ヰろハ、匂へど(企画)

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【よ】(入間銃兎/受男主[ぬ続編])


ヨコハマの街には善悪美醜様々な存在がそこかしこに散りばめられていて、僕を飽きさせることがない。まるで中華街のお店のコースの様に、次から次へと刺激的な出来事を届けてくれる。お陰さまでいつも楽しみに満たされているような気がする。害悪でしかないしょうもない事件もかなりあるが、それすら僕にとっては日常のスパイスだ。

僕がそんな風にしみじみ思えるようになったのは、現在の職場であるヤクザ事務所に来てから―――、もとい、僕がとてもとても大好きな入間銃兎さんに出会ってからである。その前まではこんな風に思えることなど一切無く、いつも退屈で息苦しかったのだ。毎日が憂鬱のループ。青い空はずのが灰色に見えてしまいそうな日々。生きるのも死ぬのも別に何だって良かった。そう言い切れる理由を聞かれれば、僕が幼少期からずっと親に"普通の親"として接して貰えなかった過去を引き合いに出さずにはいられない。――でも、その親も、先日僕自らの垂れ込みによって無事お縄となった訳である。順風満帆、そんな気分だ。





『うう、眠い……』

現在の時刻は深夜1時を少し回った所。
銃兎さんの帰りは遅い。これまで事務所で会えていたのは、仕事の合間にわざわざ顔を出してくれていたからのようで、僕が銃兎さんのお家に居候させて貰うようになってからの方が、お話しできる機会が少ない気がする。今日みたいに銃兎さんが朝早く出ていく時は、丸一日顔を見られない事だってある。少しだけ、淋しい。けど、仕方がない事だと言うのは僕にも分かる。それでも、一瞬だけでも。顔が見たい、声が聞きたいと思うのは許されない事だろうか。


ガチャ、と玄関の扉が開く音がする。待ちに待った音に、僕はうつらうつらとしていた意識を一気に覚醒させて、廊下へ飛び出たのである。

『お、お帰りなさい!銃兎さん』
「おや…ただいま帰りました」

靴を脱ぎながら、銃兎さんは切れ長の瞳をパチパチとさせる。こんな時間でも崩れていないその洗練された姿に、僕は更に目を輝かせた。

「…まだ起きて居たのですかなまえ。帰りが遅い時には先に寝ていなさいと言いましたよね?」
『はい…、銃兎さん。…ごめんなさい』

やんわりと咎められてしまったのが分かって、僕はシュンとする。

『でも、今日は朝もお話出来なかったので、少しだけ、声が聞きたくて…』

はあ、と銃兎さんがひとつ息を吐いたのが聞こえた。僕はお仕事で疲れて帰ってきた夜中に、構って欲しいだなんて言うわがままはやっぱり辞めよう、と意気消沈して『もう寝ます』と言おうとしたのだが……、

「…本当に、仕方がない子ですねえ。少し汚れたので先に着替えとシャワーを済ませたいのですが、その間待って居られますか?」

銃兎さんはそう言って僕を甘やかす。少しだけ笑いを含んだ声で。綺麗な弧を描く唇で。優しく優しく、問い掛けてくれるのだ。沈んでいたはずの気持ちは瞬時に消え去り、嬉しくてたまらず、ありもしない尻尾をブンブンと振った。

『わあ、いいんですか!?僕、待てます』
「ふ、…そうですか」

銃兎さんは微笑み、廊下を進みながらアンダーフレームの眼鏡を外し、ジャケットを脱ぎ、襟元を緩めていく。その流れるような所作が余りにも艶やかで。僕はいつも、ドキリとさせられる。視線を反らしたいような、ずっと見ていたいような、相反する気持ちをせめぎ合わせていた。

「ではなまえ、私の寝巻きを脱衣所に運んでおいてください」
『っ…はい、分かりました!』

ざわつく胸から思考を戻す。パタパタとリビングに戻って、先ほど畳んでおいた洗い立てホヤホヤのスウェットを持って脱衣所へ向かった。コンコン、とノックをしたものの、中からはシャワーの音が聞こえて居るためきっと掻き消された事だろう。
着替えを置くためのカゴにスウェットを入れる。ふと目を遣ると、その近くに銃兎さんのスーツが置かれていた。"お気に入りなので自分で管理します"と指示があったのもあり、触らせて貰ったことはないそれ。その下から僅かに見える、ワイシャツの襟元に僕は視線を奪われたのだった。

