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【り】(毒島メイソン理鶯/男主)
『理鶯、』
「なまえか」
『やあ』
「相変わらず貴殿の気配は察知が難しいな」
僅かに驚いた声色で呼び掛けられたなまえは、片手を挙げて微笑む。理鶯は、小官もまだまだだな、と迷彩に包まれた逞しい肩を僅かに落とした。
ヨコハマにこんな場所が存在したのか。と誰もが驚くことであろう、ここは正にジャングル。青く高々と生い茂った草叢を掻き分けて漸く抜けた先に、美しく張られたテントは見えてくる。そこが彼の縄張りの中心だった。なまえが軍官学校時代からの旧友である毒島メイソン理鶯に会いにここに来るのはもう何度目になるだろうか。
テント内に促されたなまえは、入り口を開く。中は理鶯のサイズ感に合わせて広さはあるが、簡素その物。寝袋以外には僅かな生活用品しか置かれていない。
『あれ、今日はあの二人は来てないの?』
少し前から、なまえが理鶯を訪ねた際に度々姿を見掛ける二人が居る。それは正に、ヨコハマの闇、その物とも言える存在。―――ヤクザと、悪徳警官なのであった。
「ああ。今日はその予定はない。なまえは左馬刻と銃兎に用事があったのか?もしもそうならば小官が言伝てを預かることも出来るが」
用事が生まれるほど、仲は深まっていない。理鶯が居る時にしか会ったことも、話したこともない。ただ、なまえは、この変わり者と言って間違いない理鶯と親交を持つあの二人を面白い、とは思っていたが、それだけだった。
『いーや?大丈夫。理鶯と二人って言うのは久しぶりだなと思っただけだよ』
「む…そうだな」
なまえに続き、テント内に進みながら理鶯は答える。柔らかな微笑みと共に肩を竦めるなまえを静かに見つめた後、理鶯は、座ると良い、と言ってなまえに椅子を薦めた。
『チーム組んでどのくらいになった?』
「明日で三ヶ月と十日だ」
理鶯は湯を沸かしながら、MTCに加入してからの細かく刻んだ日数までも返答する。なまえはそんな様子に、何処までも癒されるのを感じて頬を緩ませた。
『へえ。意外と経つなあ。理鶯、楽しいかい?』
「ああ、あの二人は小官とは違った世界の見方をしているからな。とても新鮮だ」
『それは素敵なことだね』
優しく穏やかな返答に、理鶯は目を細める。そして、なまえに珈琲を差し出してから口を開いた。
「貴殿はいつも小官を労ってくれるな」
『そう?』
なまえは、それは理鶯の方だ、と胸中で呟く。軍官学校時代から、この端整な顔立ちの、何処までも広く輝く澄んだ海のような瞳を持つ男は、常に周囲に気を配って居た。
『僕としてはね、理鶯の様な人格的な人物は、所謂、軍の亡霊に囚われ続けるべきではないと思うから。別な場所で活躍の場があるならば、とても良いと考えてしまうんだ』
「そうか。なまえに褒められるのは光栄だな」
思案するように、理鶯は暫し沈黙した。なんとなく、この後に続く言葉が分かっていたなまえは、珈琲に口を付けながら静かに待つ。この男は、相手を傷つけないような言葉を探しているのだ。
「しかし小官はやはり、軍の復活を強く求めている。…貴殿の期待には添えないかも知れない」
ほらね。なまえはそう脳裏に過らせて少しだけ笑う。
『ううん。良いんだよ、理鶯。僕の考えは僕の考えとして完結させるべきものだから。君がそれに揺らぐ必要は皆無だ』
誰彼彼女がこう言っていたのに応えられない、とか周囲の期待とか。そんなものはどうだって良いのだ。結局、自分を歩むのは自分だけなのだから。
なまえの言葉を受けて、理鶯はそうか、と僅かに黙りこむ。そして神妙な顔でなまえを見た。
「小官はなまえの話を聞かせて欲しい」
『…僕かい?僕は特筆することはないかな。相変わらず中王区の女どもに上手に使われてやって、まあ…所謂お人形遊びみたいなものさ。仕える場所が変わっただけで、僕がやっていることは昔とそう変わらない』
変わらないのだ。本当に。何か変化を挙げろと言われれば、軍の頃は男ばかりだった周囲が、中王区では女ばかりになったくらいのもので。
『制約も多いし、女どもには反吐が出るけど。機密に近い部分にも触る事が出来るこの立場は僕にとってとても意義あるものだ』
「そうか――、なまえは気高いな。そして賢く、美しい。…小官は再びなまえと共に戦える日を今でも望んでいるが、それもまた、難しいのかも知れないな」
『先ず一つ。美しいと言う形容詞は女性に使うと良いと思うよ』
