彼と別れた後、彼女は微かにかぶりを振るのが癖になっていた。あれが危険な男であることは十分に理解している。引き込まれてしまえばそれは身の破滅に繋がりかねないことを、彼女はよく理解していた。同時に、理解することと、それに従えることはまた別物であることを、身をもって実感していたのだった。

 彼が彼女に声をかけること、彼女が彼に挨拶をすること、一緒に食堂に連れ立って、食事をともにすること。今ではもう全てが当たり前になっていた。食事という必至であり無防備な行為を、あんなにも熱心に見つめられて、本当は気が気でない心地がしていた。パンのちぎりかたから、口の開き方まで、彼に見られていると思うと指先の血流の所作まで意識しないといけないような気持ちになって、どうしようもなくなる。その気持ちがはみ出さないように、彼にそれが悟られないように、何もかもに気付かぬふりをして食事を続けた。何度繰り返しても慣れることはなかった。

 彼ら双子の兄弟と、その幼馴染についてのまことしやかな噂は、彼らが入学した当初から彼女も聞き及んでいた。あらゆる方向に突出した生徒ばかりが集まるこの学園で、こんなにも早く広く伝わっていく噂は、誰かを激しく乏しめるものか、危険を避けるために情報共有として流れてくるもの、大抵どちらかである。双子についての噂は後者であった。リーチ兄弟は瞬く間にあらゆる内容で有名になり、この頃はまだその姿を見たことがなかった彼女でも、彼らのことはある程度紹介できるくらい、彼らは突出した存在であった。

 他にも自分によくしてくれる者は大勢いるのに、なぜよりにもよって彼なのか。彼の興味が自分から逸れたとき、ただそれだけで捨て置かれる可能性がある。自分の努力や行動によって管理できるものではない。彼女にもそれなりの矜持があり、人智の及ばぬところで突然変異してしまうようなところへ身を置く勇気は出なかった。

 でも、結局は、彼から気まぐれに声が掛かるのを、見えぬふりをして待っていた。彼と一緒に向かった食堂で、彼にじっと見られていることに気付いて、それを数回繰り返すころには、もうその期待は彼女の意志に基づくものとなっていた。何がきっかけかは分からない。でも、熱心に、まるで喉の奥を抉りみるような眼差しで見つめられて、正気を続けられる訳がなかったのだ。それに触れてしまえば全てが終わる気がして、そのことは話題に出せなかった。けれど、そのこと以外考えられなかったから、他に何を話すこともできない。彼女は迫り上がる、もろもろとした何かを下げるために、彼と会った後は必ずかぶりを振る。これでまた、彼に話しかけられる自分の用意が整うのだった。




 自分なりに保っていたと思っていた、均衡のようなものが、彼によって壊された。

「手の甲に、さわってみたいんだけど。いい?」
「…、手の甲?」
「ん…それ」

 それ、と言って彼が指差したのは、今まさに球根を植える準備をしていた、私の手だった。いつもの朝、既にそれぞれで朝食を済ませ、植物園の前で声をかけてきた彼はいつも通りのはずだった。何してるの、と聞かれて、クロッカスの準備をするんですよと答えて、つけていたグローブを外したそのとき、彼は私の手の甲をさわりたいと言った。

「いい、ですけど…何のために」
「わかんねーけど…いいなら、いいよね?」

 この会話は誰にも聞かれてはならないと思った。まるで彼と私の周りだけ水があるみたいに、彼がこちらに近づくのに合わせて、ぬるい水が身を揺らす。近づいてくるのが分かって、また何かが迫り上がる気持ちになる。彼は私の横に立って、グローブをゆびに引っ掛けたままの私の右の手の甲に、彼の左手で触れた。最初に手の甲同士を擦って、手のひらや指先で、表面だけを撫でるように動いている。私はその部分をじっと見ることしかできない。息が浅くなって、肺が縮むのを感じる。緊張しているのだと分かった。彼はどうだろう。見ることができない。彼の手の動きだけがゆったりとしていた。止まっていることが難しくて、また何かが迫り上がってきたのに任せて彼の顔を見上げた。彼は食堂でそうするときよりも、さらに奥を開いてやろうとしているような目で、私をじっと見ていた。
 もう耐えられなくて、泣き出してしまいそうだった。私の唇が震えるのと、彼が話し出したのは同時だった。彼の長い指が、私の指に引っ掛かっている。グローブは知らぬうちに地面へ落ちていた。

「ずっと分かんなくて」
「…ずっと?」
「うん…たぶんもう分かったんだけど、まだ離さなくてもいい?」

 分かった、と彼は言った。何が、とは聞けなかった。でも、彼が分かったというのだから、分かったのだろう。彼にとって、何かささやかで大事なことが、紐解かれていっているのだと思った。そういう声質だった。

 彼の冷たい指先と、私の温度が馴染むまで、私たちを囲う水はそのままだった。