心はから醒めぬまま


出稼ぎに出てきた農家の娘の暮らしぶりなんてたかが知れている。けれどそれでも私はまだ、恵まれた部類だった。私の職場は小さな酒場で、二階は質素な宿屋になっているのだが、ここの店主は気の良い人だった。奴隷のようにこき使われてもおかしくない私たち奉公人を、きちんと一人の人間として雇ってくれる、いっそめずらしい部類の人だったのである。
だから仕事に関しては不満などひとつもなかったし、故郷に帰りたくないと言えばそれはまあ嘘にはなるが、それにしたって、ここで働けてよかったと思っている。
しかし───不満。強いて言うのならそれはただひとつ。酒屋という職場ゆえ、どうしても切っても切れない縁のあるもの。ひどく酔って、困らせるお客様であった。

「ねえ、またいらしたわ」

同じ奉公人であり、仲の良い女性、ルイーズが舌打ちをこらえたような顔をして私の肩を小さく叩いた。夜も深まりにぎわう店内の真ん中辺りのいつもの席に腰かけると、彼はいつものように私たちを呼びつけ大量の酒を注文する。名前はたしか、フリードリヒ。大樽のフリードリヒと、嫌味を込めて呼ばれている。
彼はひどく酒癖が悪かった。酔って騒ぎを起こしたり、他の客と喧嘩になったり、私たちに嫌な言葉をかけてきたりするのだ。けれど店としてはたくさんのお金を使ってくれるために、嫌な態度をとることもできず、たちの悪い客だったのである。

「おい!注文したものはまだか?この───」

しかもこのフリードリヒ、何故か他の者のなかでも私にだけ、卑猥な言葉をかけてきたり、私のことを目の敵にするのだ。早速出来上がっていたらしく、開店そうそうに嫌な言葉をかけられて、それでも私は笑って酒を運びにいく。今日は騒ぎにならなければいいな、と淡い期待を胸に抱きながら。
しかしその期待は数時間後には、あっけなく吹き飛ばされてしまった。何やら彼の気にさわることをしたらしい別の客と掴み合いの喧嘩になり、そこに何故だか私まで巻き込まれたのだ。彼は店主の旦那様とは違って、私たちを奴隷としか思わない部類の人間だった。
木で出来たカップは、少し重い。そして堅いので、投げつけられれば痛かった。旦那様が何とかしてお帰りいただこうと私たちに目配せをするのが見えた。カップをぶつけられたために痛む額をおさえつつ、私とルイーズはフリードリヒに歩み寄る。
だが、それが彼の怒りに触れたらしかった。飛び交う罵声と拳が、彼がいっとう嫌う私に飛ぼうとする。思わず目をつむり、縮こまった。しかし飛んできたはずのそれは、私に痛みを与えなかった。ルイーズがどんくさい私を引っ張り出して、私たちは喧嘩の中心から遠ざかる。

「あの人…」

少し年上で、私よりもやや長くここで勤めているルイーズが、怪訝そうな顔つきをする。彼女の青い瞳の視線の先にいたのは、私に飛んできたフリードリヒの拳を軽々と受け止めた、髪の癖の目立つ背の高い青年。何やらフリードリヒとその喧嘩相手と話をしているらしいが、話の内容までは聞き取れない。

「ルイーズ、あの方をご存じで?」
「ええ、まあ。たまに来てはいたけれど。どうしたのかしら…あの方、他の方とお喋りを楽しむことはあっても、あんな喧嘩に飛び込むような人ではなかったはずなのだけれど」
「"大樽さん"はほら、恰幅もよろしいのに、あの方大丈夫かしら」
「若い方だし、力はあるみたいだけれどね」

旦那様が私たちに下がるよう命じ、私たちはそれぞれ別のお客様のところへ向かう。ちらちらと伺ってはいたが、やはり悪酔いで知られるフリードリヒ、今夜も一筋縄ではいかなかったようだった。都会ロータの店とはいえ、場末の小さな酒場では集まる客の種類も、悪い意味でそれなりのものになってしまう。
喧嘩を止めようとしたらしい青年に、フリードリヒと、彼と争っていた男の手が伸びる。ギャラリーと化した他の者は、どちらが勝つかだのと、彼らの争いを肴にしてしまっている者もいた。どうせフリードリヒが勝つんだろうよ───私の運んだ酒を口にした客の一人がそう呟いた。だが、事態は皆の予想を大きく裏切る形で終結することになる。
フリードリヒの拳は軽くいなされ、彼の巨体は店内の広まった所へと転がった。次いで青年に掴みかかった男もまた、足をかけられフリードリヒの上に倒れこむ。
なんとものの数秒で、迷惑の代名詞たちが無力化されてしまったのであった。

「よくやった!」

ギャラリーが沸き、気前のいい他の客が口笛を吹く。雰囲気に圧倒されたのか、それとも敵わないと悟ったのか、争っていた二人は金だけ置いて弾かれたように店を飛び出していった。自らしかけることもなく、ただ向けられた力をいなしてその場をおさめた青年は、口笛の男に迎えられ盛り上がるお客の輪に放り込まれる。

「ねぇ、今夜はついてるんじゃない?」

ルイーズが嬉しそうに私に声をかける。日頃密かに恨みを募らせていたフリードリヒが投げ飛ばされたのと同時に、私の心も軽くなっていた。
その日はその口笛の男の集まりが明るく店を盛り上げてくれて、いつもと変わらず忙しくなったが、しかしその忙しさは心地の良いものだった。
───もっとも、その忙しさゆえに、あの青年に庇われたお礼を言うことができなかったので、それだけは気まずかったのだけれども。
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