脱出
本当は…
ずっと不安だった。彼が無事に潜入捜査を終えられたかどうか。何も知らない新一に聞くに聞けず、この二年間は彼を思い出しては鬱々としていた。
だから、今こうして目の前にいることが奇跡で…。つい感極まって彼の背に手を回してしまったが、抱きしめ合っている事実に心臓の鼓動は徐々に速くなっていく。彼が再び力を込めたところで背中の痛みを思い出し「い、いてててて」と声が出た。
彼の体が慌てて離れていく。心配してくれる彼に事の経緯を説明すると彼の眉間に皺が寄った。
「見せて」
「み…みせて…?」
「処置が必要かどうか、動いても大丈夫な状態か確認したい」
「い、いや、いや!大丈夫だから!ただぶつけただけだと思うし…」
「そうやって元気に振る舞っている人ほど重症だったりするから」
ほら、と背中を向けさせられる。
「頭は打ってない?」
「打ってない、と思うけど…」
今は非常事態。一刻をも争う状況の中、ここでごねるのは得策ではない…のか?変な羞恥心は本気で心配してくれている彼に失礼か…と、ハルは意を決してブラウスのボタンを外した。
「ど、どうかな?」
「…っ…」
返事のない彼に余程酷いのかと不安そうな顔を向けると、そこにはなんとも言えない表情で固まっている彼がいた。
あ、れ?もしかして直接見るわけじゃなかった?そういえば脱いでとは言われてな…い。
途端、顔がものすごい速さで熱くなる。肩まで下げたブラウスを慌てて直した。
「ごごごごめん!見苦しいものを…!」
うあぁぁぁ!と心の中で叫びながら痴女的行為を働いた自分を殴る。あああああ何をやっているんだろう!久々に会えたというのに!再会して数分も経たないうちにやらかすなんて!
「いや、直接見れたほうがそれに越したことはないから!お陰でどの程度の打ち身だったのかわかったし」
彼なりのフォローが居た堪れなくて顔を手で覆う。穴があったら入りたい。他に痛みや違和感があるかどうか、その質疑に答えながら汗が引くのをひたすらに待った。それにしても東京に帰ってきて早々にこんな事件に巻き込まれるなんて…。散々である。さすが米花町に次ぐ危険な町、杯戸町…。
「うん、大丈夫そうだな。でも違和感が少しでもあったらすぐに教えて」
「うん、わかった。ありがとう」
覆っていた手を離し、まだ少し火照っている顔で頷く。
「まずはこのエレベーターから脱出して、一旦建物内に入ろう」
既に開いている天井のハッチから吊るされているロープに手をかけると、彼は等間隔で輪っかを作りはじめた。緊急時に使われる縄ばしごというらしい。
「ここに足をかければ登れるから。こういうふうに」
先に行ってやり方を見せてくれる彼を目で追いながら時折のアドバイスに耳を傾ける。彼が登り終えたところでハルも同じように登ってみるが、足に体重が乗る度にロープは揺れ、その不安定さにだいぶ体幹が問われた。運動不足の体にはとてもキツく、これだけで息が上がってしまう。
「ハルさん」
差し伸べてくれた手に右手を重ねる。体は軽々しく引き上げられ、彼のお陰で難なくエレベーター内部から脱出することが出来た。
「ありがとう」
「どういたしまして」
人生で初めてエレベーターの天井の上にも立ったが、さらに塔内まで見る日が来るなんて思ってもいなかった、と反射的に仰向く。
「あそこ…灯りが」
「ん?ああ、僕が扉をこじ開けて入ってくる際に目印にケミカルライトを置いてきた。今からあそこを目指して登っていく」
彼がここに降りてくる際に使用した避難用のハシゴを使って今度は登っていくらしい。先程の高さより比べものにならないくらい距離があるそれにじんわりと手に汗をかく。
「ハルさん、大丈夫。何があっても僕がどうにかする」
ゆっくりでいいから。と腰部分に手を添えられ、今度は先に行くよう促される。ハルは一度深呼吸をし、服で手汗を拭ってからハシゴを掴んだ。少しして彼が登って来たのがハシゴの揺れでわかる。
