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「君、幾ら?」

密やかな闇の中、ヒトの値段を尋ねるような言葉。その男の声は静かに夜の路地裏へと滴る。"そういう"目的の者達のテリトリーであるが故に。

此処はネオンギラつく不夜城、若しくは眠らない街、等と形容される新宿。H歴ではシンジュク・ディヴィジョンと表記される区画だ。

声を掛けられたらしい少年とも見まごいそうな青年は、背後からの声にゆったりと振り返ると、身形の良い背の高い男を視界に入れ其の端正な顔を甘い微笑みで彩る。そして美しい指先を三本立てた。

「それだけでいいの?」
『早く行きましょう、今夜は僕とずっと一緒にいてください』
「…ああ、勿論だよ。行こうか」

この男性蔑視の不条理な世の中では、女性の価値が余りにも高い。その為、青年のような存在は数多く存在する。その者達の中でも、愛好者の間で密かに噂されるほどの容姿を持つ彼の時間を手に出来るのは一握りの者だけだった。

「何と呼ばれたい?」
『偽名って呼んで欲しいです』

肩より少し長い藤色の髪に、所々菫色の束が入っている。瞳は透き通る灰色。完璧とも言える造形と、天使のようだと良く某掲示板で評されているこの微笑み。シンジュクの偽名と言えば、裏ではそこそこ有名で。

「君を独り占め出来る権利を獲られて嬉しいよ」
『ふふふ、ありがとうございます』

偽名の時間を手に入れる為には幾つかの必要条件があるのだと言う。表沙汰にはなっていないため、詳細は不明だが一夜を共に出来たと言う強者達の外見的特徴を見ていくと、幾つかの共通点が浮き上がるらしい。

『美味しいご飯をご馳走してくれてありがとうございます』
「いや、君の口に合ったなら何よりだ」

ホテル内のレストランで交わされる甘い微笑みと、蜜のような言葉。細身をスーツに包んだ背の高い男は、落ち着きを感じさせる低い声で囁きながら偽名の肩を優しく抱いて進んでいく。

「部屋は15階だよ」
『行きましょうか』

そして二つの影がするりとエレベーターに乗り込んで、消えた。




―――――――




偽名と呼ばれる青年が目を覚ましたのは、夜のお相手が退室する準備をしている最中だった。全裸でシーツに埋もれながら、ゆっくりと身体を起こす。その身は思いの外白く清いままだった。

『もうお出掛けですか』
「ああ、仕事に向かうよ。偽名、昨晩は最高だった。ありがとう」
『こちらこそ、僕もとっても幸せでしたし、約束も守ってくれて、ありがとうございました』
「お礼は此処に。ゆっくりしていくと良い」

男は偽名の頭をするりと撫でて、部屋を出ていく。ベッドからゆるりと立ち上がった彼は、サイドテーブルまで数歩進む。

『5枚…、』

夕食も奢られ、当初提示した額より多くの万札。それに、"唇へのキス"も"キスマーク"も無く優しく愛して貰えた。昨晩の客は間違いなく当たりと言えた。

偽名は時計を確認する。もうすぐ8時だった。そろそろ帰らなくてはならない時間だ。

『今日は何時かな…』

モゾモゾと着替えながら、同居人が夜勤から帰って来る時間を考える。ストライプの入った白地のシャツに黒い細身のパンツを穿く。首もとに十字架デザインの細いチョーカーを着ければ、完成。
サイドテーブル上のお金を頂戴してから部屋を出る。

シャツ一枚で外に出た偽名、―――もとい神嵜静満にとって、朝のシンジュクは少しだけ寒かった。

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