「先に寝ていていいよ」

仕事終わりのせいかいつもより少しだけくたびれたように微笑んだ彼は夜中まで彼の帰りを待っていた私にそう声をかけた。
私が彼の帰りを待っていたのは別段なにも今日が特別な日だった、という訳ではない。ただ単に夜眠る前には彼の顔を見てから眠りたかった、なんていう私の勝手なワガママから来た行為だったのだ。それをごめんね?と申し訳なさそうに謝られてしまってはむしろこっちが申し訳なくなる。それでもやっぱり1人で冷たいベッドに潜り込むのはなんだか少し寂しくて、私は彼がお風呂から上がるのをダイニングで待つことにした。

ダイニングにあるのはオープン型の広いキッチンと、キッチンからすぐ見える位置に置かれた大きなテーブル。普段は二人で食事をする時に使っているため、夜に1人で座るのは少し不思議な気分だった。

夜の空気にさらされてひんやりとしたテーブルと椅子。ぺたりと腰を下ろし、テーブルの上に資格取得の教材やペンケースを広げた。どうせなら待っている時間も有効に使いたい。そう思っていたものの、夜遅くにつらつらと書かれた文字列を見ていると眠気が襲いかかってくる。
ふわりふわり。視界にもやがかかったようになり、教材の文字が歪む。
ちょっとだけ……とペンを置いたあとの記憶は、ない。




ひんやりとしてだんだんと感覚の薄れていっていた肩にじわりと温もりが伝わる。眠さから靄のかかった頭を軽く振りゆっくりと顔を上げると、今にもここを去ろうとした淡いピンクの髪が視界をふっと横切った。

「りっか……?」

寝起きで回らない舌と冬の空気で乾燥した喉のせいで最愛の人の名さえはっきりと呼べない。しかしそんな声でも彼は気づいてくれたようだった。

「起こしちゃったね。」

眉を八の字に下げ少し困ったようにこちらを見ながら言う彼は薄闇の中でも変わらず美しい。日中ならばきちんとまとめられている髪は解かれたまま緩やかに肩に流れていた。
そのまま彼の美しさに見蕩れるようにぼうっとしていると、いつも以上に柔らかい声が降ってくるのが聞こえる。

「もうベッドに入って寝ちゃった方がいいんじゃないかな」

うつらうつらとしながら、んー……とぼんやり答える私に彼は苦笑しつつ念を押すように「ね?」ともう一度問いかける。
重力と眠気に抗わず、こっくりと深く頷けば彼はくすくすと柔らかく笑った。

「ほら。……おいで?」

そう言って彼は両の腕をこちらに差し出す。差し出された腕の間に素直に包まれると、しっかりとした力強さで抱きとめられ、すぐにお姫様抱っこと呼ばれる抱え方になった。長い髪と整った顔立ちが相まって普段は女性的にすら見える彼の腕は当たり前だが男性のもので、自分とは違う固さを感じる。
ふわふわゆらゆらとした頭では何も考えられず、ただその優しさに甘えるばかりだ。

「はい、到着したよ?お姫様。」

気づけばギシリと音が鳴り、背にベッドの柔らかさを感じた。縋り付くように彼の首元に回していた腕を外せばもう眠りの世界に旅立てる。そんな状況で何故かこの手を離してしまうのが途端に惜しくなってしまった。
私は重い頭を持ち上げ、静かにゆっくりと彼の唇にくちづける。
それは瞬きと変わらないほどの短い時間。しかしたったそれだけで妙に心が満たされた私はそのまま腕を外し、パタリとベッドに放り投げたのだった。

「……おやすみ、良い夢を」

甘い声が静かに聴こえたような気がした。