気付けば涙が一筋頬を伝っていた。エルヴィンは文字通り名前の前から消えた。正しくは元の世界に帰ったのだ。頭で理解したのと同時に涙が次から次へと溢れてくる。さよならも言えなかった。あまりにも突然すぎる別れに感情だけが追い付いて、名前は拭うこともせずただ涙を流す。

気持ちが落ち着いた頃、部屋には夕日が差し込んでいた。あの雷雨は嘘のように空を橙色に染めている。名前はぐす、と鼻を啜りながら立ち上がると洗面所に向かいとりあえず顔を洗った。そして押し入れからのろのろと空き箱を取り出すとエルヴィンの為に名前が買ったものを一つずつそこにしまう。


「図鑑…これ気に入ってたな…もうこんなにぼろぼろ」


エルヴィンが気に入っていた図鑑は新品だったというのにもう何年も使っていたかのようにページもよれよれだ。それだけ何度も何度も読んでいたのだろう。水族館には連れていったがついぞ本物の海は見せてあげられなかった。名前はエルヴィンの行動をたどるように、彼がしたのと同じようにページを捲っていく。そうしてエルヴィンのことを思い浮かべながらすべて箱にしまうと外はすっかり暗くなっていた。不思議だったのは彼が身につけてきた洋服や靴も一緒に無くなっていたことだ。こちらに来てから名前が買った洋服や日用品、エルヴィンが気に入っていた本もそのまま残っているのに。(彼だけが居ない)

名前はふと直前までエルヴィンの手を握っていた自分のそれに視線を落とした。あの時手を離さなかったら、彼をつなぎ止めておけたのだろうか。もしくは一緒に行けたかもしれないのに。そんなことばかり頭を過る。


「エルヴィンさん…」


今何してますか。無事に帰れたんですか。少しでも寂しいと、思ってくれてますか。


「エルヴィンさん…、」


小さな声で呟いた彼の名前が少し冷えた夜の空気を静かに震わせた。







目を開ければそこは見慣れた執務室だった。先程まで目の前にいた名前の姿は何処にもない。


「帰って来たのか…」


机の引き出しから懐中時計を取りだし蓋を開けるとあの日仮眠とろうと目を閉じたその時間から10分も経っていない。
不思議なことにエルヴィンは兵服を身に付けていた。と言ってもジャケットは仮眠前に脱いですぐ後ろのポールハンガーにかけていたため上はシャツ一枚だ。立体機動のベルト、兵団から支給されるパンツ、ループタイ、全てがいつも通りで。


「夢…だったのか?」


あちらで過ごした時間は、名前というと女の存在は。ふとそんなことを思ったがわずかに手に残る温もりがそうでないと言っていた。ぎゅ、と手を握りしめるとけたたましい音をたてながらドアが開く。そこから砲弾のような速さでハンジが飛び出しエルヴィンのデスクまで走り寄ると勢いよくそこに両手をついた。


「聞いてよエルヴィン!面白いこと思い付いたんだ!これなら犠牲を最小限にして巨人の捕獲、を………エルヴィン…どしたの?」

「…何がだ」

「いや、何か………いつもと雰囲気違うような…あ、わかった寝てたんでしょ!ごめんよ邪魔しちゃって」

「いや……今目が覚めたよ」

「え、今?」


ハンジは首を傾げて疑問符を飛ばす。そんな彼女を見やり、やはり自分は帰ってきたのだとエルヴィンは再認識した。視線を落とし未だ握りしめたままの手をそっと開く。


「エルヴィン…大丈夫?出直そうか?」

「…いや、聞かせてくれ。出来るだけ簡潔に頼む」


壁があり、巨人がいるここがエルヴィンの世界なのだ。別れは惜しいが、名前を連れてきてしまわなくて本当に良かったと思う。案の定余計なことも織り混ぜながら熱く巨人のことを語るハンジを余所にエルヴィンは胸のなかで名前の幸せをそっと願った。