ヰろハ、匂へど(企画)

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【い】(観音坂独歩/男主)ぬるくモブ×主表現


いつもの電車、いつもの車両。シンジュクから通勤快速で15分程の距離を利用する、その鉄の箱の中。スーツに身を包んだ人々が犇めきあう。今日の車内は一段と凄い。ぎゅうぎゅうと押し込まれるがままに、胸元に鞄を抱えて足の爪先が漸く付くか付かないかの体制で、前後に挟まれている。
暑いし息苦しいが少しの辛抱だ、と揺られているとモゾモゾ…と臀部に不可解な感触。始めは誰かが鞄を自分の手元に引き寄せようとしているのかと思ったが、その感触は徐々に何らかの意思を持ち始めた。

『!、?』

突然、なまえの両臀部全体をを揉みしだき、時折足の付け根の辺りを撫で擦る。それは、どう考えても他者の手だった。自分自身の両手は鞄で塞がれている上に、振り返る隙もないため誰がこんな事をしているか判断が付かないのだ。

―――どうすれば…

対応策を困惑する頭で考えるも、浮かばない。今一度出来る範囲で身を捩ってみた途端、

『んっ……、!』

今度は前部分に触れる手が現れた。やわやわと絶妙な力加減で揉まれ、なまえは僅かに熱の隠って来てしまう吐息を洩らす。パニックになりながらも思考を巡らせる。どう考えても臀部にある二つの手とは異なる、新たな人物の手だった。

『ふ、……っ』

別段背が高い訳ではないなまえは前方の人の肩から首筋にかけての所に漸く口元が来る。その人もこの一員なのか、それとも無関係な人なのか分からず、ただただ唇を引き結んで刺激に耐えるしかなかった。
臀部の手が窪みにある窄まりを執拗に弄り始め、前が少しずつ硬度を増して来てしまった頃にはなまえの瞳には涙が浮かび始める。次の駅で何とかして降りなければ、と切に思っていると。

―――まもなく、◯◯、◯◯、お出口は左側です。

『っ!、ぁ…ふっ』

車内アナウンスに希望の光を見出だした途端、前への刺激が強まる。どうやら完全に大きくさせられてしまったらしいソレになまえは羞恥と悔しさと悲しさで赤面するのを感じた。
電車が、ブレーキをかけていく。なまえが居るのは所謂車内の右側。力の抜け始めた身体で、これだけの人を押し退けられるかは不安しかなかった。それでも、と気持ちを奮い立たせて、停車した車内を踏み出そうとする。

『ぅっ…ちょ、』

何本かの腕にそれを阻まれている様で動けない。もたもたしている間も下腹部への刺激は止まない。そうこうしているうちにドアが開き始める。なまえはもはや絶望的な気分になっていた。

『っ…!??』
「っすみません!!」

突然、大きな謝罪の言葉が響き、強い力で腕を引っ張られた。これにはなまえを取り囲んでいた者達も対応できなかったらしく、包囲網から抜け出したなまえは、良く判らないままこれ好機としてその腕に身を任せる。腕を掴む手はスーツを纏うサラリーマンのそれだった。

「すみません、降ります!す、すみません、すみません、…」

恐らくこの手の主なのだろう、勢い良く謝罪を繰り返す声に顔を上げると、赤い髪が目に入った。グイグイと痛いくらいに腕を引かれながらなまえは、漸く電車の外へ出る。
背後で、ドアの閉まるアラーム音に続けてプシュー、と言う大きな音が響く。ホッとしたなまえは全身の力が抜けていくのを感じた。

『――っ』
「えっ、あ、…っと。―――そこのベンチまで、行きますね」

カクッと膝が笑い、転びかける様子を見せたなまえをこのサラリーマンは肩を貸し支えて、示すホームの片隅にある誰も座っていないベンチまで歩を進めていく。
静かな動作でなまえを座らせると、少し待ってくださいねと言って何処かへ去った。なまえはまだ僅かに残る熱を追いやろうと深く深呼吸を繰り返す。

「これ…どうぞ」
『あ…、ありがとう、ございます』

俯いていたなまえは腰を折って覗き込んでくる赤髪の男から差し出されたペットボトルを受け取る。良く知ったパッケージの水だ。何故だか妙にホッとして、手中にあるそれをじっと見つめていると。

「っあ、その、すみません、何を飲まれるか分からなくて――――、ああ…こんな判断も付かないなんて、だから俺はいつまで経っても平のまま…あのハゲ課長に良いようにパシられてパシられて…どうせアイツが死ぬまでパシられ続けて終わるんだ…。気が利かないにも程があるだろホント、こんな万全じゃない人に無理に礼まで言わせて………」

どうやら渡されたこの水に不満があるように見えてしまったようだ。対面する彼は何故か壊れた様に自身に対してマイナスな言葉を重ねていく。それが余りにも独りでに進み深くなっていくものだからなまえは少しだけ怖くなって、声をかけた。

