真っ暗な部屋に明かりをつけて、肩からずり落ちる鞄をそのまま床に落とした。夕食用に買った弁当をテーブルにあげてはあ、とひとつため息をつく。
エルヴィンが居なくなって3年が経った。名前はあれから淡々と毎日を送っている。朝起きたらジョギングをしてシャワーを浴びて、朝食を食べて会社に行く。帰ってきたら夕食を食べて風呂に入って寝る。そんな、普通で少しつまらない日常だ。
「あ…今日、だっけ…」
カレンダーの丸印を見てまた少し悲しくなる。今日はエルヴィンがいなくなった日だ。何をするわけでもないのだがあの日の、彼と過ごしたあの日までの時間を忘れたくなくてカレンダーを買うとつい印を付けてしまうのだ。そっと今日の日付を指でなぞってエルヴィンを思う。一頻りそうしたあと名前は手早く夕食を済ませ少し休んでから風呂に入る。もともと長風呂ではないため体が温まれば早々に出るのだが、やはりお湯につからないとその日の疲れが取れない気がしてどうしてもシャワーで済ます気にはなれない。ざぶ、と音を立てて浴槽から上がると上がり湯を浴びて風呂場を出た。
「あれ…」
いざ着替えようとすると下着しか持ってきていないことに気がついた。誰がいるわけでもないし、と仕方なく下着のみ身に付けて体にタオルを巻きつけ脱衣所の扉を開けると足先に触れる床の感触がいつものそれとは違う気がして伏せていた目を開ける。するとそこには見慣れない空間が広がっていて思わずぱちぱちを瞬きをする。
「誰だてめぇ」
「………」
声のする方に顔を向ければ異常に鋭い目でこちらを睨む一人の男が居た。あなた誰、だとかここは何、だとかいろんな言葉が頭を回るがひとつも口から出てこない。ぱくぱくと金魚みたいに口を開けていると話せねぇのかと見当違いのことを言われたのでとりあえず小さく喋れますと答えた。
「で?」
「え…?」
「てめぇは誰だ。兵団の人間じゃなさそうだが…どうやってここに入った」
「わ、私…あの、…わからないんです。お風呂から出たら、何故かここに」
「シラを切る気か」
「そんなつもりは…、本当に…」
どう説明すればいいのかわからない。名前は確かに自分の部屋のお風呂に入っていた。それが扉を開けたら知らない部屋だなんて、某ネコ型ロボットの道具じゃあるまいし。言葉に詰まり思わず俯くと今更ながら自分が下着とタオル1枚しか纏っていないことに気がついて両手で体を抱きしめるようにして隠す(全然隠せてはいないのだけど)。すると男は舌を打ちクローゼットを開けてシャツを取り出すと名前の方に投げた。
「ありがとう…」
「…てめぇは何なんだ。そんな格好で忍び込んでえらく大胆だと思えば今更恥じらいやがる」
「……すみません」
男はまたひとつ舌を打ってソファにどかりと腰掛けた。名前はとりあえずシャツに腕を通しどうするべきかと男をじっと見つめる。しかし彼が何かを言うことはなく鋭い視線のまま、まるで品定めするかのように名前を見つめるばかりで二人の間に妙な沈黙が流れる。しばらくそうしていると静かだったその空間に木が軋むような音が近づいてきた。名前はびくりと肩を揺らすが次第にそれは大きくなり人の足音だと気づく。そしてこの部屋の前でぴたりと止まると数回扉をノックされる。
「リヴァイ、私だ」
「…チッ…エルヴィンか」
「え…?」
男の口から確かにエルヴィンと聞こえた。どくりと心臓が脈打つのを感じ無意識に胸を手で押さえる。そんな名前の反応に男は目を細めるとソファから立ち上がりゆっくりと名前に近づいた。思わず後ずさる名前の手首を引っ掴むと自らの方に引き寄せる。
「お前エルヴィンを知ってるのか」
「え、…わ、わかりません…私の知ってるエルヴィンさんか、どうか」
「……」
名前の瞳は驚きと微かな希望で見開かれ大きな黒目がふるりと揺れる。扉の向こうからもう一度呼び掛けられ、それに男が答えるとゆっくりとその扉が開いた。
「夜分にすまないな……、取り込み中だったか?」
「いや…問題ない」
男の肩口からちらりと扉の方を見るとそこには確かにエルヴィンが居た。はっとして息を吸い込むとエルヴィンの視線が名前を捉える。目が合って、数秒。エルヴィンは手に持っていた紙の束を足元に落とし早足で近付いてくると男の肩をつかんで名前から離した。その弾みで掴まれていた手首が離れぐらりと体が揺れたがエルヴィンがしっかりと抱き留める。
