あなたの尊い真心ばかり
切り立った崖、険しい山道、寂しい獣道。薄暗く、霧のけぶる悪路をどれ程歩いてきたことだろう。進むことを諦めてしまえば、その険しい道のりにも、一縷の望みに焦がれるこの胸の切なさにも、別れを告げられるのかもしれない。しかし、今もなお忘れられない愛しい人との短くも美しかったあの日々が、この両足を休ませることはしなかった。
「…ああ、見てごらん、ルカリオ」
朝靄の中に朝の光が差し込んで、たちこめる空気が薄ぼんやりと黄金に光り、眼前に広がる草原は朝露に濡れ、細く流れる小川の水面は朝日に煌めいている。古ぼけた小屋がひとつ、川のすぐ近くに建っているが、ここにはたして人は居るのだろうか。あまりに人気が無さすぎて、寒村と称してよいのかもわからないが、しかし美しい光景である。
「綺麗な所ですね」
「ああ。静かで、いい所だ」
傍らを歩く従者と共に、小川にかかる橋を越える。川のせせらぎが耳に心地よい。川を越えて少し歩くと、小さな畑と古家、そして紫の花が咲く丘が見えた。近づけば、風にのって流れてくるラベンダーの芳しい香りが感じられる。
ふと、その光景に、かつての記憶が呼び起こされた。
「シャーロット…」
「…どうかしましたか、アーロン様?」
「シャーロットが…あの子が言っていたんだ」
探し求めるシャーロットの姿が、閉じたまぶたに鮮明に描かれる。彼女は、あの日、何と言っていたのだったか。いつか聞いた、彼女の故郷の話だ。
───田舎ですよ。聞こえてくるのは川のせせらぎと、羊飼いの羊たちの声、それから子供たちの声くらいです。この街のような明るい騒がしさとは無縁の、派手なお店も何もない、静かな村です。
素敵な所じゃないかと誉めた私の言葉に、彼女は何と続けていたのだったか。いや、違う、あの時ではない。また別の日だ。あの後もたまにお互いの故郷について会話を交わしていたが、その時に彼女が言っていたことは何だったか。
───家から少し歩くと、紫の花が咲く丘があって。私、小さい頃はよくそこで遊んでいたんです。ああ、懐かしい。もし帰れる日が来たのなら、またあの花畑に寝転んで、のんびり昼寝でもしてみたいです。
そうだ、彼女はこう言っていたのだった。郷愁に少しだけ瞳を潤ませながら、シャーロットは静かに夢を語っていた。それが哀れで、そしていつの日かその夢を叶えさせてやりたくて、私は彼女の細い肩を抱いてやったのだ。
「ルカリオ、走れ、きっとあそこだ。あそこにいる!」
ここは何処なのだろう?何度も考えたが、その答えはわからなかった。確かに命を落としたはずの私がまた、こうして息をして旅をしている。それもどこか懐かしい風景を、いつか望んだ夢を投影したかのように、一番の親友と共に。噂に聞く天国のような天使たちの姿は見られないし、地獄のように恐ろしい場所でもない。そんなこの場所の名前はまだはっきりとはわからないままだが、その疑問の答えが少しだけわかった気がした。
「シャーロット!」
息を切らしてラベンダーの花のところまで駆けてゆく。一番手前に広がる花畑は小さなものであったので、すぐに探し求めた人の影は見つかった。予感というには確信に近いこの感覚は、どうやら間違いではなかったようだった。花畑の真ん中に、シャーロットは心地良さそうに眠っていた。
シャーロット、シャーロット、シャーロット。何度も呼び掛け肩を揺さぶれば、そのまぶたがぴくりと動いて、ぼんやりとした瞳が私たち二人を映す。
抱き起こされた彼女は数回瞬きをすると、きょろきょろと辺りを見回した。
「あら、懐かしい……懐かしい場所……懐かしい人」
ずっと聞きたかった声が、甘く優しく、耳の奥に響く。ずっと恋しかった温もりが、腕の中におさまっている。どうしてかしら、と呟く不思議そうな声に、心が震える。
「ああ、ようやく…ようやく会えた」
───アーロン様。
あの日々の続きのように私の名を呼ぶと、彼女は穏やかに微笑んだ。そして薔薇色の頬に涙が一筋伝ったと思いきや、彼女は少しだけ声をあげて細い肩を震わせる。
どれほど頑張って仕立てたのだろうか。綺麗なドレスに身を包んだシャーロットは、思い出の中の姿よりもうんと美しい。胸に顔を埋めたままの彼女の背中に腕を回した。
ずっと話したかった。ずっとずっと、会いたかったのだ、彼女に。あの日のことを謝って、それから、愛していると伝えたかった。何年経ったことだろう。私たちは、どれだけの間離れてしまっていたのだろうか。それさえもわからぬほど、私は彼女と離れてしまっていた気がした。傍らの親友が、嬉しそうに私たちを見つめている。焦がれたその瞬間がようやく巡ってきたのだと、ようやく実感が追い付いた。