五話
君が、私の世界に置いていったものは…
作り置きしてくれたご飯、
着ていた小さな服と君の為に買った布団、
それとW好きだWの言葉ーー…
「それじゃあ…行ってくるけど…」
「うん!探偵のお仕事だよね!気をつけて」
「何かあった時は…」
「わかってる!透くんが貸してくれたこのスマホにちゃんと連絡する」
手に持つスマホを見せ、先程から何度も同じ会話を繰り返す彼にナノカは苦笑いを浮かべる。彼の連絡先だけが入っているというそのスマホは昨日手渡された。彼は彼でちゃんと自分のを持っているらしい。
「私は大丈夫だから。ハロくんの散歩以外は外に出ないし」
「やっぱり…」
「もー!心配しすぎだよ!子供じゃないんだから!そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ」
先程から引っ切り無しに鳴っている電話が気になって仕方がない。気にしなくていいと彼には言われたが、こんなに掛かってくるのだ。余程出てほしいのだろう。電話向こうの見知らぬ誰かが何故だか泣いている気がした。早く出てあげて。
玄関から中々動こうとしない彼の背中を押す。漸くドアノブに手を掛けた彼にナノカは安堵する。
「行ってらっしゃい」
笑顔で手を振り、彼をお見送りする。出て行こうとしていた彼は動きを止め、振り返った。ポカン、と口を開けているその表情に首を傾げる。どうしたのだろう。忘れ物だろうか。振っていた手は段々と動きを止めてしまう。その手を彼が優しく掴んだ。
パタンーー…と開いていたドアが閉まる。引き寄せられた体に目を見開く。スーツの匂い、洗い立てのシャツ、そして彼自身の匂いがナノカの鼻いっぱいに広がり、頭をくらくらとさせた。
「絶対に、どこにも行かないで」
ギュッと頭を抱えるようにして強めに抱き締められた後、それだけを言い残して彼は出て行ってしまう。
「…っ…」
温もりは離れた筈であるのに何故だか体が熱い。へなへなとその場に崩れるように座ればハロが心配そうにナノカの足に前足を乗せる。
「君の…ご主人様は、いつもあぁなのかい?」
彼に触れられた部分が熱い。ナノカは彼にされたのと同じようにハロを優しく抱きしめた。
毎日行っていた仕事が無くなるというのは変な感覚だ。指定された休みなら普段何も思わないのだが、風邪で休んだ時と同じに申し訳なさが少しある。自分が担当していた入院患者は大丈夫であろうか。後輩は自分がいなくても困っていないか。そんなことを考えるとそわそわしてしまう。本当にこのままのんびりとしていいのかと、気持ちが落ち着かなかった。何かしていないとまた余計な事ばかり考えてしまう。
ナノカは立ち上がり、暗い思考を取り払うように家事に没頭する。まずは洗濯機を回し、その間に部屋の掃除へと取り掛かった。といっても洗濯物なんて然程ないわけで、掃除も彼が普段からしているのかほとんど綺麗で昼前には全て終わってしまった。
畳の上でハロとゴロゴロしながらナノカは額に触れる。
昨日の朝、顔を洗っている時に気づいた。前髪で隠れていてそれまで気づかなかったが、手術帽子の痕が消えていない。流石におかしい。化粧で隠せる程度のものだが落としたらくっきりと見える。
そして今朝、その長さが短くなっていることに気づく。いやいや、そんなまさかとは思ったがどうやらWこれWが帰る時間を示しているようだ。何故自分だけこんな格好の悪い出方なのか。ナースウォッチとかでなんとかならなかったのだろうか。それにこれではいつ帰るという正確な日にちがわからない。
自分の持ち物に、彼がいうWタイムリミットを示すものWがないと分かったとき、心の奥底で安堵している自分がいた。そしてこの痕がそうでないかと推測した時、落胆した。心にずしり、と重い何かが乗る。
それがどういうことであるか…ナノカは薄々気づいている。けど、その気持ちに蓋をする。
彼が去り際に残した告白のことを未だ触れられずにいるのもそのせいだ。未来のないこの関係を考えてしまうと言葉は喉奥に消えてしまう。
衝動に任せて行動をすればする程、もとの世界に戻った時が辛くなることを知っている。
泣き崩れるほどに君の服を抱きしめた。
胸が張り裂けそうだった。
それでも君が残してくれたご飯を食べ、次の日はなんでもないような顔で仕事に行った。
釣りを始めたのだって本当は君と過ごした思い出のある家に居るのが辛かったから。たとえ一週間でも、君と過ごした日々が色濃く残り、時々私の心を寂しくさせる。
会いたかった。
会いたかったんだ、君に。
W好きだW
彼が消えた後その言葉だけが部屋に残った。今でも覚えている。その告白はとても苦しく、辛そうな声であった。
いつから想ってくれていたのだろう。時々寂しそうな顔をしていた。向こうの世界のことを思い出しているのかと初めは考えもしたが、この世界に来てナノカを見つめる彼が時々そんな顔をする。
彼に、あんな声を出させてしまう程に、私は鈍感であった。彼からしたら自分は相当能天気に映ったかもしれないな、と心の内で苦笑いする。
私は彼のことをどう思っているのだろう。恋愛対象?弟的な存在?
大人の姿の彼と子供の姿の彼を私は本当に同一人物として認識してる?
彼をちゃんと見れてる?
