この時期にしては珍しく穏やかな気候の日だった。暖かな日の光が差し込む執務室でいつものように書類整理をしていたエルヴィンはデスクに置かれたカップにようやく視線をあげた。
「ありがとう」
「いえ。今日中に終わりそうですか?その書類の山」
「このデスクにある分なら昼までには終わるだろう」
「さすがですね。何か私に手伝えることあります?」
「いや、特にないよ。…君はいつも私が頼む前にやってくれるからね」
エルヴィンはカップを持ち上げ小さく笑うとそのまま口をつけた。その様子に満足げに微笑むとナマエは踵を返し空っぽになったティーポットを片付ける。
「……ナマエ」
「はい?」
「君はその…出かけないのかい?」
「…何処へです?」
「街にだよ。今日は天気もいいし、買い物するには良いんじゃないか」
「はぁ…でも買い物の予定はありませんね。欲しいものもありませんし…」
「…そうか」
「はい。何か必要なものがあるのでしたら買ってきますが」
「いや、そういうわけではないんだ」
「そうですか…」
手を止めないまま受け答えをしていたナマエはエルヴィンの質問の意図を計りかねていた。エルヴィンは意味のない問い掛けをするような人間ではない。今の問いにも何か意味があるはずで、大抵は察することが出来るのだが今回ばかりはわからない。
今の時期は雪のために壁外調査を行えないぶん兵団内の雰囲気は何時もより穏やかで、兵士たちも訓練以外は皆自由に過ごしていることが多い。それこそ買い物に出掛けるものも少なくないだろう。丸一日仕事をしているのはエルヴィンくらいのものだが、もしかすると。
「(気を使ってくれたのかな…それとも、)」
ちら、とエルヴィンを見るが彼の視線はまっすぐ書類に向いている。エルヴィンが仕事をしている間はナマエも当然のように一緒にいることが多いが、ナマエはそれを苦と思わない。しかしエルヴィンが同じ事を思っているとは限らない。いかに仕事をしているとはいえ他人にずっと同じ部屋に居られるのはエルヴィンも嫌だろう。要は、ただ邪魔なだけかもしれないのだ。
「……あの、私少し席を外しますね」
「…そうか」
「兵団内には居ますので。お昼頃また伺います」
「あぁ、わかった」
軽く頭を下げナマエは部屋を後にした。ぱたりと扉を閉め、思わず深く溜め息を吐き出す。ナマエはエルヴィンの補佐として仕事をしているが、例えば書類を優先順に並べたりお茶を淹れたり、実際やっていることはそんなものだ。ナマエでなくてもいい、誰だって出来る仕事だ。むしろエルヴィン一人でも何ら問題はないだろう。やはり自分は邪魔だったのだろうか。考えれば考えるほど、エルヴィンには自分が必要ないように思える。とぼとぼと廊下を歩いていくとひやりとした空気が頬を撫でた。顔を上げれば視線の先にある窓が開いていて、そこから風が入り込んでいるようだった。誰がこんなところの窓を開けたのか。不思議に思いながら閉めておこうと手を伸ばすと後ろから肩を掴まれる。
「閉めるな」
「…リヴァイ兵長」
「換気中だ」
「換気……お掃除でもしてたんですか?」
「あぁ、久しぶりに天気がいいからな。雪のせいで閉めきってたおかげで兵団内がくせぇんだよ」
「ふふ……そうだ、よかったら私お手伝いしますよ。ちょうど暇になったので」
「…エルヴィンはどうした」
「団長は書類整理なさってますよ。私がいては邪魔になってしまうと思って出てきたんです。お昼頃には戻りますけど」
「…そうか。お前はこの廊下の窓拭きをやれ。やるなら手抜きはゆるさねぇからな」
「はい」
何でも良いから、必要とされたかった。掃除なら一生懸命やればそれだけ成果も見えるし、手を動かしている間は何も考えずにすむ。今のナマエにはそんな時間が必要だ。リヴァイに頭巾を貸してもらい水を汲んで早速窓拭きに取りかかる。自分の手で綺麗になっていく窓を見ていると何だか心まで洗われているような気分になって気持ちがいい。時間が経つのも忘れ無心で窓を磨いていると他を掃除してくると言い残し居なくなったリヴァイが戻ってきた。
「終わったか」
「はい」
「ほう……悪くねぇな」
「ありがとうございます」
「…もうそろそろ昼だが、エルヴィンのところに戻らなくて良いのか」
「えっ、もうそんな時間ですか。じゃあ片付けしてすぐに…」
「あとは俺がやっておく。いいから行け」
「え、でも…」
リヴァイは水の入ったバケツを掴むと軽々と持ち上げさっさとその場を去っていった。取り残されたナマエはしばらく立ち尽くしていたがそのうち踵を返し団長室へと向かう。
「エルヴィン団長、ナマエです」
「あぁ、入ってくれ」
返事が聞こえたのを確認してそっとドアを開ける。部屋を出るときは山積みだった書類はあと数枚というところまで減っていた。
「ナマエ……それは、」
「はい?」
「その…頭の…」
「頭……あっ、いえ、これは……っ!」
はっとして頭に手をやるとかぶったままだったらしい頭巾を素早く外す。すみません、と小さく謝るとエルヴィンは困ったような笑みを浮かべて席を立ちナマエの元へ歩み寄った。すぐ近くで立ち止まり彼女の髪を撫でるようにそっと指先を絡める。
「髪が乱れてしまったな」
「あ、す、すみません…」
「何故そんなものをかぶっていたんだ?」
「その…リヴァイ兵長のお手伝いを…」
「…掃除の?」
「…はい」
「そうか…」
恥ずかしくなり俯いていると不意にエルヴィンの手が頬を滑り上を向かされる。見上げたその表情が何となく不機嫌そうで、ナマエは無意識に身を固くした。
「…団長?あの…、」
「君は私の補佐だろう」
「…はい」
「なら、何故私を放ってリヴァイと一緒に掃除をしているんだ」
「私はただ、団長のお邪魔にならないようにと…」
「私は君を邪魔に思ったことはないよ。誰かに何か言われたのか?」
「…だ、団長が私に出掛けないのかと聞いたので、部屋に居てほしくないのかなと思ったんです。仕事中は大体私も部屋に居るので、一人になりたいのかな、と…」
「…そういうことか」
エルヴィンは小さく笑ってナマエの頬を撫でた。ナマエはと言えばわけがわからずひとり小首を傾げる。
「出掛けないのかと聞いたのは…君の予定を聞いたつもりだった」
「予定…ですか?」
「暇な時期だと言うのに私に付き合わせて仕事ばかりさせているからたまには食事にでも誘おうと思ったんだが、他に約束があっては困るだろう」
「…困りません。もし、他の予定があっても私は団長との時間を優先します」
「…仕事でなくても?」
「仕事でなくても、です」
「…そうか」
エルヴィンは自然と持ち上がる口元を隠すように手で覆うとそれを誤魔化すように顎を撫でた。
「その、…もう数枚書類が残ってるんだが」
「じゃあ、食べたいもの考えながら待ってます」
「そうしてくれると助かる」
すぐに終わらせるよ。そう言ってエルヴィンは早足でデスクに戻り、どこかそわそわとしながら何時にも増して無駄のない動きでペンを滑らせる。普段とは違うその様子が何だか可愛く思えて、ナマエは食事のことを考えるのも忘れてエルヴィンを見つめていた。