結局のところ、私は何にでもなれるけれど、他の誰でもない「自分」になることは出来ないのだとわかった。
私は誰なんだろうかと思うのだと、一度悲しくて泣いていた時に彼にもらしてしまったことがある。彼───ゲンはその青い目を細めて、「アイデンティティーの悩みか」と呟いた。アイデンティティーって何だろう?───聞きなれない言葉に私は首を傾げたが、彼が言うには「他の誰でもない自分」というような意味なのだという。
「それは、人から言われて解決することではないからね。自分で答えを出すしかないのだろう」
なまえの力にはなってやれないよ、と彼は肩をすくめてそう言った。でも、その苦しみを聞いてあげることはできるからね、と最後に付け加えて。
こんなどうしようもない悩みが消えてくれたらどんなにいいだろう。でもこればかりはどうしようもないので、私が選ぶ選択肢は「耐える」というものしかない。
窓の外には雪がちらついている。もうだいぶん、肌寒くなってきた。そういえばと、ゲンが先週、そろそろ寒くなったからと言ってコートとマフラー、それから手袋を引っ張り出していたことを思い出す。
視界の端っこに立つコートかけに並ぶ、かわいらしいデザインのコートとマフラーがちらりと私の目に入る。彼のマフラーを貸してもらい、彼の真似をしてくるくると首に巻いてみせたときに、私が防寒着などひとつも持ってないことを知ったゲンが買ってくれたものだった。きっとなまえに似合うと思ったのだと、彼は笑った。
「私は、なまえ?───本当に?」
ことことと煮え立つシチューをかき混ぜながら、私は思わずそう口に出す。彼は今、バトルタワーという場所に行っていた。夜の八時までには帰ると電話があったので、それに合わせてご飯を作っているところだった。ああ、もう溶けてしまって形がなくなっているたまねぎたちのように、私の悩みも消えてしまえばいいものを。
小さなお皿にシチューを少しだけすくって、舐めてみた。やさしい味がする。美味しいなあと思うこの舌さえもが、「私のもの」ではないのだと思うと、どうしようもなく苦しくなった。
彼と一緒にいるときはまだいい。人間になれたような気分になっていられるので、まだいいのだ。ゲンは優しくて、私が悲しくなったときにはそうっと抱き締めてくれるし、黙って寄り添ってくれる人だから。
しかしこうやってがらんどうの家のなかに居ると、顔の見えない誰かに責められているような気分になってしまって、拭えど拭えどぽろぽろと涙が溢れてしまうのである。
「なまえ……私は、なまえ?」
少し前に、鋼鉄島と呼ばれるこの島では一番大きなお店に行ったとき。人が信じるらしい神さまとやらの教えが書かれた小さな本を配っている人に会った。そうして気になったのでそれをこっそりと貰ってみて、夜、ゲンが寝たあとにそれを一人で隠れるようにして読んでみたのである。───ヒトではない私が、ヒトの信じるものについて書かれた本を読むことに、少しだけ罪悪感があったせいだった。
その本曰く、イエスや天の父と呼ばれるとても偉大な人がいて、どうやら人間はその人たちを信じればきっと救われるらしい。
彼を好きになって、頑張ってヒトの使う文字を覚えたけれど、やっぱりその本は難しく。すべてを理解できたわけではなかったが、しかし私とて、ただひとつ、これだけはわかった。
彼らはヒトのことは救うらしいが、ポケモンを救うかどうかはわからないということが。
「…細胞のひとつひとつまで人間と同じになっているのに、その正体がヒトではない私は、やっぱり…本当の意味では、ヒトではないのかしら?」
火を止めて、ソファーに腰掛けて、本棚の奥に隠していたあの小さな本を取り出した。挿し絵に描かれた神さまに話しかけてみても、答えは返ってこない。当たり前のことだが、それでもどこか虚しかった。本棚に目をやれば、ひときわ分厚くて重たくて、難しい文字の羅列がたくさんの図鑑に自然と視線が流れる。ポケモン図鑑だ。
この小さな本を読んだときのように、一度だけそれをこっそりと見たときのことは忘れられない。
「この声も、この体も、この顔も、何もかも…どこかの誰かの模倣でしかないのに。私はここに居てもいいの?」
夜になれば月が光り、朝になれば太陽がのぼるように、私たちにとって化けるということはとても自然なことだった。見たものの姿を模倣し、溶け込みながら生きていく。そうやって身を守り、私たち───ヒトが“メタモン”と呼ぶ種族は、きっとうんと昔から命を繋いできたのだろう。
化けることとは生きること。それ以上でもそれ以下でもなかったので、何故自分たちが見たものに姿を変えることが出来るのかなんて一度だって考えたこともなかった。だから私はあの図鑑を見て、心底驚いたのである。生き物を形作る最小単位とも言える細胞の隅々までもを変える力がこの自分にあったなんて、私は知らなかったのだ。