夏場でもないのに下から吹き上がってくる熱風にじんわりと背中に汗をかく。どれくらいの高さまで来たのだろうか。今、落ちてしまったら…といらぬ考えをする度に彼が見計らったかのように「あと少しだから」「頑張って」「大丈夫」と声をかけてくれた。そんな彼の手助けもあってやっとのことで登りきり建物内に入り込む。すぐに彼も出てきて、真横にある階段の踊り場まで移動すると少し休憩しようと階段に二人で腰掛けた。
「はい、ハルさん。脱水症状にならないよう水分はしっかりとって」
「ありがとう」
手渡されたペットボトルを受け取ったあと、彼は次に行く場所の説明に入った。
下の階は爆発元が悪かったせいで火災が発生し、誤作動でスプリンクラーも作動しなかったそうで、ここから二、三階下のフロアは火の海とのこと。
先程の熱風はそのせいだったのか…。そんなことが嘘のように思えるくらい今この場はとても静かで。エレベーターが止まった位置がもう少し下だったらと思うとゾッとした。
「あの…ほかの人たちは…」
「たまたまデパート内にいた警察官二人が誘導してくれたお陰で全員避難は完了してる。その警察官二人も無事だ」
千速と重悟のことだ。無事に避難出来たと聞いてホッと胸を撫で下ろす。あの子供も家族に無事会えただろうか。
「ここより上の階で発生した最初の火災はスプリンクラーが作動してくれてたのもあって鎮火してたからこのままこの階段で屋上まで移動する」
それはまるで見て来た言い方。下の階が火の海ということは彼はどうやって中に…
「安室くんはどうやってデパートの中に入ってきたの?」
「解体工事中の隣のビルからバイクを使って」
「それってどういう…」
途中で彼が耳に装着してるイヤホンマイクに手を触れたため、会話は一時中断される。
「ごめん、少し電話してくるからハルさんはここで待ってて」
離れていく背中。気を紛らわせるようにペットボトルに口をつけたがだいぶ喉が乾いていたようで、もう中身は空だった。
「ん?どうし…」
ふと不自然に立ち止まっている彼に気づく。電話には出ないまま、視線を下に向けているのを不思議に思い、ハルもつられてその視線の先を追う。
「ッ!!!」
彼のスーツの袖を自分の手が掴んでいるのが見え、目玉が飛び出た。
「ご、ごめん!!なにやってるんだろ…!」
慌ててスーツから手を離す。無意識だった。確かに彼がその場から離れようとした時は少し寂しいなんて思ったが、まさか行動に移してるなんて。
「えっ?」
引っ込めたその手を彼に掴まれ、困惑した表情で見上げると彼は何も言わないまま電話に出た。
「風見か?…いや、こちらは問題ない」
頭の上に疑問符が立ち並ぶ。何やら難しい表情で話している彼に問うに問えない。
「待て、電波が悪い。少し移動する」
手を離すかと思いきや、なんとそのまま歩き出すので、ハルの腰も自然と上がる。
「えっ…あ、あむろく…」
小声で呼びかけるも電波の良いところが見つかったのか彼は足を止め、そこでまた話し始めてしまった。
「ああ…わかった。追ってまた連絡する」
電話が終わったのか彼の顔が再びこちらを向いたのでハルの背筋は自然と伸びる。
「少し事態が変わって、手配していた救助ヘリが火災の煙の影響で屋上での救出は無理と判断された」
繋がれてる手のせいで大事な会話を聞き流しそうになる。とりあえずわかったのは事態カワッタ。屋上ムリ。だけだった。
「時間がない。歩きながら話そう。もう少し上に行けば僕が乗ってきたバイクがあるから…」
彼はハルの手を引きスタスタと階段を登り始めた。
「あ、あの…安室くん」
「……なに?」
「な、なにって…」
その、手…が、
「そういえばその左手の薬指にある指輪はなに?」
「え?…あっ」
ハッとしてバツが悪そうに繋がれていない左手を自分の背に隠す。チラリと横目で見てくる彼と目が合い、しどろもどろに口を開いた。
「じ…じつは…」
2023.08.01.いいね♡