春ひらり
ひらりと手を太陽の下にかざす。指の隙間から零れた光が眩しくて、思わず目を眇めた。
春だな。
何の気なしにそう呟けば、隣でもそもそとおにぎりを食んでいた彼女がちらりとこちらを見上げる。縁側に並んで腰掛け、弁当を食べているこの光景は熟年夫婦を通り越して、まるで老夫婦のようで不意に笑いがこみ上げる。蓮巳の旦那やほかの奴らから「熟年夫婦」と揶揄されるのを今までさらりと流してきたものの、案外的を得ていたのかもしれない。
喉奥でくく、と小さく笑うと、再びこちらを見上げた彼女がゆっくりと首を傾げた。
不思議そうな視線が少しむず痒くて、なんでもねぇからゆっくり食えよ、と笑って返してやる。
この穏やかな時間が嘘のように愛おしくて、笑みが自然と浮かぶ自分に、俺も変わったなと小さく息をついた。
流行病の影響でおちおち花見もできないということで、花見代わりに縁側で庭の木々や花々を眺めながら弁当を食べることを提案したのは俺だった。
日々の仕事や生活の全てを見ているわけではないが、傍目から見ていても細い体が更に小さくなってしまうのではと少し危ぶむほど彼女は疲れているように見えた。元来の食の細さを知ってはいるものの、小さくて細っこい生き物を見ると何かを食わせてやらないと、と思ってしまうのはどうしようもない俺の性分らしい。
もう少し飯を食って体力をつけてほしいという密かな希望も込めて提案を投げてみると、彼女はこくこくと嬉しそうに頷いた。ついでにおかずのリクエストもしてくるほどなので、そこそこ元気な様子が見られて少しほっとする。
そうと決まれば腕の見せどころだ。花見弁当のように重箱におにぎりや卵焼き、煮物などをぎっしりと詰め込む。珍しく煮物に入れる人参や大根を桜型に飾り切りして、華やかに見えるように工夫もした。蓋を開けた時に見えるはずの笑顔を期待して。
そうして今、ぽかぽかとした春の陽だまりの中で縁側に二人、並んでいる。
この時間があまりにもおだやかすぎて、少し手持ち無沙汰になり、これといって意味もなく自分の手を見つめた。人と比べて大きめの部類に入るであろう手のひら。料理をすることが多いのもあって、爪は程よく切り揃えている。
ふと、飾り気のない自身の爪先を眺めながら、昔聞いた雑学をひとつ思い出した。
蓮巳の旦那から聞かされた記憶が正しければ、一年程度で手の爪は生え変わるらしい。とすれば、今の爪の先端部分はきっと一年前の春のことを覚えているのかもしれない。
なんて、似合わないことを考えた自分に思わず苦笑をする。
すると、隣で重箱からせっせと好きなおかずやご飯を選りすぐり、口に運んでいた彼女は再び不思議そうに首を傾げた。そしてごくんと今食べていたものを飲み込むと、庭を眺めてちいさく呟く。
来年はちゃんとお花見できるといいね。
突如降った言葉に、俺はぱちりと一瞬大きくまばたきをした。声につられるように隣を見るも、彼女はそんな俺に構うことなく、黙々とごはんを口に運んでいる。
ふっ、と自然に笑みがこぼれた。
来年のことが当たり前のように約束されていることに、湧き上がる嬉しさとむず痒さを感じて、思わず目を細める。これからもよろしく、という言葉はいつかのために置いておいて、小さく呟いたのは、あぁ、という返事だけ。
陽の光がやわらかく差し込むのを全身で感じながら、空を見上げる。
記憶のすべてが共有できずとも、春夏秋冬ひとつひとつの思い出をつくることができればいい。
そんなことを思いながら。