『あ…あの、お水とても有り難いです、本当に…ありがとうございます』
「―――は…はい、良かっ、たです」

存外早く戻ってきてくれた相手の思考にまたホッとして、少しだけ頬を緩める。我に返ったらしい彼は、おずおずと話しかけてきて。

「お…落ち着きましたか?」
『あ………え、と』
「あ、の…すみません、急…に。引っ張ったりして。その…苦しそうだった、から。」
『本当に、ありがとうございました。ちょっと…本当に、困ってたので…とても助かって――あ、良かったら隣、すわってください』
「し、失礼します…」

ぎこちない会話だ。でも、名前も知らないこのサラリーマンの彼は、どうしようもなく優しい様だった。

「通報、とか、しなくて良いんですか」
『……、』

通報、確かに。そう言うこともあるのか、とぼんやり思う。なまえは静かに思考した。この女尊男卑な世界で、男の痴漢被害などどれ程の比重を与えて貰えるだろう。きっと考えるのも無駄に思える程の、それこそ埃のように風で飛ばされていく程度の話なのだ。

「っすみません!!ああ…俺はどうしてこうデリカシーが無いんだ……すみません、…その、貴方の周りを固めていた男達の視線のやり取りが見えてしまって。何だろう、って思ってる内に思い当たって…っ、でも、全然、動けなくて……」
『そう、だったんですね。お気遣いありがとうございます。こうして助けて頂いただけで、本当に。通報とかは、良いんです。多分、ちゃんと取り合って貰えないし』
「そ、…ですか…」

もはやどちらが被害を受けたのか?と言う程に、顔面蒼白にしながら落胆の様子を見せる彼に戸惑いつつ、なまえが視線を落とすと手元の腕時計が目に入る。

『………あ。』

その針は、どうみても社会人を追い立てる数字を指していて。

「はい?」
『時間!大丈夫ですか?お仕事、ですよね遅刻…しちゃ』
「ああ……、そんなことは何も…どうせ俺が居ても居なくても会社は回るし遅刻してもしなくてもあのハゲに怒鳴られるのは同じだし、何も」
『えっ、全然何もじゃない………まだ間に合うかも!どちらまで行かれるんですか?』
「△△駅ですけど…」
『ああ、△△ならまだ………え?△△って通快止まりませんよね?』
「あ、ああ……そうですね。ははっ…寝惚けてると良くやるんです、」

絶句の繰り返し。彼にはどうやら地雷が点在している。先程からそれをつついては小爆発を起こさせてばかりである。

『でも、兎も角次の電車に乗らないと厳しいと思いますし、…宜しければ連絡先を教えて頂けませんか?』
「へ、?」
『いえ、あの。助けて頂いたお礼をちゃんと出来たらと、思って。ご迷惑でなければ、ですが……』
「そんな、お礼なんて…俺にそんな価値は無い、って言うか…」

なまえは少しずつこの彼の扱い方を学び始めていた。何を言っても負のループに身を埋めていくこの人のそれに付き合い続けて行くのは今この時間がない中では難しい。と、すれば。強行突破である。

『――助けて頂いた事の価値は僕が決めますので!!僕は医療法人◇◇会西シンジュクみょうじ病院で働いています、みょうじなまえと申します』

ベンチから立ちあがり、名刺を差し出す。それを受けて弾かれたように立ちあがった彼も、綺麗な姿勢で名刺を受け取り、そして差し出してきた。

「っは、ご、ご丁寧にありがとうございます。頂戴致します…。お、わ私はこう言う者です。」
『頂戴致します――、かんのんざか、どっぽさん?で、お間違い無いですか?』
「は、はい、」

―――まもなく、6番線に快速△△行きが参ります。危ないですので黄色い線の内側でお待ちください。

ホーム内にアナウンスが流れる。タイムリミットだった。

『観音坂さん、今日は本当にありがとうございました。とても助かりました。お名刺頂いたので、またお礼を兼ねて、連絡させて頂きますね。』
「お礼なんて…本当に、大丈夫なんです、けど…」

口ごもる観音坂になまえは鉄壁の微笑みを向ける。電車がホームに入って来て轟音を響かせる。巻き起こる強い風が二人の髪を乱した。

『ではまた』
「……、気を付けて、ください。それでは…また、」

なまえは観音坂の背を見送ってから、自分の勤務先病院に連絡を入れて、次の電車を待つことにした。




****




見事、僅かに定時に遅れて出勤した観音坂は、駆け寄ってきた課長の怒号を覚悟していたのだが―――、

「お、おい観音坂!お前今すぐ、資料持って西シンジュクみょうじ病院に行け」
「へ、は…、はいっ」
「早く!!」

何のお咎めもなく、何の説明もなく、あれよあれよと言う間に観音坂は社用車に飛び乗っていた。

西シンジュクみょうじ病院、それは確かライバル会社が契約をしている病院だった筈だ。そんなところに何故……、いや、考える必要もない。あのハゲがどうせまた何かやらかしたんだ…若しくはハゲのお気に入りのあの女が……。
そうであればお詫びの菓子折りが必要になる。観音坂は駅に程近い早朝より営業している店に立ち寄り、洋菓子の詰め合わせを手に入れてから現地に向かった。

