そうして思い出されるのは
それからフリードリヒはよっぽど懲りたのか、あまり店に姿を見せることはなくなった。現れても、少しばかりの酒を飲むとすぐに帰るようになったのである。ルイーズが言うには来店の頻度はそこまで高くはなかったらしいあの青年が、あの晩以来、フリードリヒに代わってそこそこ頻繁に顔を出すようになったためだった。
職業もなにもわからないが、どうやら彼の腕っぷしはなかなかのものなのだろう。軍人か何かだろうかと口笛の男───靴屋のヘルフリートが言っていたが、彼は軍人にしてはあまりに丁寧で穏やかな話し方をする人だというのが私の彼の第一印象であった。
「君、怪我はなかったか」
なにせ彼は───あの一件より前からもしかしたら私も顔を会わせていたのかもしれないが、あんな出来事がある前はたくさんいるお客様のひとりだったので、それまでは顔を確かに覚えていたわけではなかったのだ───きちんとした二度目の対面をするなり、私がお礼を言う前に、私の怪我を案じるような人だったのだ。彼は、あまりに軍人のイメージとはかけ離れていた。
だが少ししてから知ったことだが、ヘルフリートの考えは当たっていたようで、彼は軍人であったらしかった。そんなに偉いわけでもないが、と彼は言っていたが。しかしそれがまた二度目の強い印象となり、彼は私の意識のなかに大きく深く刻まれることになる。
「あら、アーロン様、またいらしてくれたんです?」
気前もよければ、ちっとも酒癖も悪くない。むしろ酒に強いらしく、明るく話すことはあっても怒鳴ることもなにもない。加えて言うのなら「お得意様の軍人」という肩書きのためか迷惑な客の来店頻度を下げることにも一役買ってくれた彼は、あの一件以来すっかりうちの店の一番のお得意様になっていた。
「ほら、近頃は忙しくてな。酒でも飲まないとやってられないんだ」
「戦争、あんまり具合がよろしくないみたいですからね。軍の方はやはり大変ですか…」
「ああ、……我々は暇なくらいで丁度いいんだが」
「旦那様に、少しつけて頂けるようお話してみますね。いつものお礼ですもの、きっと喜んで首を縦に振ってくださいますわ」
優しい彼の元へお酒や料理を運ぶのは、とても気持ちの良いものだった。むしろ帰ってしまう時が少し寂しいとさえ感じてしまうほど。透明で形のないこの気持ちは、静かに私の胸の奥で育っていった。それを認めてしまうのが怖くて、私は気づかぬふりをしていたが。
「シャーロット、頼まれてくれないか」
「はい、何でございましょう?」
「君…踊りは出来るかな」
名前が呼ばれて駆けていけば、アーロン様が眉を下げながら私に問いかけた。
彼を気に入ったらしいヘルフリートとその友人たちが、先に出来上がっていたためか歌を歌い盛り上がっている。笑い声と陽気な酒歌に合わせ、踊る者、手を叩く者は次第に増えていく。酒場の花だろうと言われ踊らされていたらしいルイーズが、私に駆け寄りバトンタッチを言い渡したのである。
楽しそうに他のお客様と話しているところは見たことがあったが、彼は踊りなど出来るのだろうか。少なくとも私には出来ない自信があった。職歴も長く器用なルイーズとは違って、私はチーズ作りしか知らぬ田舎臭さの抜けきらない出稼ぎ農民なのだ。
「荷が重いです」
「まあ、何とかなるだろう。私も自信はないが、リードくらいはしてみよう。一緒にやってくれないか?水をさすのも皆に悪い」
「アーロン様が、そう仰るのなら…」
旦那様まで楽しそうに賑わう店の様子を見守っている。ここでへまをするわけにはいかないと思うと、異が痛む気がした。せめてへまをするにしても、失笑を買わない程度にしなくてはならない。それか、笑いを買えるようなへまにしなくては。意を決して、差し出されたアーロン様の手をとって、輪の中心へ飛び込んだ。
そこからの数分間は緊張のあまり頭が真っ白で、ただひたすらにへまをしないようにと考えていたために、面白かったかと言われれば何とも言えない。しかし彼のリードのおかげか失笑を買わずには済んだようで、それだけが私の痛む胃をなだめてくれた。
「上手いじゃないか!」
「ようやく一人前なんじゃないか?」
