あなたがに贈ってくれた


それからは二人で出掛けないかと、たまに声をかけられるようになった。彼がお得意様であったこともあってか、旦那様にもさして咎められることもなく、声をかけられれば私たちはあちらこちらへと出歩いた。ルカリオという、彼の弟子であり友人でもあるという方とお会いしたりもした。アーロン様にはお世話になっていますと声をかけたときに、誇らしげな顔をしていたのがとても可愛らしいお弟子さんだった。

「……ねえ、今、何て?」

あまりにも私は幸せになりすぎていた。あまりにも、毎日が順風満帆すぎたのだ。幸せとは人を盲目にするのだと、知っていたはずなのに。だから私の心の目がとうに光を失っていたのだということに、私はその時まで気づけなかった。過ぎた幸せに酔い果て盲目になったこの心は、神様が時に悪魔のように残酷になることへの警戒を忘れていた。

「お前とのことは遊びだった。本気にされるとは思わなかった。だから、もう終わりにしようと。そう言ったんだ」

人生なんてたいして良いものではないのである。昔、お隣の、子供に恵まれなかった夫婦がようやく授かった子が流行り病であっけなく天に召されてしまった時のように。生活が際立って苦しいときに限って税率が上がるように。全てがうまくいっているように思えるときを、神様の顔をした悪魔は静かに静かに狙うのだ。
そんな簡単なことを忘れさせる幸せなんて、私には元から過ぎたものであったのだろう。その器にそぐわぬものは、得てして不幸を呼び寄せるのが世の理であったのだ。
彼の言葉とその態度を照らし合わせるうち、悪魔が陰から私を嗤っているのがわかってしまった。全てを悟り、私は運命を呪わざるを得なくなった。

「これに懲りたら、その愚かさは直すべきだな」
「…あなた、どこへ行ってしまうの?」
「話を逸らないでもらおうか。お前との関係はこれでおしまいだ。酔った勢いだったんだよ。本心じゃなかった。誰でもよかったんだ」
「ねえ、答えて。答えてください。あなた、何をしようとしているの、アーロン様?」
「───お前のことなんて、初めから好きでもなんでもなかった!」

まだ朝靄が晴れきっていない時間、いつものように店の前を掃除しているところに彼は突然やって来た。
そして、いつも私を尊重してくれる優しい彼とは思えないほど、彼は強い力で強引に私を店の前から引きずり出したのである。連れてこられたのは、店の目と鼻の先にある、小さな広場だった。朝が早いこともあってまだ誰も人がいない、私たちのいつもの待ち合わせ場所。
そうしてそこで告げられた先の言葉。それはあまりにも痛々しくて、悲しかった。言葉そのものを額面通りに受け取ったためではない。───その言葉の真意に気づけぬほど、私は愚かではなかったようだった。
いや、違う。私が愚かではなかった、というだけではない。彼は、あまりにわかりやすい人だったのである。

「ええ。わかりました。わかりましたわ、全部…全部、しっかり、わかりました」
「なら良かった。もう会うことはない。せいぜい、その身に見合う男を探すことだ」
「もちろん、そうしますとも。ねえ、あなたなんて、大嫌いよ。ずっと…憎んでやるわ」
「そうか。…なら、いい」

帽子を目深に被って、彼は最後まで私を見なかった。私はまっすぐ、彼を見ていた。だから視線は一度だって合わないままで、私もまた、握り締めた手をほどいて彼をはたくなんて出来ないままだった。彼は話を終わらせるとすぐに私へ背中を向けて、足早に去ってしまった。
私はその背を見送りながら、彼の大声を聞き付けてやって来たルイーズの胸で泣いた。もうひとりの姉のような彼女は、私とは違って、彼の言葉を額面通りに受け取ったようで怒っていたようだった。
「ルイーズ、違うの。彼、いつも通りだったのよ」
「シャーロット、何がいつも通りだって言うの?あんな酷いことを言われておいて」
「いつも通りだったわ…今時珍しく、素直で、嘘がつけなくて。いつも通りに…優しすぎて、いっそ哀れな人」
「…私には、シャーロットが哀れに見えるけれど」
「違う。それは違うのよ、ルイーズ。あの人ね、嘘をつかない人だから、いつも人の目を見て話すのに…下手な嘘をつくときだけは、絶対に目を見て話さないの」

ねえ、あなたなんて、大嫌いよ。ずっと憎んでやるわ───彼は私にそう言われることを望んで、今日この言葉を言いに来たのだろう。

「もうあの人は帰ってこない。文字通りに…永遠に帰ってこなくなる。だから今日、お別れに来たのよ。私にわざわざ、私を幸せにできなかったことを、謝りに来たのよ。そして、それでも私を好きだと、だから誰かに幸せにしてもらいなさいと、私に言ってくれたのだわ」

私を心から幸せに出来る人なんて、きっと生涯、あの人しか居ないのに。これから先、彼を失った私の人生に待ち受けるものなんて、過ぎた幸せを埋め合わせる分の不幸でしかないのだろうに。彼はその不幸にせめて、お釣りが来るようにしてくれた。

「いっそ哀れで、愚かなほど、真っ直ぐな人。でも気づいてくれたかしら。その素敵な愚かさを、今日はどうか発揮しないでくれたらいいわ。私、彼の期待通りに振る舞ったけれど…その、彼の期待通りの言葉まで、額面通りに受け取らないで欲しいものね」

───数日前に人づてに聞いた話では私の故郷は、ぼろぼろらしい。戦争のあおりをうけて、貧しかった村は、目に見えない戦火に焼かれてしまった。不況という炎は、痩せこけた土地を焼き払うには十分だったらしかった。きっと家族は、遠い親戚の居る村かどこかへ散り散りになったことだろう。戦争は、私の帰る場所も、家族も、たったひとりの愛した人も奪っていったのだ。

「……誰が悪いわけでもなかったのね」

私より静かで透き通るルイーズの声が、しくしくと痛む心にじわりと染みていく。彼女に手を引かれて、がらんどうの店内に戻った。いつも彼が座っていた席の隣に座って、私は泣いた。

「そう。誰が悪いわけでもなかったの。きっと悪かったのは、時代と、それから…運かしらね」
「……あなたを信じるわ。彼もまた、きっと今ごろ泣いてるのでしょう」

これから先のことがどうなるかなんてわかるほど、私たちには学がない。何が起きてもしっかり生きていけるほどの金も身分も人脈も、なにひとつ私たちは持ちあわせてはいない。しかし、確かにここに生きている人間として、私たちはものを味わう舌を持っている。
ルイーズが注いでくれたのは、私の舌に馴染んだ、ワインの絞りかすを通した水。私を酔わせるのにはそれで十分なのだ。本物のワインの幸せな味は、その深い香りのように麗しい過去の傷をえぐってしまう。お酒の正しい飲み方は、飲まれぬ程度に飲むことである。そして、少し上がった気分のままに、言いたいことを言えたなら上出来だ。

「止められたらよかったのに。私の手で止まってくれるほど、彼が使命にひたむきでなければよかったのに」

微かなぶどうの香りが鼻をぬけて、熱い涙が次から次へと溢れては零れていく。私の頬をなぞるルイーズの荒れた手は、彼の手とは比べ物にならぬほどに華奢だった。
私たちは生きている。これからも多分、生きていくのだろう。きっと彼のいない世界で、私は生きていかなければならない。思い出を抱き締めて、まぶたの裏の幻を追いかけて、たまにお酒に泣かされながら。
私はきっとそうやって、これまでの過ぎた幸せのぶんに、一生をかけて不幸で支払っていくのだ。残された記憶がお釣りになるのだと信じて。
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