないと、彼は……」

古ぼけたドア一枚を隔てて、彼は神にすがるような口ぶりで、私という神父に許しを請う。
彼に比べれば下劣な身分で思い上がりも甚だしいと、きっと私はつぶてを投げられることだろう。生まれながらに人は職業を決められて、そしてそれが一生涯を決定する。そんな世の中で、私のような平民が、お国を守る波導使いに───たとえ一時といえど、愛されていた気がするなどと言ってしまえば。
だから私はこの想いを、墓まで持っていくつもりである。もちろん彼にさえも、たとえ鞭でどれほど打たれようとも決して言うつもりはない。───そんなつもりは、なかったはずだった。

「私は…」

ドアの向こうで、今まで一度だって聞いたことのなかった弱々しい声が、彼に恋したその日から決めていた覚悟を揺さぶった。
言ってしまえたら、どれだけ楽だろう。言ってしまえたら、どれほど幸せになれるだろう。ほんの一瞬でもいい。今夜だけでもいい。一度でもいいから、彼のその腕で抱かれてみたかった。抱き締めてほしかった。力一杯抱き締めて、キスをしてと、言ってみたかった。これが今生の別れになるのなら…。

「…私は……」

ドアの向こう、姿の見えない彼は今、どんな顔をしているのだろうか。見えない姿に、思いを馳せた。目をつむっても、暗闇が広がるばかりだった。当然だ、私に波導使いの素養はないのだから。
彼はたまたま誰より慈悲深く誠実な心を持っていて、たまたまたくさんの人を救える力を持っていて、たまたまそのための地位についていた。なんと数奇な運命だろうか。細い糸のような偶然がたくさん重なって、彼の運命は確かに織られてしまったのである。激しい戦争に荒廃する世を救う、英雄となるべき運命を。

「わ、私は……」

───結局、どんな鉛より重たいこのドアを、私は開けることはできなかった。開けられないと悟ってしまった。決して開けてはならないと、理解した。そしてその選択をすることを、私は選んだ。
これもひとつの愛の形だと、どうか気づいてほしい。
運命を決断することの苦しみを、私は私なりにたった今、味わった。この苦しみは、彼のそれに比べたら、針で指先を刺してしまった程度だろうけれど。それでも、彼の苦しみと同じ種類の苦しみを今、思い知って、心に刻んで、私は揺らいだ決意を再び固めた。

「…許します」

彼が今から成すことは、お国のため───いや、この世のための、名誉な仕事だ。とてもとても、誉れ高いことだ。彼の名前は未来永劫語り継がれることになるだろう。私のような、歴史の波にのまれてしまう名も無き人間とは違って。
そう、違うのだ、私と彼はどこまでも。彼は生まれながらに英雄となるべき運命を背負った人だった。そしてきっと、私たちは彼に救われるべき運命にあるのだ。
それを肯定するのは途方のない苦しみを伴うけれど、同じ苦しみの中で決意を固めた彼の心を揺らがせてはならないのだ。
たくさんの醜い感情と、胃の腑を衝くような悲しみと、涙のように暖かい愛情とが、胸の奥でぐるぐると渦巻いている。けれどそれら全てを飲み込んで、私は喉に力を入れた。
「許します」その言葉をもう一度、はっきりと口にする。

「大切な、友人が……そんな固い決意をしたというのに、許さないわけがありません。彼の決断を誇りに思います。武運長久を、祈っています」

ドアに当てていた手で、無意識にささくれた木製のドアを引っ掻いた。木の小さなとげが指の腹に食い込んで、ちくちくと痛い。温かい涙が次から次へと溢れては、ぼたぼたと床へ落ちていった。

「そうか。伝えておこう」
「……ありがとう」
「ああ」
「行ってらっしゃいと、伝えてください」
「わかった。確かに承った」

彼はそれを聞くと、さっきまでの弱々しさはどこへやら、何でもないような声色で「夜にすまなかった」と言った。そして、それきりドアの向こうからは何の音も聞こえなくなった。きっと、帰ってしまったのだろう。
金縛りにでもあったかのように固まっていた両足からは力が抜けて、私はそのままへたり込む。こんなにも泣いたのは、いつぶりだったろう。そのまま私は、空が白くなるまでずっと、私たちを隔てていたドアにすがって涙にくれた。

     ・   ・   ・

「夜にすまなかった」

喉と腹に力を込めて、最後の最後、別れ際くらいは努めて平時の声を保とうとした。
早くここから立ち去らなければならない。なのに帰る足は重く、体は金縛りにでもあったように動かなかった。思った通りに泣いてしまった彼女の泣き声を聞くのが、想像以上に辛いと知ってしまったせいだった。
か細い泣き声は、彼女の言葉には出来ないたくさんの感情を雄弁に語っているようだった。私を責めているようにも思えたし、これは私の儚い願望なのかもしれないが、私を引き留めてくれているようにさえも感じさせた。
早く帰ってしまいたい───なのに、もっと、もっと彼女の声を聞いていたいと思ってしまう。もう、どんなに胸を痛ませるものでも、何でもよかった。自分を想って泣いてくれる誰より大切な人の声を、記憶に焼き付けておきたかったのだ。
ドアを思いきり開け放って、抱き締めてやりたいという衝動をおさえるのに必死になるあまり、足は石のようになって動かない。

「行かないで…行かないで、お願い…」

───きっと私が帰ったと思って、最後まで決して言わなかったその言葉を言っているのだろう。
立て付けの悪いドアの隙間から漏れる嗚咽は、彼女の声を聞き漏らすまいとする耳が全て拾ってしまっていた。

「どうしてあの人なの?…ああ、どうして…どうして一緒にいられないの」

私がドアにもたれているとはきっと夢にも思わないのだろう。微かに聞こえてくる言葉たちは、さっきの気丈な言葉とはうってかわって弱々しく、また、私と同じ欲のこもった言葉だった。
このドアを開け放って、抱き締めてやれたならどれだけいいだろう。お前を残して死にたくないと、そう言えたらどんなに良かったろう。何もかも放り出して彼女を拐って、二人違う名前を名乗ってでも、どこかへ逃げ延びることが出来たなら───なんて、国を守る立場の人間としては許されない考えが浮かんでは、あぶくのように消えていった。
もう、こうするしかないのだ。そうしなければ、もしかしたら彼女が戦火にまかれて死んでしまうかもしれない。
国境近くまで敵軍は迫っている。今こうしている間にも、彼らは剣を磨いでいるのだ。朝日が昇れば、また軍靴を響かせ行進を始めるのだ。その剣で、私の愛した人たちを斬りつけるために。愛しい祖国を、戦火の炎で焼き尽くすために。

「愛した人のいない世界でも生きていける位、強い人間だったならよかったのに…」

許してくれ、許してくれ。お前を残して死ぬ私を、どうか許してくれ。
歯の根を食い縛り、眉間に皺を寄せて、必死に耐えていた涙がひとつ、またひとつと溢れていく。溢れた涙は自分の声に出来ない想いをひとつずつ溶かしながら頬を伝い落ちていった。熱い涙が流れる頬に、夜風はあまりに冷たく吹き付ける。
今が夜更けで本当によかった。こんな姿は、誰にも見られたくなかった。
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