『ぁ…』

見てしまった。咄嗟にそう思って、僕は逃げるように脱衣所を後にする。短い廊下を通りリビングに戻って、見たものを反芻する。

「口紅…」

赤く、滲むような色合いのあの染みは。恐らく僕の頭を過った通りの物であることは確かだった。きゅう、と胸が痛んで自分が銃兎さんの生活の邪魔になってしまっているのではないかと心配になる。それでも、そんなことを聞く勇気も持たない僕はぐっと目を閉じて左右に首を振った。――切り替えよう。だってこの後は、銃兎さんとお話しできる大事な時間なのだから。自分に強くそう言い聞かせて、手中のスマホパズルゲームに集中した。






「お待たせしました。…本当に起きていられましたね、なまえ」

ゲーム内の体力を使いきる頃、銃兎さんはラフな装いでリビングに現れた。普段とは違って、前髪を下ろしている銃兎さんは少しだけ面差しが幼いような印象がある。初めてこの姿を見たときは、余りのギャップに絶句してしまった事を良く覚えている。…もちろん、どちらも格好いいという意味で、だ。

『はい、銃兎さん!』
「元気だな…」

ふ、と銃兎さんは息を漏らして笑ってから、ゆっくりと僕が腰掛けるソファの隣に座って、僕の手元を覗き込む。

「いつものゲームですか?」
『ちょっと難しい所に来て、中々進まないですけど…』

僕がコクリ、と肯定してから画面を傾けて見せると、銃兎さんは幾度か瞬きをして。そうか、と呟き僕の髪をさらりと撫でた。お風呂上がりのホカホカとした体温と、柔らかい手付きが心地良い。僕は甘受するように目を閉じる。銃兎さんはその優しい指でふわふわとすくように、目にかかりそうな僕の前髪を掻き分けてくれた。

「ここでの生活は慣れましたか?」

銃兎さんからの質問に、僕は視線を上げる。真っ直ぐ見上げた銃兎さんは柔らい表情をしていて、前髪の隙間、眼鏡越しに覗く瞳が僕だけを映していることが、なんだかとても嬉しかった。

『はい。あの、僕。今、すごく楽しいです』

銃兎さんは、僕の言葉に切れ長なエメラルドの瞳を丸く開いて瞬きを数度。

「楽しい、ですか?」
『楽しいです!だってですね、お仕事は出来ることを少しずつ増やさせて貰えていますし、左馬刻さん達はとても良くして下さいます。時々お会いする理鶯さんもいつも優しくて温かいですし』

ふむ、とか、ほう。と銃兎さんは相槌をくれる。薄くて形の良い唇が、さも面白いと言うように弧を描いて、吐息のような笑みを漏らす。

『…それに、』
「…まだあるんですか?」
『あります!1番、だいじなのがあります』
「大事な?」

長い足を組み、ソファにゆったりと背を預けた銃兎さんはコテ、と頭を傾げて僕を見た。僕は少しだけ前のめりになって、グッと手に力を入れる。

『…僕にとっては、銃兎さんと一緒に居られるのが、何よりも、嬉しくて大切な事です』

瞬間的に銃兎さんは瞠目して、直ぐに目を細めた。そして綺麗な手で口許を覆うとクク、と笑って言葉を続ける。

「…こんな薄汚れた街の、クソみたいな警官でも、か」
『っ…銃兎さんは、そんなんじゃありません。確かに、この街にはどうしようもないような悪い人達もたくさん居ますけど…でも、僕は銃兎さんや、左馬刻さん、理鶯さんがいるから本当に毎日を青い空の下で過ごせて居ます』

僕はこの幸せな気持ちを分かって貰いたくて、きゅ、と眉を寄せて銃兎さんに訴え掛ける。

「ったく…大袈裟な奴だな、なまえ」
『全然、大袈裟なんかじゃないんです。だってずっと、僕の世界は薄暗かったから…それが普通だと思ってたけど、ほんとは違くて。銃兎さんはそれを教えてくれた人ですから』

余りの熱弁に、銃兎さんはそうか、と静かに言って僕を見る。綺麗な指がするり、僕の頬を滑った。パチパチと瞬きをしながら優しいその指先を受けていれば、きゅ、と片側の頬の肉が摘ままれる。

『わふ…』

横に伸ばされたり、上下に引かれたり。銃兎さんは度々こうして僕の頬で遊ぶ。以前「餅のようですねえ」と笑われたこともあるくらいで、どうやらこうする事が気に入っているらしい。
銃兎さんは頬で遊びながら、穏やかな声で言う。