西シンジュクなまえ病院は民間で古くから続いており、評判も良い。一族経営で、つい先日代替りしたばかりだったと記憶している。
車を駐車場に止めて、受付へ。所属と名前を伝えると奥へと通される。

「……??」

受付の女性に着いていくと応接室、と書かれたプレートの扉の元へと案内され、更には中のソファへと促される。恐縮しながら一度そこに腰掛けるものの、案内の女性が退室するといたたまれず、立ちあがり、室内通路の邪魔にならない場所に立ち、先方を待った。

―――コンコン、失礼します

低い声が聞こえて扉が開く。入室してきた人物が観音坂を視界に入れると、驚いたような顔をした。

「お、お世話になっております。◇◇の観音坂です。」
「ああ…まあ、どうぞ掛けてください。弟もすぐに来ますから」
「…?…は、はい、失礼致します」

白衣を着たその人に促され、向かい合ってソファに腰掛けることとなった観音坂は現状把握が出来ず、困惑を強めて行った。

「私は院長をしているみょうじです。今朝は私の弟が大変お世話になったようでありがとうございました。」
「へ、……」

観音坂が間抜けな声を発した途端。

―――コンコン、失礼します。

『院長、遅くなり申し訳ございません。』
「入りなさい」
「あ………」

何故だか耳に新しい声が響く。開いた扉からは、先程まで話していた……なまえが現れたのだった。

『観音坂さん、今日はありがとうございました。一応兄さ…、院長から会社の方に連絡を入れて貰ったんですが、課長さん?大丈夫でしたか?』
「は、え?あ…は、はい」

院長の隣に座りながらの問い掛けに空返事で答えるものの、状況整理が追い付かない。なんだ?何なんだ?観音坂の脳内は疑問符のオンパレードである。しかし何と無く思い出してみれば、駅のホームで自己紹介をした時に彼は、確かに西シンジュクみょうじ病院で働いていると言っていた。ああ…そして………、

「みょうじ…?みょうじ病院、みょうじ院長がお兄さん……?」
『繋がりました?』
「あっ――――はい、」

良かった!となまえは笑う。院長はそれを見て、小さく息を吐いてから再び口を開いた。

「それで、うちの病院が先日代替りした事はご存知ですか?」
「勿論です、」
『そこに合わせて、様々なものの改変を行っている所なんです。』
「此方としては、これも何かの縁だと思っているので、御社と契約を結んでこの病院を支えて頂けたらと思っているのです」

静かで真剣な眼差しに圧倒される。それに加えてこの内容だ。観音坂は脳のキャパシティが満杯になっていくのを感じながら、漸く言葉を発する。

「へ…?え、と、貴院は既に別の所と―――」
『そうなんですが。この病院をよりクリーンな場所にするためにも、新しい風が必要だと院長はお考えなんです』

よりクリーンな場所にする、と言うことは。ライバル会社との契約の中で何か院長として赦せない内容――今後のガン細胞と成りうるものがあったと言うことだろうか、と観音坂は思考を巡らせた。

『いかがでしょうか?』
「勿論、貴院のお役に立てるなら、ご協力させてください」

そう。何があろうとこれは好機でしかない。この業界イエスマンになってなんぼだ。

『ですって、兄さん』
「ああ…。観音坂さん、お忙しいとは思いますが主担当を是非貴方にお願いしたい。問題なければ、御社には私から連絡をしておきます」
「是非ともよろしくお願いいたします」

寂雷先生の病院に次ぐ、大口の契約だった。資料を渡し、契約書類諸々の手続きを済ませた。そして手元にある菓子折りを思い出し、渡そうとすれば。

「当院には、そう言った気遣いは不要ですよ」
「…では私個人が、院長の一本の電話によって救われたお礼、と言う名目ではどうでしょうか」
『ふふっ、…ね、面白そうでしょう?観音坂さんって』
「ああ…そうだな、…では頂戴します」

院長の真面目さや、兄弟間の仲の良さを垣間見ることが出来て、観音坂はふと何処かが暖かくなる気がした。

「ではまた連絡をさせて頂きます。窓口は院長の私か、薬局長の弟になりますのでお知り置きください。申し訳無いのですが診察があるので、ここで失礼します」
「貴重なお時間ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」

院長が退室し、観音坂となまえが残される。

「薬局長、」
『あはは、普通になまえって呼んで貰えたら良いんですが』
「いや、…それはその、――あ、ありがとうございました」
『え?お礼を言うのは僕の方ですよ。ありがとうございました。今後も末長くよろしくお願いしますね』
「精一杯、邁進いたします」

ふわふわとした赤い髪の天辺にある旋毛を見つめて、なまえはにっこりと笑いかける。顔を上げた途端、視界一杯に映ったその微笑みに、観音坂は目の縁が赤くなるのを感じた。




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