些細なことだったと思う。思う、と結ぶ時点で些細なことだったのだろう。断定ではない時点で私がそのきっかけを覚えていないことは明白だ。些細なことで、喧嘩してしまった。そうしてあの小さな家を飛び出した。
適当な靴をつっかけてきたせいで爪先は寒いし、もちろん体だって寒い。初冬の夜はなかなかに冷える。そういえば、シンオウではもう初雪を観測したと朝のテレビが言っていた。まだカントーでは雪は降りそうにないが、それにしても肌に小さな棘が刺さるようなぴりぴりとした寒さである。薄着で暖かな部屋を飛び出してきた体は芯から震えていた。
ここからトキワシティのポケモンセンターまで歩いていくと大体二十分位である。さあ、どうしようか。突発的な家出だ、薄着で体は冷えているし、お金だって持っていない。とりあえずつかんできた端末の電子マネーはたしか缶コーヒーがひとつ買えるか買えないか位しか、チャージは残っていなかった。

「グリーンの馬鹿…」

馬鹿、馬鹿、ほんとに馬鹿!くしゃみとともに、そんな憎まれ口が飛び出した。なんだか惨めな気分になってきて、思わず足を止める。スニーカーだとやっぱり爪先は寒いし、パーカー一枚では冬の夜は冷える。ぶるりと一度身震いした。これは怒りか悔しさか、いや違う、この寒さのせいだろう。きっとそうだ、なんだかむしょうに鼻の奥がつんとした。
ふと顔をあげれば、家の近くの小さな児童公園まで引き返してきていたことに気づく。でもどうにも素直に戻る気分にはなれなかった。幸い入り口の近くにある自販機は電子マネーに対応していたので、一番安い缶コーヒーを買ってベンチに座った。冷えきったベンチのせいで、腰が冷えて仕方ない。

「……いた!なまえ、どこ行ってたんだよ!」

缶コーヒーをちびちびと飲みながらぼんやりと光る時計台を眺めていると、後ろから聞きなれた声がする。あれ、と思って振り向けば、頭に思い浮かべた人物がそこにいた。グリーン、と思わず名前を口にすれば、彼はほっとしたような顔を少しだけ歪めた。

「夜中に飛び出して、何考えてんだよ」
「まだ十時にもなってないよ」
「それでも十分暗いだろ!」
「旅してた頃なんかもっと遅くにふらふらしてたし」
「今は違うってことくらいわかるよな」
「もう二十こえてるんだよ、何言ってるのそっちこそ」
「いくつだろうと俺が心配するんだって」
「……ほんと馬鹿」
「馬鹿はお前だろ、あー……良かった、変な奴見かけたりしてないよな?」
「………まあね」

可愛くない返事だ、可愛くない態度だ。ついさっきのようなやり取りをするうちに思い出す。喧嘩の原因は大体私のせいだった。少しはグリーンも悪かったかもしれないが、それでも私だって悪かった。いや、私が悪かったのだ。なのにこんな風に家を飛び出して、彼を心配させて、馬鹿はいったいどっちだというのか。恥ずかしさに、冷えていた耳がかあっと熱くなった。

「…ごめんなさい。ごめんなさい、心配させたし、その…さっきのも」
「いや、俺も悪かったから。気にすんなよ、それより…ほら、これ」
「えっ、でも」
「いいから!…ほら、もう帰るぞ。走り回って、結局夕飯食べてないんだよ。なまえも食べてないだろ、財布も持ってなかったし。早く帰ろう」

彼は着ていた上着を脱ぐと、それを私の体に羽織らせた。裏地がもこもことしていて暖かい上着は、彼の体温を閉じ込めていて、いつもよりも暖かい。私を探すために夜の町を走り回ってくれた彼の体温だ。缶コーヒーを彼に預けて、少し大きい彼の上着に袖を通した。
初めて異性と手を繋いだ時のティーンエイジャーのような気持ちになって、胸の奥がむず痒い。それでもなぜだか悪い気はしないのである。ねえ、寒くないの、と問いかけるのは野暮だろうか。

「ん?俺は寒くないから、着とけよ」
「それじゃあ、それ、代わりにあげる」
「コーヒー?」
「買ったばかりだから、まだ温かいよ」

自然な動作で繋がれた左手の先を辿る。私よりも高い位置にある彼の横顔をこっそりと眺めるのが、私の特技なのだ。私から預かったままになっていた缶コーヒーを一口飲んだグリーンは一言、「温かい」と呟いた。
その呟きの温度もまたあたたかく聞こえて、申し訳なさと同時に、やっぱりこの人が好きだなあと思う。二人の家へと続く道をゆっくりと歩きながら、きっと今夜のご飯はいつもより美味しくなるのだろうなあと想像して、絡んだ指先に少しだけ力を込めた。
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