「今日は一緒に寝るか?」
『いいんれふか!』
「ふ、前にも言いましたが、私は駄目なら言いませんよ」

もちろん僕は、はい!と勢い良く返事をした。それと同時に頬から離される指に少しだけ淋しさを感じつつ。ソファを立ち上がる銃兎さんに倣って、僕も後に続いたのだった。


パタパタ、とスリッパを鳴らして向かうのは銃兎さんの部屋。その理由はたったひとつ。ベッドのサイズがダブルだからに他ならない。
黒を貴重としたシックでシンプルな銃兎さんの部屋。余り訪ねる事も少ない事もあり、僕はキョロキョロと見回してしまう。銃兎さんはこちらを振り返って、苦笑した。

「なまえ、そんなに見ても面白いものはありませんよ」
『ご、ごめんなさい…銃兎さんのお部屋がすごく銃兎さんみたいなので…』

僕の言葉に、疑問符を浮かべた銃兎さんは数秒の沈黙の後。

「…、何を言ってるんです?急に日本語が通じなくなりましたね」

銃兎さんは呆れたように笑い、眠いんですか?と問い掛けてから掛け布団を捲って僕に促した。

「ほら…、奥へ寝なさい」
『はい、お邪魔します…』

ゴソゴソと布団に入れば、フワリと香る銃兎さんの薫り。大好きな薫りだ。僕はひっそりと深呼吸を一つ。銃兎さんも僕の隣に身を滑り込ませて来る。

「寒くないか?」
『大丈夫です。銃兎さんは、狭くないですか?』
「ええ、問題ありませんよ。なまえ、貴方も余り縮こまらなくて構いませんからね」

そう言うと、こちらに半身を向けていた銃兎さんは僕の肩に布団を掛ける。そして、天井を向いている僕の頭を優しく撫でた。
ゆっくりと滑る銃兎さんの手が余りにも心地良い。ずっとずっと、こうだったら良いのにな、と思った。そんな僕の脳裏に、先程目の当たりにしたワイシャツの襟元がふと過る。
途端、そんな願いは持つべきではないのだと、僕の中の誰かが指摘して来て。―――『そんなの言われなくても知ってるよ』と胸中で言い返した僕は少しだけ息苦しさを覚えて、おずおずと口を開いたのだった。

『僕、銃兎さんの邪魔にならない程度で良いので、あの…出来るだけ、近くに居たいです、ずっと、』
「何です?急に」

銃兎さんの怪訝な声が耳元で聞こえる。なんとなく言い難い気がして、僕は口ごもりながら続ける。

『あ、その…銃兎さんが、け、け、っこん、とか。される時にはちゃんと出て行きます、』
「は…?」
『けど、…でも、やっぱり時々は会いたいなあ…って、思います。あ、わがままは、言わないようにします、だから…』
「は?ちょ、待ってください。何の話です?」
『いえ…僕、分かってます。ずっとは、有り得ないって、知ってますから、大丈夫です』
「大丈夫とか、そんなことは聞いていません。なまえ、私を見なさい。突然何故そんな話になるんです?何処かの誰かに入知恵されましたか?え?答えなさい、なまえ」

銃兎さんは驚いたように言って、僕の肩を掴み顔を覗き込んでくる。

『ち、違います』
「なら何です?言いなさいなまえ」

暫くだんまりを決め込んでいた僕だったが、見下ろしている銃兎さんが余りにも感情の読めない表情で「なまえ、言え」と続けたものだから、耐え兼ねた僕は白状することとなったのである。

『く、口紅、が…』
「口紅?」
『見るつもりはなくて…あの、襟に着いてて』
「襟、…口紅…、ッチ、そういう事か」

銃兎さんは苦いような顔をしてから、困り顔で僕を見る。そして小さく息を吐いてから、再び、僕の髪をいじり始めた。

「なまえ、貴方が気にするような事ではないんですよ。今日の仕事でひと悶着ありましてね。そこで付いたのでしょう」
『そう、なんですか…』
「ええ、そうなんです」

納得しましたか?と聞いてくる銃兎さんに、僕は深く頷いた。確かに、銃兎さんのお仕事ではそう言うこともあるだろうと。
…だけど別に僕は、お仕事以外でもそう言うことがあって当然だと思うから。だからこそ、僕にとって"大丈夫"は必要な事だ、と。掛け布団をきゅ、と掴んで自分にそう言い聞かせていた。