「巧拙など分からぬほど、ダンスなどは疎いのですが…そう言っていただけてようやく息がつけました」
苦笑する私に、よくやったと馴染みのお客様方が声をかける。それにほっとして、ようやく笑ってアーロン様にお礼を述べることができた。旦那様もその日はサービスにと店のお客様方に少しだけ多目にお料理を出してくれたりして、ダンスが終わっても私の胸はまだ、軽やかに跳ねている気がしていた。
「アーロン様が来てくださって、本当によかった」
「何、私は少しリードをさせてもらっただけだよ。頑張ったのは君だ、シャーロット」
「いえ。アーロン様のお陰ですわ」
君もどうだと言われて、少しだけワインを頂いた。彼の隣に腰かけてこんな風にゆっくりと話したことは、あまりなかった。ないわけではなかったが、私たちは忙しく立ち回らなければならないので、ダンス終わりの小休止とばかりに、こうしてお喋りを楽しむ時間が出来たのは久しぶりのことだったのである。
「こちらこそ、可愛いお嬢さんと踊れて楽しかったよ。近頃はあまり気分が晴れなかったから、今夜は本当にいい夜になった」
「……お仕事が大変ですか」
軍人が忙しくなる、それはすなわち、戦況の悪化を意味する。貧しい農村に生まれ育った私は文盲であったので、新聞などは読めやしないが、それでも近頃の戦局の悪さは肌で感じていた。もしもロータが戦火に焼かれることになったらと、今までなら考えもしなかったような悪い考えがたまに頭をよぎっては私に鳥肌をたてさせている。故郷の家族の安否さえもわからずにいることが、気味の悪い寒気を煽っていた。
「ああ、そうだ。…君はどこの出身なんだ?」
彼は私の問いには答えず、ワインを一口飲むと、明るい声で逆に私に問いかけた。
「私ですか?私はここよりうんと北の、山間部にある小さな農村の生まれです」
「では、その故郷は、どんな所か聞いてもいいかい」
「田舎ですよ。聞こえてくるのは川のせせらぎと、羊飼いの羊たちの声、それから子供たちの声くらいです。この街のような明るい騒がしさとは無縁の、派手なお店も何もない、静かな村です」
「素敵な所じゃないか。そんな所にシャーロットと二人で暮らせたら、どんなに良いだろうね」
「…アーロン様?」
「好い人と二人で、静かに平和に暮らせたら、それに優る幸せはないと思わないか?」
宝石、土地、金。そういった値段のつけられる富には、果たしてどれ程の価値があるだろうか。いつだったか彼がぼやいていたそんな言葉を思い出した。私はその時、「食べていくにはお金が要ります」という夢のない答えをしてしまったのだけれど、しかしそれでもそんな平和に憧れないわけではない。
「そんな風に過ごせたら、素敵ですね。この戦争が終わったら、私もそんな風に幸せになれるかしら」
「なれるさ、きっと。…お前さえよければ、私がシャーロットを幸せに出来たらと思うよ」
戦争が終わったら。仕送りをしながら貯めたお金で何をしようかと考えたことは何度もある。私はたくさんいる兄弟のなかでは下から数えた方が早い生まれ順であるし、女であるので相続には無縁だった。加えて言うなら、身分のこともあって、貴族のお姫様のような期待をかけられてもいない。だから私はこんな遠く離れた所に出稼ぎに来た以上、死ぬまでロータで働いて、故郷へは帰らずに、ここに骨を埋めるつもりでいた。
しかしそんな言葉をかけられては、寂しい決意がじわじわと崩れてしまうのに、時間はかからなかった。
「…でもそれなら私、あなたの故郷に連れていって欲しいです」
「私の故郷に?…そうだな、それも良いかもしれない」
ワインの絞りかすに水を通したものや、バターを作るときの上澄み液、あるいは水にお酢をいれたワインもどきしか飲んだことのないような貧乏人の舌には、本物のワインはあまりに刺激が強かった。
芳醇なぶどうの香りは心までもを酔わせてしまって、透明で輪郭を持たなかった、持たせてこなかったこの気持ちに名と魂を与えてしまう。ひと度かたちを得たこの気持ちは、恋というにはあまりにも育ちすぎていた。
「君と一緒に生きていきたい」
だから、そんな言葉に私は二つ返事で頷いてしまったのだ。あまりに身分が違うのだから、傷つくことになることなんて目に見えていたというのに。