なまえは苦笑しつつ、人差し指を立てると理鶯に指摘する。それも束の間、美しい顔からは直ぐに表情が薄れて。
『共に――、そう思って貰えてるのは嬉しいね。理鶯と僕は軍の頃から相反する場所に居たけれど。それでも僕達の働きを求めてくれて居た事にはとても感謝してる』
「む。小官らは相反して等ない。手段が異なっただけで、目的は同じだった」
優しい理鶯はなまえの言葉に僅かに顔を曇らせる。
『手段、か…。そう、確かに。僕はコソコソと水面下で敵を探るだけで、その先は全て、君達にお任せだ。大半の時は指示だけ出して、自分達の手は汚さない。いい身分だよ…はは。話していても虫酸が走るね』
「なまえ…」
でも、やはり。長く諜報機関に配属されて居たなまえは、最前線で命のやり取りをして居た理鶯達と自分とを同じ目線では見ることが出来ないでいるのだ。
理鶯は再び、思案しながら唇を開く。
「小官の部隊には貴殿の収集した情報に因って命を落とさずに済んだ者が多数居た。その事実だけでは、貴殿が自身を卑下するその言葉を止めることは出来ないか」
理鶯は、なまえが目を伏せながらも耳を傾けているのを見て、静かに言葉を続ける。
「…小官は貴殿が傷付けられていくのを黙って見ては居られない。例えその原因がなまえ、貴殿自身であっても」
『…本当に、君は』
なまえは眉尻を下げて笑う。そして、視線を足元に落としたまま口を開いた。
『ねえ理鶯、いつかこの国の体制が"異常"ではない状態に修整されて。例えば軍がまた配備されたとしても、…実力行使の必要がない世界になったら良いね』
「ああ。小官らは学生時代よりその志の元共に学んできただろう」
『…うん。そうだね。』
そうだ。確かにそうだった。軍官学校では心身や頭脳を鍛えるのは、護るべきものを護り、世界の平和の為の一助とする為なのだと、そう習った。
理鶯は僅かに唇で弧を描くと、静かな声で言う。
「小官と貴殿とが目指すものは、今も昔も同じと言うことだ」
『うん。…そのために、僕も頑張らなきゃね』
なまえはそう言うと、ゆっくりと瞬きを一つ。長い睫毛が、テント内に射し込む僅かな光で影を作る。理鶯はそんななまえをジッと見詰めて、低く低く、尋ねた。
「それ程までになまえを追い詰めているものは、なんだ?」
サバイバルナイフのような鋭い言葉。仕留めた獣の血肉を抉るように、思考するなまえの脳内をかき混ぜた。二人だけのテントの中に、翳りを孕んだ沈黙が訪れる。この時間が長くなれば長くなる程、二人で居られる時間は引き延ばされていく。空気には似つかわしくない、名残惜しむような、静寂。
薄く形の良い唇を引き結ぶなまえはこの沈黙の先に、何を尋ねられるのか知っているのだ。
「―――ヒプノシスキャンセラーの事か」
そして、沈黙を破った理鶯はこの会話の結末を頭の片隅で察知していた。それはきっと、野生の本能のような。
『…、理鶯』
なまえは小さく小さく、咎める様に理鶯を呼ぶ。しかしながら真っ直ぐな理鶯はそれを赦してはくれないのだ。
「軍に所属していた頃からなまえはその開発について調査をしていただろう。中王区では、――」
『理鶯、それ以上は、駄目だよ』
「何故だ」
『理鶯……、駄目なものは駄目だ』
「なまえ、」
なまえと理鶯の静かな攻防戦。双方に悲しみが見え隠れして、息が詰まりそうな程の声色がテント内に響く。
『君に危険が及んでしまう。…それでなくとも厄介な話なのに』
「危険や厄介事など、些細なものだ」
『…理鶯。危険を省みることこそ、強さだと僕に教えたのは君だよ。それに…情報の扱いに於いては僕の方がずっと長けている事を忘れないで』
意外なほど固い声でなまえが告げると理鶯は不服そうな顔をしながらも黙りこくる。
そして理鶯は行き着いたのだ。なまえがこれ程までに慎重になる理由に。
―――軍で諜報員の司令塔を勤めていたなまえは、当時開発が始まったばかりだったヒプノシスキャンセラーについての情報を得ることとなる。そしてその機密の特性ゆえに、殆ど独りだけの担当者として危ない橋を渡っていた。命を、精神を削って国のため、軍のために任務を遂行していた。
誰もがそんななまえを尊敬したし、憧れの対象として広く囁かれていた。理鶯は部署は違えどなまえの親しい友人として、時折時間を共にしながら、そんな友の動向を誇らしく、同時に心配もしていたのだ。
