幾度となくってくれた


古ぼけた狭い部屋に繋がる小さな扉。三度のノックをして、入るわよ、と声をかける。前までは「どうぞ」という声が聞こえ、内側から扉が開けてもらえたのだが、最近はそうもいかないのが悲しい。

「具合はどう?…寝ていたのかしら」

カビ臭く狭いこの部屋はかつて、物置だったらしい。つまり人が住まうための環境ではないのだ。ぼろぼろのベッドと小さなテーブルと椅子だけが置かれたこの部屋は、体が凍ってしまいそうなほどに寒い。これでは、治るものも治らないだろう。

「ああ、ルイーズ…」
「…頼まれてたもの。出来たわよ。ね、一緒に見ましょう?」
「ごめんなさい……ありがとう」

ベッドに横たわる、実の妹のように可愛がってきた元同僚であり、友人のやつれた姿に私は思わず顔を歪めそうになった。そんな顔をしては、心配性のこの子は「大丈夫か」と聞いてくるだろう。一番心配されるべきは自分自身だというのに。無理矢理明るい顔をつくって、ベッドの脇の椅子へと腰かける。

「体の調子はどう?」
「今日は、少しいいわ」
「咳は出る?眠れているかしら」
「それなりにはね」
「熱は……うん、あるけれど、かなり高いってわけでもなさそうね」

あの戦争が終戦を迎えてから、十年と少しという歳月が経った。戦後の不況はなかなかに悲惨で、仕事にあぶれるものも決して少なくはなく───私たちもまた、その一人となってしまったのだった。
私たちがかつて働いていた酒場も店仕舞いという形になってしまい、私たちは旦那様の元を去ることになったのだが、幸運にも私は店の常連であった客の一人と結婚をし、なんとか拠り所を得ることが出来た。だから私は今もこうして、決して裕福ではないものの食べるものや寝る所に困る生活はしていない。しかし───シャーロットは別だった。
時代が時代だったので、以前よりも過酷な労働に従事せざるを得なくなったのだが、彼女は文字通り命を削って働く生活を送ることを選んだのである。私と同じように、誰かと結婚することも出来たはずだったのに。男性に好意を寄せられたりもしていたのに。彼女はその愛に応えることはなかったのだ。
その結果シャーロットは過労から病を患い、床に伏すことになった。そうして今ではわずかな貯金を切り崩しながら、なんとか確保できたこんな部屋で残りわずかな余生を送っているという有り様なのである。
───どうして、そんな道を選んでしまったの?
その答えを知っているからこそ、私は、彼女の意思と選択にやり場のない悲しみとやるせなさをもて余していた。

「……ねえ。うちに来なさいよ。部屋はひとつ余ってるって前にも言ったでしょう?夫も、あなたなら喜んで家に置くと言っているわ」
「それは、だめ。あなたに何かあったら大変だもの」
「お願いよ、こんな所にいたら、治るものも治らないでしょう」
「あのね…ルイーズ。私…出来ることなら、あなたにここへだって来てほしくないのよ」
「……わかったわ」

このやり取りをするのは何度目だろうか。初めにこの話をしたのは、もう大分前である。かれこれ一年位は誘いを続けているのだが、彼女は決して首を縦には振らなかった。
彼女の病は、有効な薬のないものである。決して珍しい病ではないが、かかれば最後、死ぬのを待つだけの残酷な病だ。たまに栄養状態を良くしてゆっくり休んでいれば治る者もいるだなんてことも聞くが、それでも、この病と言えばついて回るのは静かで強烈な「死」のイメージである。だから私は最期の日くらい、暖かい部屋で、少しでもおいしいものを食べさせてやりたかったのだ。
しかし何度声をかけても、彼女はここで死ぬとしか言わないのである。こんな惨めな部屋で、たった一人、死んでゆくその日を待つと。苦しそうに眠る彼女の姿を見守りながら、こんなのはあんまりじゃないかと、何度泣いたことだろうか。

「ああ、いけない。私今日は、これを届けに来たんだったわ」

痩せ細った白い手はまだ、暖かい。この手がまだ暖かいうちにこれが仕上がってくれて本当に良かった。綺麗な箱に包まれたそれを、彼女に見えやすいように広げる。

「見て。とっても素敵よ!」

馬車馬よりも酷くこき使われ、奴隷のように働いて、その命を金に変えてまで彼女が望んだものが今日、ようやく仕上がったのである。彼女の血の気のない頬に少しだけ紅がさしたのを見て、私は目頭が熱くなるのを必死で堪えた。

