春の足音は未だ遠く
日の出と共に起き、汚れ物を桶に入れて洗濯へ出る。これが数あるうち、一日の一番始めに行うべき私の仕事のひとつだった。重たい体を起こして、重たい桶を抱えながらまだ寝静まっている街を駆けていく。山の麓にある清涼な小川が、私の朝の仕事場だ。この小川はあまり人が来ないので、静かで心地よかったのである。わざわざここまで来て洗濯をするのは、ひとえにこの場所を好ましく思ってのことだった。「やあ、先日は世話になったな」
ふと、後ろから声をかけられて振り向いた。振り返った先には、一人の若い男性。それは忘れもしない、迷惑なお客様から私を庇ってくれたあの方だった。
慌てて立ち上がり礼をすれば、彼は驚いたようにそこまで固くなるなと言う。こちらこそお世話になりましたと伝えれば、彼は目を細めて微笑んだ。
「こんなに朝早くから仕事か?」
「はい。洗濯は私の仕事のひとつですから」
身分の低さを露呈しているようで気恥ずかしかったが、事実そうであるし、何よりこんな桶を傍らに置いていれば一目でわかることだ。うちの場合はあの小さな居酒屋はおまけのようなもので、私の場合なんかは宿屋の仕事の方が多いのである。たくさんのシーツや布巾を真っ白にすることは、身分の低い者のするようなこととはいえども、しかし大事な仕事のひとつだった。
「働き者なんだな、シャーロットは。最近は朝も冷えるのに」
「ふふ…早起きは、嫌いではありませんので。ほら、ここは静かで良いところでしょう?」
「ああ、それは同感だ。しかし…それにしても、ここからあの店までは結構距離があるだろう。どうしてわざわざこんなところまで来ているんだ?」
「それは……」
学がないからか、それとも単に、私がとろいせいか。どうにもとっさに続けるべき良い言葉が思い付かず、私は閉口してしまった。わざわざここまで来る理由。それはここが好きだからという理由以外にも、もうひとつ、言いよどんでしまった理由があったのである。
視線をどこに向ければ良いのやら困ってしまって、私は手元のまだ濡れたままの布巾に目を落とした。こぼれたワインでも拭いたのか、こびりついた汚れと格闘するふりをして。小川の水面が、朝日を浴びてきらきらと小刻みに揺れていた。私の心とは裏腹に。
「シャーロット?」
隣に座った彼は、私の言葉を待っている。耳を澄ませれば、彼の呼吸の音さえ聞こえてきそうなほど、ここは静かだ。朝露を含んで澄んだ空気を胸いっぱいに吸いこんでみる。やっぱり嘘なんて、つくもんじゃないな。あんまり空気がきれいなもので、下手な嘘をつこうとする気は失せてしまった。
「親しくしてくれる人が、居ないわけではありません。でも……私、器量が悪いせいかしら。一緒に働く人たちに、お叱り以上の言葉を受けることが、多いのです」
「そうか、そんなことが…」
「手が荒れていて良くないので、お客様に嫌な思いをさせるだとか。そんなことを言われても、私の仕事は水を使うことばかりですのに」
掃除にしても、洗濯にしても、皿洗いにしても、全て水を使うことは避けては通れない。ここのところ冷え込んできたせいか、私よりも前からここにいる人たちは、私に仕事を持ってくることが多くなっていた。ルイーズなんかはそんな私に気がつくとよく手伝ってくれたし、嫌なら嫌と言っても良いのだと言ってくれるけれど、そんなことをしては後が怖い。
黙って耐えている方が、上手くいく。残念ながら、私の頭はそうやって行動するように、ずうっと昔から決めつけてしまっていた。
「仕事の始まる前の朝くらい、一人で…心静かに過ごしたくて。だから早起きをして、ここまで足を伸ばしていたのです。…どうかこのことは、ご内密にお願いしますね」
「もちろんだよ。私と、シャーロットだけの秘密だ。それに、ほら。こんなに良いところは、あまり他人に教えたくはないからな」
今日からここは、二人だけの秘密の場所だ。彼はそう言って、まるで少年のように明るく笑った。お城で女王様にお仕えする彼は、私なんかとは比べるまでもなく、身分も何も全てが遠くの人であるのに。アーロン様、そうお名前をお呼びしても、彼は決して私のことを蔑むような目でみたりなんかしなかった。
「ひとつ、お尋ねしても、よろしいでしょうか」
「どうした?」
「アーロン様は、なぜこちらへ?城はもっと向こうではありませんか。お弟子さんとの修業ですか?」
「ああ、確かにこの近くで修業はしているが…これは単に、朝の散歩だよ。私自身の修業ついでに」
「そうでしたか。この辺りで…」
アーロン様は私が洗濯をするところを見ながら、洗濯が終わるまで、よく世間話をしてくれた。城の話や、彼が旅をして見たことについての話、お弟子さんの話。なんてことないありふれたようなことでも、彼が話して聞かせてくれることは、何故だか私の胸を踊らせたことを覚えている。