そしてそう、あの日。軍が解体になった日のことだ。茫然とする元軍人達の中を颯爽と抜けて、なまえは歩いていた。隣にいたのは、あの女。勘解由小路無花果だった。恐らくなまえは知らなくても良いことを知ったがために情報の口止めのため、またその能力を買われて女達に使われるため、中王区に繋がれたのだ。
今回の話はこれまでの延長線に違いないのだ。なまえはその優秀さ故に、危険に身を滑り込ませるのが巧い。そして、それを隠し通すことに関しても当然ながらピカイチだった。だが、それは。彼独りで行動している時のみ信頼性を持つ。何者かがなまえに接触しているとすればそれはきっと、彼の価値を疑う声が上がり処分すらチラついてくる。
そしてその接触する人物が、ヒプノシスマイクを使ったディヴィジョンバトルの代表ともなれば、その風当たりは計り知れない。
何故自分は、そんなことも思い至らなかったのだろうか。最早これは自分が招いた結果ではないか。
更に言えば、こんな簡単な事をなまえは判らない筈は無いのに。何故危険を冒してまで自分に会いに来て居たのだろうか。―――
『理鶯、』
「…貴殿の言葉を聞きたくないと思ったのはこれが初めてだ」
『聞き分けの良い理鶯はどこに行ったの?』
なまえは柔らかい声で俯く理鶯に声を掛けた。それは、もう先程までの話題には戻らないだろうことを理解したからだった。
「…そんなものは始めから存在しない。小官はなまえが正しいことだけを言う人物だと知っていたから、これまで身を任せて来た」
『それなら、大丈夫じゃないか』
「だが。今から貴殿が話すであろう内容は、小官にとってこの上なく苦痛だ」
憮然とした表情で理鶯は言う。それはいやいや期の子供の如く。首を横に振ったり、相手に目を合わせなかったり。頑なに受け入れがたいその先の何かに構えていた。
『…僕も嫌だよ』
なまえはポツリ、唇から音を零す。理鶯はその言葉に顔をあげる。すると、なまえの2つの瞳に真っ直ぐ囚われたのだった。
「なまえ、」
『理鶯。僕はもうここには来られない。もしかしたら君とも、もう会えないかも知れない』
キュ、と眉を寄せる理鶯とは対照的な、穏やかな顔でなまえはそれを告げていた。微笑みすら湛えて。
その表情に困惑しながら、理鶯は絞り出すように呟く。
「…なまえ、一つ聞かせてくれ」
『何だい、理鶯』
「何故、危険を分かっていて小官と会っていた?少なくともヨコハマ代表になった時点で会わなければ…或いは」
なまえは変わらず、静かに笑う。何が可笑しいのか、顔を上げて反論を試みようとするも、なまえの笑顔に閉口させられる。
『僕が理鶯に会いたかったから』
「それは…」
『…理鶯が好きだ。それが理由だよ』
突き刺さるような言葉に、理鶯は胸中が奮えるのが分かった。指先まで伝わるそれを感情で表現するなら、正に歓喜、そのものだった。
『君が僕に生きている実感をくれるから、僕は今まで首輪を付けてもやって来られたんだ。真っ直ぐすぎるくらいの君には色々とヒヤヒヤさせられたけどね』
クスクスと笑うなまえを真正面から見詰めて、理鶯は静かに言う。
「なまえ、抱き締めても良いか」
『え?っわ、』
尋ねた割には答えを待たず、理鶯はその細い骨組みを強く包み込む。僅かに驚いているらしいなまえの鼓動が早くなるのを聞いた。
「小官はなまえ、貴殿を愛している」
『理鶯…、うん。ありがとう』
なまえの細くしなやかな指先が理鶯の背にキュ、と回される。お互いがお互いに満たされていくのを感じながら時間をたっぷりと掛けて鼓動を、体温を分け合った。
そしてなまえがポツリ、囁くように話し出す。
『命の限りは、また君に会えるように努力する。だから君も、全力で戦って――勝って欲しい』
「当然だ。MTCが勝利することを誓おう」
理鶯の胸に頬を寄せたまま、なまえはうん、と小さく首肯く。その時折揺れる丸い頭を理鶯はゆっくりと撫でた。
「そして戦いの後、貴殿と小官の邪魔をする者は小官が排除しよう」
『うん』
どちらともなく、寄せていた身体が離れて、二人は真直ぐ見詰め合う。理鶯は大きな手でなまえの両耳の辺りを撫でるように優しく包むと、額をコツンと合わせた。
「…その暁には、なまえは小官の元に必ず戻ってくると、そう約束してくれるか」
『勿論だよ…理鶯。それまで、僕を忘れないで居てくれるかい?』
「答えるまでもない、愚問だ」
なまえが花が綻ぶように微笑むと、理鶯は吸い寄せられるようにその唇を食んだ。
一瞬が永遠にも思える、口付けだった。
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