エルヴィンが来てから早いもので二週間が経った。こちらでの生活にもだいぶ慣れ、名前にいちいち尋ねなくても大抵のことが出来るようになっていた。つい先日は名前が仕事から帰るとなんと夕食を作って待っていてくれたのだ。そのとき名前がどれだけ嬉しかったか、きっとエルヴィンには伝わっていないだろう。思わず涙ぐんで逆に心配させてしまったなぁとその時のことを思い出しながら名前は小さく笑みをこぼした。
「名前さん、最近何か良いことありました?」
「え、ど…どうして?」
「何だか明るくなったし、綺麗になったなぁって」
「そ、そんなことないですよ…」
同僚の言葉に何となく顔に熱が集まる。誤魔化すようにパソコンに向き直るとふとエルヴィンのことが頭に浮かびキーボードを叩く指を止めた。
「(何してるかな…今…)」
時計を見ればもうすぐお昼だ。少し早めの昼食をとっているかもしれない。それともまた図鑑を見ているだろうか。エルヴィンは名前がプレゼントした図鑑をとても気に入っていて、特に海の生き物が載っているものは暇さえあればずっと読んでいる。それも子供のようにキラキラと輝く瞳で。写真や絵にあそこまで夢中になれるのだから、本物を見たら一体どんな顔をするのだろう。考え出したら切りがなく今すぐにでも見てみたいという欲求に駆られる。帰ろう。そう思ったら名前の行動は早かった。昼休み返上で仕事を終らせ午後から半休をもらうと急いで家に向かう。普段走っているからそこまで疲れはしないが、肩で息をしながら玄関を開けると丁度昼食を食べ終えたエルヴィンと目が合った。
「名前…?今日はえらく早いな」
「仕事終わらせて帰ってきちゃいました。エルヴィンさん、良かったらこれから少し出かけませんか?」
「構わないが…一体どこへ…」
「それは着いてからのお楽しみです」
部屋に上がり手早く着替えると持ち帰った昼食を食べて出掛ける準備をした。腹ごなしに駅まで歩き、二駅ほど電車に揺られ着いたのは水族館だ。残念ながら海までは少し遠いが、ここならば気軽に来ることができる。
「ここは…?」
「水族館といいます。簡単にいうと、…うーん、海の中を疑似体験…というか、ちょっと違うかな…」
「……海があるのか?」
「実際にあるわけではないんですが、…とにかく中に入りましょう!言葉で説明するより実際に見た方が早いです」
エルヴィンの腕を引き中に入ると受付を済ませ順路に沿って歩いていく。名前は小さいときに来たきりだが、最近リニューアルオープンしたらしく施設はどこも新しい。薄暗い道を少し歩くと一番始めに待っていたのは巨大な水槽だった。まるで本当に海を切り取ったようなその空間には様々な種類の魚がいたし、岩や海草なんかもあって海中そのものだ。
「………」
「この施設で一番大きな水槽ですって…あ、もうすぐ餌やりの時間っぽいですよ」
「………」
「?……エルヴィンさん?」
水槽の前で立ち止まり微動だにしないエルヴィンを見上げると彼は文字どおり固まっていた。水の中を自由に泳ぐ魚たちを目で追い、恐る恐るといった様子でガラスに手を触れる。
「……美しい」
エルヴィンはそれっきり何も話さず、長い時間そこで水槽を見つめていた。無論、名前もそれに付き合う。名前にとっては正直魚よりもエルヴィンの顔を見ている方がよっぽど面白かった。エルヴィンは目の前をひらりと泳いでいくエイだとか、彼がガラスに触れている手に集まる小さな魚たちをとても興味深そうに観察してはほんの少し表情を緩めるのだ。その優しい顔に不覚にも胸が高鳴る。結局エルヴィンが満足したのはそれから一時間経った後だった。さすがに全部の水槽の前でとはいかないが出来る限りゆっくり時間かけて館内を歩き出口につく頃には外は暗くなり始めていた。
「もうこんな時間…夕食は外で食べましょうか」
「あぁ…」
「……疲れちゃいましたか?」
「いや、…そうじゃない。こんなに気分が高揚するのは初めてで、少し動揺しているんだ」
「じゃあ、今日は楽しめました?」
「勿論だ。とても感動したよ…素晴らしかった。……しかし、名前はつまらなかったんじゃないか?」
「そんなことないです。私も来たのは久しぶりですし、それに…良いものがたくさん見れたので」
「そうか…なら、良いんだが」
魚に夢中だったエルヴィンは知らないだろうが、名前が見ていたのはそんなエルヴィンの表情だ。こちらの生活に慣れるにつれて、彼の雰囲気からは不安や焦りのようなものが伝わっていた。何の手がかりもないまま、元の世界に帰れるような兆しもない毎日にそれらの感情が積み重なるのは仕方のないことかもしれない。全てを取り払うことはできないかもしれないが、一時でもそれを忘れ楽しんでくれれば。そんな思いが名前の中には確かにあった。
「(私欲もちょっと混ざってたけど…それくらいはご愛嬌よね)」
「名前…どうかしたのか?」
「ううん…何でもないです。それより早くご飯いきましょう。お腹すきました」
エルヴィンの手をとってすっかり暗くなった道を歩く。いつかこの手を離すときが来る。きっと、そう遠くない未来に。その時もし居合わせたら、自分は笑顔で見送ることが出来るだろうか。名前は胸に芽生えた小さな想いと不安を掻き消すように静かに瞳を伏せた。