「…本当に、素敵」
「きっと似合うわよ」

ルイーズ、お願い、仕上げを手伝って───熱にうなされながら、彼女が作りかけのドレスを渡して涙を流したあの日が思い出される。命を削って買った美しい布は、ドレスになるまであと一歩のところだった。本当なら全部自分で作るはずだったらしいが、仕上げをするほどの気力はすでに彼女の体には残っていなかったらしい。
私に支えられながら起き上がり、ついに完成したドレスを腕に抱く彼女の瞳は、穏やかだ。

「ルイーズ」
「なあに?今から着る?」
「違う…あのね、ルイーズ。私が死んだら、これを着せて欲しいの」

───ああ、やっぱり、そうか。
言葉にはしていなかったが感じていた予感じみたものが当たってしまい、私は言葉に詰まってしまった。すぐに答えれば薄情な気もして、何て言えばいいのかわからない。いったい全体、胸に留まるばかりのこのやるせなさは、誰に向ければいいのだろう?

「あの時は、ああするしか…だから、全て仕方のないことだったけれど。でも彼、きっと気に病んでると思うのよ」

ふと遠くを見るような目をして、彼女はすきま風の吹き込む小さな窓の向こうを見つめた。どんよりとした分厚い雲におおわれた灰色の空からは雪がちらついていて、冷たい風に窓枠はがたがたと揺れている。まだまだ春は遠そうだ。

「だから私、仲直りをしなくちゃいけない。…それに、久し振りに会うのだもの…おしゃれをして会いたいの。こんなに痩せてしまったし…あの頃より年もとってしまったし」

ふふ、と彼女は笑った。本当に、今日は少しは具合は良いらしい。彼───アーロン様のことになると彼女が饒舌になるのはいつものことだが、ここまで楽しそうに長く話しているのはあまりにも久し振りだった。

「彼なら、あなたがしわくちゃのおばあさんになっても気にしなさそうだけど」
「……ねえ、彼、誉めてくれるかしら」
「誉めてくれるわよ。あなたが一生懸命働いて手に入れた、こんなにも素敵なドレスなんだもの…」

私たちが今よりも少し若かった頃、あの酒場で働いていた頃。迷惑な客を追い払い、田舎から出てきたばかりでまだ右も左もわからないような娘だった彼女を見初めてくれた、あの優しい青年の姿を私もよく覚えている。
彼は真面目で、ひた向きな人だった。その真っ直ぐさのために命を落とし、英雄になってしまったほど。全てを知ってから、彼の想いの深さに私まで涙したものだ。
死ぬことをわかっていた彼は、彼女の傷を少しでも浅くしようとして、手酷く彼女を振ったのである。それは彼が亡くなる前日のことだった。
なんと深く、哀しい愛情だろう。あの青年のことだ、きっと最後の最後まで悩んだに違いない。もっとも、ひどい男になることでシャーロットの幸せを願うという彼のその目論みは、彼女にはすぐにわかってしまったようだったけれども。

「ルイーズのお墨付きなら、心強いわね」
「…でもまだ会いに行っちゃだめよ。せめて春、出来れば夏まではね。久しぶりの再会なら、こんな寂しい季節より、美しい季節にするべきだわ」
「ええ……そうね、それもそうね」

他の人に幸せにしてもらえと、そう彼は言ったらしい。だが、彼女はそんな幸せには目もくれずにここまで命をすり減らしてしまった。激動の時代に刻まれた初恋は、うぶな田舎娘の心に刻み付けるにしてはあまりにも鮮烈すぎてしまったようだった。

「ルイーズ、そろそろ帰らないと」
「まだここにいては駄目かしら?」
「だめ、早くこの部屋を出てちょうだい。あなたに何かあったらいけないわ。……今日は本当にありがとう」
「きちんと寝ているのよ、少しでもいいから水は飲んでね」
「ええ。ありがとう」

ドレスを、ベッドに横になりながらでも見える位置に壁に掛ける。シャーロットはその様子をじっと見つめていた。何よ、とおどけるように笑っても、彼女は薄く微笑んだまま答えない。

「ルイーズ……ほんとに、ありがとう」

ドアを閉める直前、シャーロットは少し咳き込みながら、そう呟いた。答えを必要としていないかのような口ぶりだったのを覚えている。この言葉が、私が聞いた彼女の最後の言葉になってしまったからだ。
翌日、彼女は春を待たずにこの世を去ってしまった。
まるで十数年後に自分が死ぬことを悟っていたかのようにその命を削ってまで用意した、自らの黄泉の旅路に着てゆく花嫁衣装と、いくつもの思い出を残して。
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