曇天の空が低く唸る。もうすぐ雨が降りそうだと名前は自宅に向かう足を速くした。マンションに入って間もなく、バケツをひっくり返したような大雨と共に雷が鳴り響く。一瞬点滅する照明に足を止め、何となくエレベーターに乗る気になれず階段で5階まで行くと上がる息にもう若くないなと一人静かに落ち込んだ。


「ただいまー」


小さく言った言葉に返事が返ってきたことはない。しかし小さい頃から挨拶にうるさかった両親を思い出してしまいわかっていても言わずにはいられないのだ。何時ものように靴を脱いで揃え(これも両親の教育故だ)、鞄と帰りに買ってきた夕飯用の弁当を持ってリビングへ向かう。真っ暗なそこに手探りでスイッチを探して電気をつけ、ふと顔をあげるとまるで金縛りにでもあったかのように名前の体はピタリとその動きを止めた。


「……え?」


やっとのことで絞り出した声は静かな部屋に嫌に響く。いつも名前がテレビを見て、くつろぎ、時にはそのまま朝まで寝てしまうこともあるお気に入りのソファに誰か座っている。しかし目の前のその人は置物のようにそこに居るだけで未だ名前の存在にも気づいていないようだった。泥棒だとしたらかなりの間抜けである。
そろりと前に回り込みその顔を見るとどうやら眠っているようで、耳を澄ますとすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえた。それと同時にその整った顔立ちに思わず息を飲む。きっちり分けられた金髪に通った鼻筋、少し厚めの唇、そして服の上からでもわかるその鍛え上げられた肉体。久しく彼氏と言う存在らから遠退いていた名前にとってこれ以上の眼福はない。


「………あ、あの!」


いくら男前とは言えずっと眺めているわけにもいかず、名前は暫く考えたあと思いきって彼を起こすことに決めた。きっとこの人は泥棒ではないと思ったからだ。足元を見ればそれらしく土足ではあるが玄関からここまで足跡があるわけでもなく、また名前は確かに鍵を開けてこの部屋に入った。窓も開いていないしこの部屋が5階ということを含めると無理矢理この部屋に入ったわけでは無いという結論に至ったのだ。


「すみません、起きてください」


軽く肩を揺すると閉じていた双眼がゆっくりと持ち上がる。現れたのは空を写したような美しい青だ。思わず見とれているとその目が名前を捉え無言のまましばし二人で見つめ合う。


「………」

「………」


目頭をおさえ、深く息を吐いた後男は再び名前を見る。そして部屋を見回すともう一度名前を見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「ここは何処だ」