「さあ、なまえ。寝ましょう。明日は私も休みですが、午前中チームの打ち合わせがありますので少々出てきます。午後は一緒に出掛けましょうか」
『良いんですか?』
「…貴方はそればかりですね。勿論、良くなければ言いません」
『えへへ…銃兎さんとお出掛け、したいです』

にこ、と微笑んだ銃兎さんが僕の額にちゅ、と唇を落とす。くすぐったくて、胸がじんわり温かくなる、おまじない。

「ではお休みなさい、なまえ」
『お休みなさい、銃兎さん』

そう言って僕は目を閉じる。今日の夢には銃兎さんが出てきてくれますように、と願いながら。






――――






「ア?んだよまだ手ェ出してねェのかよ」
「素晴らしいメンタルコントロール能力だ。その理性、小官は感服したぞ」

銃兎は、目の前にいるチームメイト二人に頭を抱えていた。ラップスキルに於いては秀逸な二人にも関わらず、日常会話ではそんな一面が覗く瞬間すらないのである。

左馬刻を拾って、理鶯のベースキャンプへ来ていた銃兎。ある程度シンジュク戦の作戦をたて終えてから始まったのがこの会話である。最近同居を始めた、銃兎となまえについての話。

「銃兎ォ、テメェなんかビビってんのかァ?」
「アァ?んだと左馬刻。あんまり調子に乗るとしょっぴくぞ!」

左馬刻が茶化すように言えば、銃兎はピクリと片眉を釣り上げて声をあげる。そしてそこに理鶯が入って。

「左馬刻、銃兎。苛立っているならば小官の特製ドリンクを…」
「いや、そんなんじゃねえ」
「ええ、じゃれていただけですよ理鶯」
「そうか、ならば良い。」

綺麗に?収まる、そんな一連の流れを幾度か繰り返していれば、左馬刻はゆっくりと煙草の煙を吐き出しながら、言葉を零すのだ。

「で?なんか問題がアンのかよ?犬っころはジュートサンがダイスキだろ」
「小官もその点は全面的に同意だ。なまえは銃兎に愛でられる事こそ本望だと思うが」
「それですよ。あの子が私に対して抱くのが親愛なのか、それとも他の類いなのかが分かりません」

銃兎が溜息と共に打ち明けると、左馬刻は信じられないような顔で一時停止。

「……………、銃兎、テメェ今俺らに恋愛相談してンのか?」
「左馬刻、その言い方は良くないだろう。銃兎、大丈夫だ。小官らはチームだ。故に如何なる事も共に立ち向かって行く覚悟がある。何でも言ってくれ」
「貴方達に話した私が馬鹿だったという事実が突き刺さりますね…」

ドン引きだとでも言いそうな左馬刻に、キラキラと嬉しそうな理鶯。そんな二人を目の前に、銃兎は頭に重い一撃を喰らって、指先を米神に添えるのだった。

「つーかよ、アイツにそこまでの気持ちの分類あんのか?そもそも親がオカシイ奴はよ、テメェが言う"シンアイ"なんつーのは良く分かってねぇんだよ。自分の中でソイツがどんくらい好きか、で全部決めんだ。……だからまあ。そう言うことだろ」
「左馬刻はなまえを良くみているんだな」
「そんなんじゃねえよ。ただ、あの犬っころはなんと無く、な」

憂うような視線を揺蕩わせる左馬刻は、自身や妹の事になまえを少なからず重ねているのだろうか、と銃兎は思った。

「…そう、ですか。」

絞り出すように出した言葉は、情けなく響く。銃兎はやはり分からない、と思った。しかしながら、なまえは、自分が求めれば必ず全力で応えてくれるだろうと言うことだけは解っていた。例えそれが親愛気持ちであっても、恩人への感謝の気持ちであっても。
…そして恐らく、自身が燻らせる感情を抑え切れる期間がそう長くないと言うことも。



理鶯のベースキャンプからの帰り道。事務所前に下ろす寸前で左馬刻が言った。

「犬ってのはな、鼻が利くんだぜ。飼い主に余所の犬の匂いが付いてんのが最高に嫌いなんだよ」
「ア?どういう意味だ」
「さあな、テメェのそのユーシューな頭で考えろや。汚職警官さんよォ」

バタン、後部座席の扉が閉まる音がやけに響く。左馬刻はお見通しだ、とでも言うように後ろ手をひらりと振って、事務所へと消えていく。

「ッチ、どいつもこいつも…」

運転席に伏した銃兎は、大きく息を吐いてからウインカーを出して車を走らせたのだった。




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