「名前…なのか、」
「…は、はい」
返事をするが早いかきつく抱き締められ名前も精一杯腕を伸ばして背中に回した。少しの間そうしているとエルヴィンは体を離し着ていたジャケットを脱ぐと名前の肩にかける。すると今度は名前を抱き上げまた早足で扉へと向かい足元で散らばっている書類を指差した。
「リヴァイ…すまないが明日までにこの書類に目を通しておいてくれ。あと同じものがもう二部あるからミケとハンジにも渡してほしい」
「あぁ、そりゃ構わねぇが…」
リヴァイはちらりと名前を見る。名前が思わずびくりと肩を揺らすとエルヴィンはぎゅっと腕に力を込めリヴァイから隠すように体の向きを変えた。
「彼女に危険はない。それは私が保証する」
「…そうか、わかった。お前を信じよう」
詳しいことはまた後日話す。そう言い捨ててエルヴィンはリヴァイの部屋を後にした。暗い廊下をしばらくあるくと重厚な扉を開けて一際広い部屋に入る。優しくソファにおろされ、少し待っているように言われおとなしく座っているとエルヴィンは一度部屋を出た。すぐに戻ってきた彼の手にはあたたかいタオルがあって、名前の前にひざまずくと足を丁寧に拭いていく。
「あ、じ、自分で…できますから…」
「やらせてくれ。…ここは君のところとは違って基本土足だから汚れてしまったな」
「あ、あのっ…すみません、いま下着しか、つけてなくて…、その…!」
「…それは、…すまない」
「わああ!顔上げないで!」
シャツの裾を必死に伸ばしているが下から見上げられては丸見えになってしまう。エルヴィンはすぐに顔を伏せて足を拭き終わると立ち上がりまた部屋を出る。そして今度はブランケットを持ってきてそっと名前の足にかけた。
「ありがとうございます…」
「いや……そのままでは私が困る」
「え…?」
「…何でもない…忘れてくれ」
エルヴィンはふい、と顔を背けて口元を手で覆う。名前は自分の知るエルヴィンとは違う様子に首を傾げた。
「………髪が、伸びたな」
「この間ちょっと切ったんですが、もうちょっと切ればよかったかな…」
「切ったのか?この間より長い気がするが」
「この間って…エルヴィンさんが消えてからもう3年も経ってるんですよ?」
「3年?……まだひと月も経っていない筈だが」
「え…?」
エルヴィンは顎に手を当て何やら考える素振りをする。そしてこちらに帰ってきたとき、名前の世界との時間の差があったのだと話した。
「一ヶ月居たのに…たった10分…?」
「どうやら時間の流れが違うらしいな」
「そんな…私は3つも歳をとったのに…」
「落ち込むことはない。君は変わらずきれいだ」
「えっ!?そ、んな…こと…」
エルヴィンは優しく微笑むと真っ赤になって俯く名前の前にもう一度ひざまずいた。そして名前の手を取るとそっとキスを落とす。
「名前…あの日の続きを、話しても良いだろうか」
「え…?」
「君にとっては3年も前のことだから…忘れてしまったかも知れないが、」
「お、覚えてます。あの日のことも、その前のことも全部…エルヴィンさんが何を言おうとしたのか…ずっと気になってました」
「そうか…」
視線を落としどこか嬉しそうに口元をゆるめるエルヴィンに名前の胸がきゅう、と締め付けられる。あの日と同じようにエルヴィンの手を、今度は何があっても離してしまわないようにぎゅっと握り彼の言葉を待った。
「名前…私は君が好きだよ。出会えたのが君で本当によかった」
「っ…、う、うぅぅ…」
「……泣かれると困ってしまうんだが」
「だ、だって…っ嬉しい…、」
「嬉しいということは、名前も私と同じ気持ちだと思っても良いのかな」
「はい…エルヴィンさん、大好きです」
言うが早いかエルヴィンは名前を抱き締め自分の胸に閉じ込めるとその勢いのままソファに倒れる。強く打たないようにと頭の後ろに差し込んだ手をそっと抜くと名前の額にキスを落とし彼女の顔の横にその手をついた。名前は頬を真っ赤に染め涙をたっぷり溜め込んだ目でじっとエルヴィンを見つめる。不意に彼女が目を閉じたのでエルヴィンは思わずぎょっとしたが、同時に愛しさが胸に込み上げ満たされていく。エルヴィンが顔を近づけるときゅ、と閉じる唇をゆるりと撫でて柔らかなそこにそっと口付けた。
end