そうして別れ際、あの小川では初めてばったりと顔を会わせた日───私の弱音を聞いたからか、彼はこんなことを言ってくれたのである。
「私の体には戦場を偵察しに行ったり、修業をしたりするなかで負った、多少の傷がある。ほら、腕のここなんか…もう大分薄くはなったが、引っ掻いたような傷が残っているだろう。……どうだ、シャーロットはこれを見て、嫌な気分になるか?」
「ええと……あまり怪我はしてほしくないなあと思います。それだけです」
「それは…ありがとう。いや、その…だからまあ、周りに言われたことを気にする必要はないんじゃないか」
手袋を外して袖を捲り、古傷を見せた彼は、その手で私の手に触れた。最後の一枚のシーツを絞ったばかりの、私の手に。青い瞳に、あかぎれと細かな傷ばかりの私の手が映っている。きっと城におられるアーロン様は、その目でたくさん、身分の高い女性を見ているはずなのに。そんな人々の手は、きっと傷ひとつなくて、たおやかで白い手なのだろうに。
何だか恥ずかしく、逃げ出したくなって、それでもどうしてかその手を振り払うことはできなくて。一分一秒をうんと長く感じながら、彼の言葉をただ待った。
「私はシャーロットの手を見ても、女性らしい小さな手だとしか思わない。小さくとも、仕事に励む立派な手だ」
手袋越しではなく、直に彼の手が触れている。赤く切れた傷が目立つ私の手に。優しい言葉と、直接伝わる彼の体温が、私の体全てを熱くした。恥ずかしいような、嬉しいような───よくわからない気持ちが胸のなかで渦巻いて、浮かんだ言葉を次々と白く塗りつぶしてゆく。
そうか、これを他人は恋と呼ぶのか───私はろくに返すべき言葉も浮かばぬままに、冷静さを残した頭の隅で、そんなことを考えていた。
そうして結局私はあの時、絞り出したような声でお礼を言うので精一杯で、可愛らしい反応なんて出来なかったのだった。
「……ああ、そうだった…そんなことも、あったわね」
目を開ければ、見慣れた天井が一番に映る。ああ、随分と、懐かしい夢を見ていた。
寒さに目を覚ませば、おはようと言わんばかりに古びた窓枠が北風に揺れて音を立てた。すきま風が吹き込むこの部屋は、どうやら元々は物置だったところらしい。貧民街の片隅の、忘れ去られたようなこの場所は、それでも今は私が住まうたったひとつの家だった。
もう、体を起こす気力もない。咳をするにも体力を使っていることを自覚するような状態だ。喉の奥にはもうずっと不快感がこびりついている。耐えかねて咳をすれば、口許を押さえた手が赤く汚れた。
都会へ出稼ぎに出てくる前、まだ私が三つか四つ位だった頃に死んだ母と、同じ病だ。母もこうしてベッドに横たわったまま、最期はろくに身動きもできなくなって、死んでいった。狭いはずのベッドがいやに広く感じるとぼやいていたと、空になったベッドの前で項垂れる父が呟いた声が今も耳に残っている。
私ももう、長くはないのだろう。見上げた窓の向こうに、ちらちらと雪が舞っている。私はきっと、春が来るまで、生きていられるかどうかだろうな。ベッドの横の小さなテーブルでは、食べ残したスープが冷めている。
枕の側に置いた布巾で汚れた手を拭いて、その手をまじまじと見つめてみた。小さな傷は相変わらずだが、今の私の手は痩せてしまっていて、加えてどうにも血色が悪かった。もしもアーロン様がこの手を見られたならば、彼は何と仰るだろうか。
「せめて、私に出来ることは…長生きすることだと思ったのに」
私より余程嘘がつくのが下手な人だった。根が真面目だから、人の目を見て心にもないことを言うことなんて、逆立ちしたって出来ない人だったのだろう。別れを告げられた私よりも、よっぽど傷ついたような声で永遠の別れを告げた彼の背中は、今もなお記憶に焼き付いたままに私の胸を締め付ける。
彼の命をもらって私たちは生かされたのだから、せめて私に出来ることは、辛くとも生き延びることに違いないと信じていた。ただひたすらにそう信じて、ずっと私は生きてきたのだ。でも今はもう、それも出来そうにない。死後の世界があるとしたら、どうしようか。最近の私の頭を支配するのは、そんな考えばかりになった。
また目を閉じて、左胸に手を当てる。ああ、もしも、天国へと行けたなら。私は何処へでも行ける足が欲しい。ベッドに縫い付けられる毎日には、もう飽きてしまった。
きっと何処かで旅をしている彼を探して、ずっと会いたかったのと、一言そう言えたとしたら。きっと私は、ちょっとくらいは可愛く笑えると思うのだ。