中途半端な気持ちで彼を傷つけたくなんかない。しかし考える時間もないほどにきっとここにいれる時間は短い。
くぅん、と声を上げ、ハロが心配そうに自分を見上げる。
「大丈夫だよ、心配かけてごめんね」
気づけばお昼の時間をとっくに過ぎていた。少し早いが気分転換にハロの散歩がてら外に出よう。帰ったら彼の為に夕飯を作って待っていよう。
「…ただいま」
安室は躊躇いがちにドアを開ける。ハロと一緒にパタパタと駆け寄ってくる彼女の姿に安室は表情を緩めた。
「お帰り、透くん!」
「ただいま」
もう一度、噛み締めるように言えば、彼女の頬は嬉しそうに上がった。
「ご飯出来てるよ」
「君が、作ってくれたのか?」
「うん。あ、わかってると思うけど味は期待しないでね。お風呂も沸いてるし…どっちにする?」
新婚のようなやりとりについ、顔がにやけてしまう。このようなご褒美が待っていようとは。仕事を早く切り上げて正解だった。
「ご飯を先にいただこうかな」
ビールが入った袋を掲げ、一緒に呑もう、と告げれば、彼女の表情は満面の笑みに変わる。呑みたかったのだろう。買ってきて良かった。
「透くん!お疲れ様でした!」
乾杯!と美味しそうに喉を鳴らしながら呑む彼女の姿にこちらもビールを流し込む。そういえば彼女が酒を呑む姿を見たのは初めてだ。向こうでは安室に気を使って一缶も口にしなかったのだから当然なのだが。
「はー!特に今日は何もしてなかったけど生き返るー!」
本当に美味しそうに呑む。少し味の薄い彼女の料理を口に運びながら安室の頬も上がる。
「変わったことはなかった?」
「うん!散歩したときにちょこっとこの辺を散策したんだけど、長閑でいい街だね」
「気に入った?」
「うん!私の住んでる所よりとても静か」
「いつから一人暮らしを?」
「三年前くらいかな。父が亡くなってからはずっと一人暮らし」
初めて聞く彼女の背景。安室は手に持っていた缶をテーブルの上に置く。
「ご家族のことを訊いても?」
「別にいいけど、あんまり楽しい話じゃないよ?」
「知りたいんだ。君のこと」
彼女は少し困ったような顔で、けど少し寂しそうに笑って話してくれた。
「もともと体が弱い人だったの。私が看護師になったのもそれが理由」
視線を外し、テーブルを見つめながら少しでも父のそばにいたかったのだと彼女は言った。
「母とは…随分前に離婚してて、もう別の家庭があるみたいだったから父の葬儀が終わった後は連絡も取ってない」
「あのマンションでお父様と?」
「実は父と住んでたマンションは火事になっちゃってね。出火元は隣人だったから殆ど燃えちゃって…それで今住んでる所に引っ越してきたの」
あのマンションに仏壇の類が無かったのはそのせいか。
「もしかして部屋にあった男物の服って…」
「あ、知ってたんだ。不思議だよね、一番燃えやすいのに、場所が良かったのかあの服だけが残って…」
そうだったのか…。だから大切に保管していたのか。知らなかったとはいえ彼氏と間違え、嫉妬までした己を恥じる。パン!と彼女が暗い空気を変えるように手を叩く。
「はい!私の話はお終い!今度は透くんの話を聞かせて?」
「僕の?」
「うん!私も透くんのこと知りたいし。ここにはいつから住んでるの?」
「実は越してきたのはつい最近なんだ」
「きっかけは?」
「ただなんとなく。性格かな。あまり長く居座ったりはしないんだ」
「へぇ、それはちょっと意外かも。ハロくんは?」
「実は飼ってまだ間もない」
「え、そうなの?」
「うん、元は迷子犬だったんだ。ひょんなことですごい懐かれてね」
「いい飼い主さんに拾われたんだ」
良かったね、とハロの頭を撫でる彼女の横顔を見つめる。これ以上の過去を話すことは出来なかった。安室透としての話はいくらでも出来る。しかし降谷零となると…。途端親友と同期の顔が浮かび、上がっていた口角が下がる。
嘘だらけの話を彼女にするのは気が引けた。真実も言えないのに、彼女にそばに居て欲しいなんて、業が深いにも程がある。
「透くん」
呼ばれてハッと我に返る。顔を上げれば彼女は優しく微笑んでいた。
「無理に…言わなくていいから」
コク、と喉がヒクつく。あの時と同じだ。子供の姿で身分を偽っているにも関わらず彼女は何かを察したように黙ってそばに置いてくれた。彼女は気付いている。安室に話せないことがまだあることを。彼女はよく人を見ている。
そんなナノカに安室は眉を落として微笑んだ。
「君は…変わらないな」
「そうかな?」
「相変わらずのお人好しだ」
「ふふっ、よく言われる」
小さく笑って、ちょっと照れ臭そうにビールを流し込む。ご飯を食べるのを再開し、やっぱり味は透くんの方が美味しいね、と困ったように笑った。
「君は…僕がこの姿でもあの家に住まわせてくれたんじゃないか?」
ポロリと出た言葉。期待した眼差しを彼女に向けるとナノカはふふっと優しく微笑み、首を横に振った。
もう一度いう、首を横に振った。
「知らない男が家にいたら流石に通報するかな!」
「・・・・」
「冗談だよ、ごめんって」
拗ねた顔をしてる安室に気づき、あはは、と可笑しそうに笑う彼女は酔っているのか顔が少し赤かった。
2020.12.22
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