細胞の隅々までヒトそっくりになった私は、はたしてヒトなのか、それともやはりポケモンでしかないのか。私は、こうしてゲンの側にいることを許されるのか、許されるべきでないのか。
小さな本は変わらずこの手の中に鎮座したまま、私の告白を黙って聞いている。これではまるで、この家が教会の懺悔室にでもなってしまったかのようだ。悔しさと虚しさで、少し笑えてしまう。
本を閉じ、元あった場所に戻して、再びソファーの柔らかな背もたれに体を沈める。自分とは何か?───かつてゲンに問いかけたその明確な定義は、未だ深い霧の向こうに見えぬままだった。
せめてその答えさえわかれば少しは違うのかもしれないが、やはり胸の奥で渦巻く罪悪感が気持ち悪い。目を閉じて左胸に手を当てると感じるこの鼓動も借り物でしかないとすれば、やっぱり私は、贋作でしかないのだろうか。
贋作は、真作を超えることなんてきっと出来ない。真作を超える贋作など、あってはならない。そんなことさえわからぬほど、どうやら私は愚かではなかったらしい。
その時、私の肩がぴくんと跳ねた。暗い思考を切り裂くように、がちゃがちゃという鍵が回る音がしたのである。じんわりと熱くなった目元を擦り、ドアの方へ向かう。帰ってきたゲンは、肩と帽子に白い雪をうっすらと乗せていた。
「ただいま。……ああ、暖かい」
「お帰りなさい。外、寒かった?」
「とても。…しかもこんな日に限って対戦相手に“吹雪”を使われたものだからね」
「ええ…こんなに寒い日に…。あ、ストーブもたいておいたの。ご飯食べる前に、体暖めて」
「ありがとう。…ああそうだ、なまえ」
「なぁに?」
コートとマフラー、それから帽子を受け取って手がふさがった私の頭を軽く撫でて、ゲンは目を細めた。「もうじきクリスマスだったことを思い出してね」と、彼は楽しそうな声音で言う。歌うようなその口ぶりに、そういえばそうだったと気づいた。二人でここに住むようになって初めてのクリスマスだから、彼はきっと特別な何かを感じてくれているのだろう。
まめなところのある彼は、私よりもよほどそういったイベントやら記念日やらを大切に考えてくれるのだ。いや、もしかしたら、ヒトらしさというものはこういったところに出るものなのかもしれない。こういうところも真似をしていかないとな、とぼんやりと思考の片隅にメモをした。ここに住む前は毎日ただひたすら生き抜くために必死だったので、あまり日付やら何やらそういったものにとらわれていなかったのである。だから私には、どうにもゲンが非常にまめなように思えてならなかった。
「クリスマス……」
「何が欲しいか、考えておいてくれよ」
「うん。…ゲンは?去年は確か、私、ケーキひとつしかあげられなかったでしょ…」
「トレーナーでもなかった君が、一時的とはいえ、友人に協力してもらってまで…慣れないバトルでお金を稼いで、そうやって頑張ってきてくれたんだ。嬉しかったよ」
「でも…」
「そうだな、それじゃあ……」
───来年も、再来年も、ずっとここにいてくれるって約束してくれるかい。
彼は本当に何気ないように、しかしおどけてみせるでもなく、静かな声で私にそう問いかけた。なんて優しく、残酷な言葉だろう。私が人間である彼とこんな関係にあることが、きっと彼をいつか傷つけてしまうはずなのに。勘のいいゲンはきっと、私が何かを隠していることくらい、見抜いているはずなのに。
いとおしさと、喜びと、後ろめたさがごちゃ混ぜになって、胸の奥を締め付ける。私は何と答えるべきで、そしてどう振る舞うべきなのだろう。
「私は、なまえが好きだよ。君が自分を愛せなくても、私はなまえを愛してるから、側に居たいんだ」
「……私はきっと、ここに居たらいけないの。居たらいけないのに、どうして…どうしてこんなに、苦しいの」
「なまえは?…私をどう思う?」
「好き、大好きよ、だからこんなに苦しくて…私、どうしたらいいの?」
「ここにいればいい。私のさっきの質問に、はいとだけ答えてくれればいいんだ。…好きだから一緒にいる、それだけのことで、これ以上の事実はないだろう。誰が君のことを責められる?」
コートについていた雪は溶けてしまって、水となって染み込んでいる。じんわりと濡れたコートを腕に抱いているせいで、私は溢れる涙を拭うことなんて出来なかった。暖かいようで、やはりリビングほどは暖かくない玄関先。きっと外の温度に冷えていた体ではこの温度はそこまで心地よいものでもないだろうに、彼は濡れたコートごと私を自らの腕の中に閉じ込めた。
どれだけ上手に模倣したとしても、決して本当にヒトにはなれない私は、どこの誰にならなれるのだろう。
もしも彼の問いかけになんの後ろめたさを感じることもなく、ひとつ返事ではいと答えることが出来たなら、どれ程幸せだったのだろうか。
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